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南京事件は完結したか? … 書評:「完結 南京事件」

水間政憲著 ビジネス社 2017年9月1日 (第1刷)

2019/6/16

「完結 南京事件」は、いわゆる否定本のひとつです。A5判全171ページの単行本で、写真を多用して絵本を見るような感覚で、見ていけるように配慮されています。肯定派との議論を目的としたものではなく、否定論の存在をアピールするとともに、否定派サポーターを喜ばせ、あわよくばシンパを否定派に引き込むことが目的のようです。

図書コードによれば、この本は「社会科学総記」に分類されています。ちなみに、秦郁彦氏や笠原十九司氏、東中野修道氏の本は、「日本歴史」に分類されているものが多いですが、田中正明氏の「南京事件の総括」は「日本文学、評論、随筆、その他」になっています。つまり、この本は歴史学をもとにした本ではないのですが、著者の水間政憲氏は "「法と証拠」に基づいて検証している"、と述べているので、歴史書として実証性と論理性に基づいて評価させていただきました。

目次


1.はじめに

水間先生は利用している資料について次のように述べます。

{ 本書は、パール判決文に敬意を表し、「南京問題」を「法と証拠」に基づき完結することを目的に、南京攻略戦当時の国際連盟議事録を「第一級資料」と評価し、公的資料を「一次資料」、新聞雑誌報道を「二次資料」、そして報道写真の原理原則を充たしている写真を「一次資料」として検証しました。}(P1-P2)

水間先生は、日本の新聞・雑誌などの写真を多用していますが、この頃は戦争中ということもあって、写真を含めて軍の検閲がありました※1。(検閲の詳細は本文6.2.4項※2を参照) 先生が「一次資料」としている写真のほとんどはこの検閲をパスしたものなので、軍に都合の悪い写真はありません。また、これらの写真の中にはいわゆるヤラセ写真※3が混ざっている可能性があります。

写真は訴求力の大きなコミュニケーション・ツールではありますが、あるシーンのある瞬間を断片的に切り取ったものなので、地域や期間の全体を表現したものではないし、見る人によって様々な見方ができる場合もあります。歴史において、写真はあくまでも補助的なものなのです。

また、上記以外の資料について次のように主張しています。

{ … 南京攻略戦に従軍したと称する「虐殺目撃証言」は、特定のイデオロギーに汚染されている可能性があり、同じ部隊兵の裏付けのない証言は信ぴょう性に疑問符がつきます。また、当時の日記も「南京郵便袋虐殺事件裁判」で明らかになったように、戦後加筆した可能性もあり参考資料程度の価値しかありません。}(P2)

うまいこと、逃げ道を見つけましたね。これを理由にして水間先生は事件現場にいた人たち(日本人、欧米人、中国人)が記録した日記や手紙などの資料、日本軍の公式資料である命令書や戦闘詳報、安全区国際委員会の記録なども完全に無視しています。どの資料についても言えることですが、他の資料との整合性を確認する必要があることは論を俟たない原則であり、上記のような理由で史料を忌避していたら歴史学は成立しません。

これではとても「法と証拠」に基づく検証とは言い難く、パール判事も草場の陰で苦笑しているのではないでしょうか。ちなみにパール判事は、証拠不十分で松井大将に無罪判決を出しましたが、南京事件が存在することは認めています。

※1 水間先生は本書で佐藤振壽氏撮影の写真を多用していますが、佐藤氏は次のように述べています。

{ 本社、大阪毎日新聞が、われわれ特派員撮影のフィルムを全部保存していた。そして検閲済のものは「許可済」または「不許可」の判を押して、密着焼のプリントを整理保存していた。戦後、第16師団入城式のファイルを調べていたら、なんと中島師団長の写真には「不許可」の判が押されていたのであった。すなわち新聞に掲載できないのである。}(「南京戦史資料集2」,P615)

※2 "本文"とは、このサイトのメインページで、「HOME」をクリックすれば左側に目次画面が表示されます。

※3 マッカラムの日記{ (1938年)1月9日 難民キャンプの入口に新聞記者が数名やってきて、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は1枚も撮らなかった。}(「南京事件資料集1」,P266)

