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日本軍兵士の強姦心得

2020/1/28

千田夏光は「続・従軍慰安婦」で、1939(昭和14)年から1943(昭和18)年まで、中国北部を転戦した北支那方面軍の兵士M氏から聞いた話として、中国やフィリピンでの強姦の様子を記しています。この話がどの程度信頼できるものなのかはわかりませんが、実際に行われたであろうこととさほどかけ離れていないと思われます。文庫本10ページにおよびますが、要点だけを切り出して要約しました。(千田夏光「続・従軍慰安婦」、P102-P111)

M:「戦友がバタバタ死んでいく戦場で兵隊は刹那的になっていきますよね。えらそうなことを言うのは戦争を職業にする、それで名誉と金が得られる職業軍人だけなんですね」
「そこで慰安婦というものを、えらい人はわれわれ兵隊に与えたわけです。その刹那性をなだめようとして。われわれのためでなく、彼らのためなのですがね」

千:「どういう意味ですか」

M:「兵隊が刹那的になって、手荒いことをすると指揮官である彼らの責任になる、ということです。…ところが兵隊の給料は、たしか一等兵で8円、戦争手当てがついて10円でしたか。… この金額ではロクに慰安婦も抱けない」

千:「どうするのですか」

M:「食糧徴発に行ったついでに、馬をかっぱらって売り飛ばしたこともあります。酒を飲んだ勢いで姑娘(くうにゃん)、娘ですね、それをやったこともあります」

千:「強姦ですね」

M:「はやく言えばそうです。でも殺し合いをさせられ、何日も何日も殺されたり殺したりしている人間を、平和な状態の道徳で律することはどうですかね。弁解ととられるのは勝手ですけど」 …

彼は6年間軍隊にいたのだから、普通なら下士官となるはずなのに"兵隊"でとどめられた…

M:「偉い将校は日本人芸者を呼び寄せ、自分たち専用にしている。それが不愉快で軍旗祭のとき、兵隊仲間をそそのかし、全員が褌ひとつになり急造御神輿をつくり、酒をたっぷり飲んで威勢をつけ、その将校専用の芸者屋へ暴れこんだのです。… 気持ちが良かったです」

ここでM氏が首謀者であることが突きとめられ、以後昇進ストップになったのだという。 … M氏はいったん除隊したあと、昭和18年に再び召集され、フィリピンのダバオに送りこまれた。…

M:「フィリピンの女性は早熟で16歳くらいで結婚するでしょう。それに美人でどことなく兵隊の眼に刺激的に映るものだから……ついに隊長のなかには"女をやるなら娘はいかん、人妻をやれ。そして金を渡せ"と苦し紛れに言う者までいました」

千:「あなたもそのことをなさったのですか」

M:「もう時効で許して貰えるでしょうから話します。やりました」

千:「具体的にそのことを話していただけませんか」

M:「小銃は隊において出かけますが、剣帯はちゃんとしめていきます。が、いざ、強姦する時は、軍袴つまりズボンをおろす前に、釦をはずし、まず剣帯の剣の部分を後ろ、背中のほうへずらすのです」

千:「なぜです」

M:「強姦するときは女を押し倒し、その上にのしかかっていくでしょう。となると、ゴボウ剣は女のちょうど右手のところに来る。そこで上からのしかかりやっている最中に、ころ合いを見はからって女は利き腕、右手でこちらのゴボウ剣を抜いて、脇腹へグサリやらかすのです。何人かこれでやられました」

千:「相手の女性はどうします」

M:「現場をみつければ仲間がやってしまいますが、まず見つかりません犯人は」

千:「つぎはどうするのですか」

M:「軍袴をおろし挑むわけですが、問題は場所でした。必ず原っぱの真ん中、青天井の下でやりました」

千:「なぜですか」

M:「家のなかとか、物かげだと、どこからグサリやられるかもしれませんから。親兄弟、同族の誰かがやるのです。見晴らしのよい広い原っぱだとその心配がなかったということです」

