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ふつうの日本人の韓国批判

2019/11/24

GSOMIA(日韓軍事情報包括保護協定)はアメリカの圧力で何とか継続することになりましたが、日韓関係は冷えきったままであることに変わりはありません。ある時期、冬ソナブームなるものがあって、一時的に韓国の文化が評判になりましたが、今はふつうの日本人の多くは、韓国を批判的に見る人が多いのではないでしょうか。
先日、ある友人が韓国の慰安婦問題や徴用工問題への対応を批判していましたが、そこで彼が指摘したことは今の日本人が感じていることを代表しているように思いました。以下は、彼の指摘とそれに対する私の回答です。

韓国では、日本に対する恨(エン)の教育をしている。これでは事実を正しく伝えられない。そんな状態で日韓関係がよくなるはずがない!

韓国でご指摘のような教育が行われているのはそのとおり。朴裕河(パク・ユハ)という韓国人の女性学者も次のように述べています。

{ ところで韓国の教科書もまた、「伝統」と「文化」と「誇り」が強調される点では、異なるところがない。 ・・・ 90年代以降、日本の右翼が新たにめざした「国民」づくりは、すでに久しい以前から韓国の教育の中心をなしてきた。}(朴裕河:「和解のために」、P71)

そうした教育は決して望ましいものではありませんが、日本でも同様の動きがあることに留意ください。

国によって歴史事実の見方が異なるのはある程度やむをえません。相手の見方が間違っている、と切り捨てるのではなく、違う見方をする背景は何なのかを理解しようとする姿勢が大事だと思います。

植民地が問題だったというが、植民地を持っていた国はほかにもたくさんある!

多くの日本人はそのように思っているだろうし、正直、私も歴史の流れの中で起こってしまったことで、やむを得ない要素もあると思っています。当時の国際法では植民地の存在を認めており、国際法に違反したわけではありません。したがって、現代になって植民地を持ったことの法的責任を問うことは、事後法の適用という基本原則をやぶり法秩序を乱すことになります。一方で、植民地であったがゆえに、不当な扱いを受けた人たちおよびその人たちの子供らが現在も生きており、精神的身体的に深い傷を負っている人がいるのも事実です。

1998年に採択されたローマ規程などにより、現在では人道に関する犯罪については時効はない、とする考え方が世界の主流になりつつあります。植民地問題についても、法的責任を追及するのではなく、人道的問題として対応していくべきだろうと思います。その際、日本だけが対応する必要があるのか、と考えるのではなく、日本が率先してそういう対応をすることにより、世界のなかでリーダシップを発揮する、というポジティブな考えかたをしたいですね。

ドイツはちゃんと謝っているというが、日本だって河野談話、村山談話などで何度も謝罪している!

下記は、アジア女性基金という元慰安婦へのおわびと補償金を支払う活動をした団体のキーマンだった大沼保昭氏の談です。

{ 興味深いのは、ドイツは戦争責任をはたしているのに日本ははたしていない、という議論は広汎に受け入れられているにもかかわらず、ドイツがはたしてきたのはまさに道義的責任であって、法的責任ではない、という事実がほとんど知られていないことである。
戦争責任に関する日独の比較は、評価が過度の単純化に傾きがちだという点を別にすれば当たっている点が多い。
ブラント、ヴァイツゼッカーにあたる国家指導者を、戦後の日本はもつことができなかった。社会全体の非ナチ化に相当する、国民全体による戦前の大勢の見直しも行わなかった。とくに、1970年代以降の西ドイツにおける戦争責任の内面化の努力は、日本よりはるかに徹底したものだった。}(大沼保昭:「慰安婦問題とは何だったのか」、P178-P179)

ここに出てくるブラント、ヴァイツゼッカーは、ドイツの首相と大統領で、ヴァイツゼッカーの名演説とブラントの膝まづき謝罪、という行為が世界中から評価されましたが、残念ながら日本にはそういう役者はいませんでした。もちろん、そういう演出だけではありません。例えば、日本では河野談話や村山談話を出す一方で右翼系の政治家などが靖国神社へ参拝したり、慰安婦問題の存在を否定するかのような発言を繰り返していました。しかし、ドイツではそのような発言を禁止する法律があったのです。

大沼氏が指摘しているように、法的責任と道義的(=人道的)責任の差がこの問題を大きくしてしまったひとつのキーです。簡単にいえば、日本は諸々の理由から法的責任をとることはできなかった。それでドイツと同様に道義的責任をとろうとした、それを世界も評価した。だけど韓国はそれでは納得せず、法廷責任に固執した。その理由は上記にもあるように、謝罪する一方で「事実」をふりかざす政治家などがいたことも影響しています。それだけでなく、徹底的に日本を跪かせ、過去の怨念をはらしたい、という強い感情もあったでしょう。しかし、現代世界が法秩序を前提に成立している以上、過去の法に不備があったとしても、法は法として尊重すべきであり、そうした意味でも韓国側の対応にもおおいに問題があったと思います。

慰安婦問題の責任の有無を判断する最大の要素に強制連行があったかどうか、があります。否定派の人たちは、それを「なかった」といいますが、正確に言えば「官憲による組織的な強制連行はなかった」であり、それは「事実」です。しかし、組織的でない日本軍人による強制連行はあったし、慰安所の業者による詐欺まがいの連行もありました。国際法で禁止されていた未成年の女性を慰安婦にした、ということもありました。ところが、それで国家の法的責任を追及することは日韓協定の問題もからんでかなりむずかしい。だからといって、そうした事実を知りながら慰安婦システムを運用していたのですから、日本の責任がまったくなかった、というのも無理があります。このように事実の認識というのはとても難しく、一部の政治家などが薄っぺら知識をふりかざして「事実」を主張するのは誤解を招くだけです。

相互不信の連鎖でここまで来てしまったわけですが、「事実」だけをふりかざしても、前には進みません。まずは双方が相手を理解することが出発点ではないでしょうか。

以上