2.<序章> 米国の歴史改竄

この章の原文のタイトルは、「南京歴史戦は米国の歴史改竄からスタートした」、つまり、南京事件は東京裁判やGHQの日本人洗脳プログラムを通じて捏造されたもの、ということのようです。その根拠としてあげているのは、国際法に違反した原爆投下や東京大空襲などの無差別都市爆撃を批判されることを恐れ、それと同規模の南京虐殺を捏造することによって、相殺しようとした、というものです。

これを証明するため、水間先生は多くのページを原爆、無差別都市爆撃、そしてGHQの洗脳プログラムの解説に費やしていますが、残念ながら南京事件を捏造したという文書などの直接的証拠はみつからなかったようで、ただひたすら、原爆や都市爆撃の悲惨さを訴えています。いくら悲惨さや米国の理不尽さを訴えたところで、具体的な証拠がなければ「法と証拠」に基づいて完結することはできません。

水間先生は、原爆や無差別爆撃はすべてアメリカが悪い、というような書き方をしていますが、私は日本にもいくらかの責任があると思います。原爆や無差別爆撃がなく、本土決戦になったとしたら、連合軍にも多数の死傷者が出るでしょうが、日本側は当時1億総玉砕などと叫んでいましたから、軍人や民間人の死者は原爆や無差別爆撃による死者数を上回った可能性大です。それだけでなく、途中からソ連が参戦してくればややこしいことになったかもしれません。しかし、もっと早く降伏していれば原爆もなく、本土決戦もせずに犠牲を少なくすることができたでしょう。

原爆や無差別爆撃で犠牲になった多数の人たちの霊に報いるために、現代の日本がやるべきことは、2度とこうした悲劇が起らないようにすることではないでしょうか。

また、水間先生はGHQの洗脳プログラムを諸悪の根源のように言いますが、戦前戦中の全体主義(ファシズム)体制下で行われていた言論統制などと比べると、国粋主義者たちはGHQの施策に大きな圧迫感を感じるでしょうが、ふつうの市民はむしろ解放感を感じる人の方が多かったと思います。私の知り合いで戦前を知る人たちからは、市民の言論を取り締まった特高の話はよく聞きましたが、GHQの話はほとんど聞いていません。GHQの洗脳プログラムの後遺症はあるでしょうが、水間先生が指摘するように、現在、中国に比べて日本の方がより多くの自由と民主主義が保証されているのは、そのGHQの施策が少なからず影響しているのは間違いないでしょう。

原爆・無差別爆撃やGHQに限りませんが、物事は必ず多面性を持っています。一面的にとらえず、多面的に見てプラス面とマイナス面を評価していくべきです。

3.<第1章> 中国発の南京虐殺写真はすべて捏造写真!?

この章の主題は上の章タイトルそのもののようですが、中身の半分以上は本多勝一氏と朝日新聞に対する感情的ともいえる憎しみに満ちた言葉――ヘイト・パラグラフと呼ぶことにします――になっています。このようなヘイト・パラグラフは、否定派サポーターを喜ばせるとともに、水間先生の憎しみを発散する効果はあるでしょうが、「熱狂と偏見」を捨て理性によって、南京事件を完結させるための作業とはかけ離れています。

本多氏らへの非難のほかに、日中戦争開始前に松井石根大将が中国に注いだ愛情やそれに反する行動をとった中国に対する非難がありますが、これも写真の真贋の問題とは直接関係ありません。

主題に相当する部分はわずか1ページで、阿羅健一氏が重慶爆撃の写真1枚を「事故写真」と認定した、というだけのものです。中国発の南京虐殺写真は何千枚とあるでしょうが、本多氏が間違えた写真とこの重慶爆撃のたった2枚の写真のキャプションがおかしいから、というだけで何千枚の写真すべてが捏造写真だ、と決めつけるのにはあきれてしまいます。

写真の検証については、東中野修道著「南京事件 証拠写真を検証する」という本が詳しく、143枚の写真を科学的に検証して「証拠写真にならない」と結論づけています。水間先生は、どうしてこういう立派な研究成果を取り込まないのか不思議です。せめて東中野氏の著書に何らかの評価をするのが、「近現代史研究家」としてのマナーではないでしょうか。

確かに中国発の写真には怪しい写真が多いのは事実です。しかし、日本発の写真にもヤラセがあったり、検閲で一面的な写真だけが公開されたりしていて、全面的に信頼できるものではありません。否定派サポーターは写真がお好きのようですが、写真はあるシーンのある一瞬をとらえただけです。平和な風景があってもすぐ隣で悲惨なことが起きている可能性だってあります。事件の全貌を知る主体はあくまでも文書です。

4.<第2章> 中国の内戦から南京陥落へ

水間先生は、この章で1927年の第一次南京事件の頃から、1937年12月の南京陥落に至るまでの経緯を述べています。先生がここで主張したいことは、次の3点であるように思いますので、この3点について評価させていただきます。

(1) 日本は中国の内戦にひきずり込まれた!?