M:「それと時間をかけることも許されない。時間と危険は比例するわけですから」

千:「Mさんの隊にはどのくらいの兵隊がいたのでしょうか」

M:「見習士官が隊長で72人いました」

千:「うち何人くらいがそうした経験というか行為をしたのでしょうか」

M:「大半が戦死しましたけど、ほとんど全員だったと思います」

やがて米軍の爆撃が激しさを増してくると、誰からとはなしに、自分たちの部隊専用の安全な慰安所をつくろう、ということになった。

M:「とはいっても、手近に女はいない。そこでゲリラ掃討に名をかり現地人部落を探し出し、包囲して女だけ引っ張り出してから家という家は焼いてしまいます。男は逃げおくれたのは全員射殺です。いまさら弁解しようとは思いませんが、当時はいささかの良心のかしゃくもありませんでした」

千:「戦争になると尻に帆をかけさっさと逃げる上官、そんな上官の下で何のためにこんなことしているのか、理解できない兵隊としては、ちっとも不思議じゃないのですよ」

大岡昇平はフィリピンの俘虜収容所で、南京での強姦を得意げに話をする日本兵に出会っています。(大岡昇平「俘虜記」,P327-P328)

須田という30過ぎの補充兵である。初期の日華戦争に加わり、南京に入城していた。彼は南京のみならず、その後奥地の駐屯生活中に行った暴行につき、好んで詳細を語ったが、その調子は快活淡泊で、悪事を働いたという自覚は全くないようであった。「何でもかんでも入城式に間に合わせろってんで、あれだけ歩かされた挙句の酒じゃ。兵隊だって処置なしさ」と彼はいった。
須田は弘前の人で、丈は低く痩せて、東北人らしい白い皮膚と濃い髭を持ち、親切でお喋りであった。この陽気な人物の裡(うち)に南京の暴兵の俤(おもかげ)を想像することは、不可能であった。
惟うに女子に対する暴行、或いは一般に性行為について、我々には現行一夫一婦制の結果たる偏見がある。娼婦にきかれるがよい。須田は中国の妻や娘が全く抵抗しなかったといっている。

日本軍が先の大戦で暴虐の限りを尽くしたことは、海外でもよく知られていますが、残念ながらそれは間違いないようです。ここに掲げた帰還兵の「自慢話」は、当時の陸軍も承知していて「支那事変地より帰還の軍隊・軍人の状況」という極秘資料に彼らがどんな話をしていたか、報告されており、東京裁判の証拠として採用されています。(詳細は、弊「南京事件」サイト5.2節、註52-4参照)

戦争で兵士たちが暴虐行為を行うのは、日本軍に限ったことではなく、アメリカやソ連その他の軍隊でもたくさん起きています。そこには、M氏が言い訳にするような戦場心理のほか、古代・中世から綿々と続く戦勝者の権利意識のようなものもあるのでしょう。

しかし、日本軍の場合には、他の国には見られない次のような特質がありました。

(1)圧迫の移譲 … 上位の者が何らかの形で下の者にストレスを加えると加えられた者はさらに下位の者にそのストレスを渡す、これを繰り返すとそのストレスは最下位の者に集中する。最下位の者は必死に堪えるか、自殺するか、又は民衆にその捌け口を求めざるを得なくなる。M氏がさかんに述べている上官への憤懣はこうした圧迫の移譲と無関係ではあるまい。

(2)現地調達主義 … 日本軍は白兵突撃主義による短期攻略戦を基本戦略としたから、補給の重要性はあまり考慮せず、必要な物資は現地調達に依存することが多かった。その結果、現地の民間人から食料などを「徴発」することが当然のように行われたが、「徴発」は現地の民衆と出会う機会を増やし、民衆に暴虐行為をはたらくきっかけを増やすことにつながった。

さらに、暴虐行為を自慢話として受け入れる環境があったのではないでしょうか。今でこそ、このような話を一般の人が賞賛することはないが、当時はそれを許容するような価値観が当たり前のこととして存在していたのかもしれません。戦後、日本を占領したアメリカ軍向けに設置した慰安システムはアメリカ本国からの圧力で廃止されましたが、それは国全体として持っている価値観が現代の我々がもっている価値観に近かったからでしょう。残念ながら、当時の日本の価値観はまだそこまでいっていませんでした。
それは今でも似たようなものかもしれません。「慰安婦制度は必要悪だった」などと平気な顔で述べたてる政治家を許す風土がいまでも存在しているのですから。

以上