(2) 中国の挑発と暴虐が日中戦争の要因

(3) 日中戦争をしかけたのは中国

(1) 日本は中国の内戦にひきずり込まれた!?

1920~30年ごろの中国には3つの政治派閥がありました。一つは辛亥革命後に実権を握った袁世凱の北洋軍閥の系統で、段祺瑞、馮国璋、張作霖などが北京に政府をおいていました。2つ目は孫文(1925年死去)とその意思を継いだ蒋介石、汪精衛の国民政府、3つ目は毛沢東らの中国共産党です。日本や欧米列強は当初北京政府を承認し、北京政府も列強の権益を保証しましたが、不平等条約撤廃、国権回復を唱える国民政府や共産党の力がのびていきました。

水間先生は、「現在の貨幣価値にして3兆円にもなる円借款を中国は踏み倒した」と3ケ所(P37,P63,P72)で述べています。先生は借款の具体的内容を明らかにしていませんが、1918年に行われた「西原借款」と呼ばれるものに相当すると思われます。それは、日本政府が外務省・大蔵省の正式ルートを経ずに、総額177百万円を西原亀三という私人を通して、北京政府の段祺瑞に供与したもので、公式目的は中国の第一次世界大戦加入促進でしたが、実際の狙いは段祺瑞の北方政権を支援して、孫文らの南方政権を打倒させようとすることにありました※4。いわば、ワイロのような金で担保もロクにとってませんから、回収不能になって当然だったのです。

日本は北京政府を生かして意のままに操ろうとしたのですが、蒋介石の北伐により北京政府は1928年に消滅してしまいます。その後、日本は北京政府系の宋哲元などを利用して、華北を支配下に置こうと画策しました。

こうして見てくると、「ひきずり込まれた」というより、内戦に乗じて勢力拡大を図ろうとした、とした方が妥当でしょう。

※4 秦郁彦:「日中戦争史」,P309-P312

(2) 中国の挑発と暴虐が日中戦争の要因!?

水間先生は、済南事件や通州事件などを取り上げて、中国人の残虐性をことさら強調し、日本を挑発したと主張します。先生はそうした事件が起きる原因については何も語っていませんので、ボーっとしていると、日本は何も悪くないのに中国人がむやみにテロ行為を行ったように思ってしまいます。否定派サポーターはそれで喜ぶでしょうが、いくら何でも何の理由もなしに、そんなことをするわけがありません。

1920年頃の中国は、日本を含む列強との不平等条約や租界とよばれる中国の主権が及ばない地域がたくさんあるなど、半植民地のような状態でしたが、第一次大戦後に世界的に活発化した民族自決の流れの中で、中国の主権回復を求める民衆運動が活発になっていきました。当初、その運動の矛先は中国に最大の利権を持つイギリスに向けられていましたが、1927年にイギリスが漢口と九江の租界を返却するとその矛先は日本に向けられるようになりました。日本も1927年頃までは国際協調、内政不干渉を外交方針にしてきましたが、1927年の第一次南京事件で日本人居留者に被害が出ると、政府を批判する世論が強くなり、強硬方針を掲げる田中義一内閣が成立しました。この転換が如実に表れたのが、済南事件だったのです。

その後、日本は満州事変を起こして満州を属国化し、華北分離工作を行って通州周辺に冀東防共自治政府を設立しました。日本でいえば、他国が北海道を属国化し、次に東北地方を狙ってまずは青森県を支配化においた、そんな状況の中で指をくわえて黙っていろ、という方がおかしいのではないでしょうか。

では、なぜ、日本はそういうことをしたか、理由は2つありそうです。一つは対ソ連防衛策、もう一つは欧米列強への対抗です。松井石根ら軍幹部にはこのころから、満州と華北を日本の勢力下におくという構想がありました※5。また、松井の大アジア主義や、のちに公式声明で明らかにされる東亜新秩序は、これら2つの要素を含んだものです。それは当時の情勢の中で一定の必然性があったのですが、自分の家を守るのに他人の家も必要と考える独善性と、上から目線で中国に大アジア主義などを強いる発想に問題がありました。松井大将は東京裁判の最終弁論で自らを"兄"として位置付けています。

{ 抑も日支両国の闘争は所謂「亜細亜の一家」に於ける兄弟喧嘩にして、日本が当時、武力に依って支那に於ける日本人の救援、危機に陥れる権益を擁護するは、真に已むを得ざる防衛的方便たるは論を俟たず。恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく、…}(「大虐殺事件資料集1」,P274)

松井大将の思想は50年前だったら、世界に受け入れられたかもしれません。しかし、時代は国や民族の主権を尊重する方向に動いていることを松井大将はじめ多くの日本国民は認識できなかったのです。

※5 左春梅:「済南事件と蒋介石・南京国民政府の対日政策の転換(1927-1928)」,関西大学技術リポジトリ、2017/11/15,P63

(3) 日中戦争をしかけたのは中国!?

水間先生は、日中戦争の起点を中国軍が攻撃をしかけてきた第二次上海事変に置き、日中戦争は中国が望んで始めた戦争だった、と主張します。確かに、実質的に日中戦争がはじまったのは第二次上海事変です。日本はこれが泥沼化するとも思わず、一撃で中国は屈服すると信じ込んで、開戦後のプランもないままずるずると戦争に突入しました。

もし、先に攻撃をしかけた方に開戦責任がある、とするならば、太平洋戦争で先制攻撃をしたのは、日本ですから、日本の開戦責任を認めたことになりますが、先生はおそらくそれを否定し、アメリカはその前に経済攻撃を日本にしかけてきた、などと反論するでしょう。

では、日中戦争はどうかというと、中国が上海を攻撃した最大の理由は、前項でも述べた華北分離工作です。満州までは何とか我慢できても、華北まで侵入されてはもう黙っているわけにはいかない、そう考えるのは当然ではないでしょうか。残念ながら水間先生を含めて国粋主義系の人たちは華北分離工作にふれようとしませんが、「法と証拠」は大事ですから、ぜひ、一度しっかり研究してみることをおすすめします。

蒋介石は単独で日本に勝てるとは思っていませんでしたから、長期戦を覚悟し、アメリカやイギリス、ソ連などの支援を得ようとしました。蒋介石が上海を開戦の場に選んだのは、そこが列強の注目をあびる場だったからと言われています。しかし、開戦当初はアメリカもイギリスも中国を冷たい目で眺めるだけでした。そこで、中国得意のプロパガンダ作戦が始まり、日本はこれに敗北しました。日本はプロパガンダが不得意だったということもありますが、私は相手の立場や周りの状況を考えようとせずに、一撃屈服論だけで猪突猛進した当時の日本のやり方にも問題があったと思います。

前の章では本多勝一氏と朝日新聞が血祭にあげられましたが、この章では中国がその攻撃にあっています。人には必ず長所と短所があるように、民族にも長所と短所があります。短所だけをとりあげて、汚い言葉でののしることが「近現代史研究家」のすることとは思えません。

5.<第3章> GHQが創作した(?)ラジオ放送

この章では戦争直後にGHQが台本を作ってNHKがラジオ放送した「真相箱」という番組の台本を検証し、それが捏造されたものであることをもって、南京事件はGHQの創作であることを証明しようとしています。

真相箱の台本が発行されたのは1946年8月25日※6なので、捏造されたかどうかはその時点までに公開されている文書などに同じ内容の記載があるかどうかで判断できます。もし、記載された文書等があってそれが誤りであった場合は、台本が捏造したのではなく、元になった文書等が誤っていたことになります。水間先生は、主として事件発生直後に撮影された写真や新聞記事を証拠として採用していますが、1946年5月~1948年11月に行われた東京裁判の証拠も一部で採用していますので、不適切なものもあります。

検証は、台本を12のブロックに分けて、ブロックごとに行っています。ひとつのブロックに2つ以上の事象があるものが6ブロックあるので、全部で18件の事象を検証していることになります。ここでは、事象単位で水間先生の検証結果とそれに対する評価を行いました。

※6 櫻井よしこ:「真相箱の呪縛を解く」(小学館文庫、2002年8月),P11

(注) 下記リストの見方

Bnx XXXXX・・・  (事象の要旨)  n:ブロック番号、x:1ブロックに事象が2つある場合a,bをつける

→ YYYYYY・・・  (水間先生の検証結果)

☆ ZZZZZZZ・・・  (筆者の評価)

B1a 日本軍が南京城壁に攻撃を集中したのは昭和12年12月7日

→ 南京城を攻撃したのは12月7日ではなく、12月10日でしたので…

<立証> これは当時の新聞等を見ればわかることなので、台本の誤りを立証できています。

B1b 婦女子2万名が惨殺された

→ 1937年12月18日のロンドン・タイムズの記事に「通りには死体が散在したが、女性の死体はなかった、とある。

<証拠不十分> 記者が見た範囲に女性の死体はなかった、と言っているだけで、南京城周辺で女性2万名が殺害されていないことを立証したわけではありません。ただし、私の調べた範囲では婦女子2万名惨殺と記した文書は見当たらなかったので、この表現自身は台本の創作又は誤りだと思われます。

B2a 南京城内の各街路は数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ…

→ 1938年1月27日発行の支那事変画報に掲載された中山路の写真からは血路の様子はうかがえない。

<証拠不十分> この写真は12月13日払暁3時に撮影したとあります。夜明けの3時にしては明るく写っているけど、この時間帯は日本軍の入城直後で、まだ日本軍が暴れまわる前の写真です。

B2b 日本兵士らは、非戦闘員を捕らえ手あたり次第に殺戮、掠奪を逞しくし・・・

→ エスピー米国大使館副領事が東京裁判に提出した文書に「日本人来たれば待望の秩序と統制との恢復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえもありたる…」とあり、それを裏付けるようにアサヒグラフに掲載された写真には、ニコニコ笑っている女性が写っている。

<的外れ> 水間先生は入城前の期待通りに入城後も経過したと言いたいようですが、エスピー副領事は上記文言のあとに次のように述べています。{ 然るに日本軍南京に入城するや、秩序の回復及び既に発生し居りたる混乱の終止どころか、市の恐怖政治が・・・初まりたるなり。}(「大虐殺事件資料集1」,P152)

B3a 軍部が、あらゆる報道の機関を封じて厳重なる検閲を実施した・・・

<立証せず> 水間先生は本件を検証していません。

B3b 大部分の責任がこれを抑え切れなかった軍部自体が負うべきもの・・・

→ 東京裁判速記録に「 …脇坂次郎大佐が難民区内に立ち入ろうとしたが歩哨にとがめられて入ることができなかった」とあり、厳重な管理が行われていた。

<証拠不十分> 脇坂大佐に関する供述は1947年11月10日に行われた個人弁論の速記録にあるもので、それ以前に作成された真相箱の真偽判定には無効です。難民区に歩哨がたっていたからといって、日本軍の責任を回避できるものではありません。(本文6.6.1項参照)

B4a 集団的な掠奪、テロ行為、暴行等 … は市内至るところで行われました

→ これが事実なら1937/9/22の日本軍の南京空爆に米・英・仏が抗議してきた以上の抗議があったはず。南京城攻略要領は厳格だったのでそのようなことが起るはずがない。

<証拠不十分> このような記録は「戦争とは何か」や「ニューヨーク・タイムズ」記事(1937/12/18、1938/1/9)などに掲載されています。もし、この状況がウソだとしても真相箱が捏造したわけではありません。

B4b 南京市民は日本軍が入城すれば、中国軍の暴行、掠奪も終るだろう、と期待した

<合意> 前記のエスピー証言により正しいことを認めています。

B5a 暴行事件は南京初め保定その他華北の占領都市でも見られる

→ 支那事変画報の保定入城写真などをもとに、そんなことがあるはずない、と主張しています。

<証拠不十分> 保定で暴虐行為があったという記録は、私の調べた限りでは見つかりませんでした。しかし、日本軍が検閲した写真だけで結論付けるのは無理があります。

B5b 日本軍将校の中には自ら街頭に出て掠奪を指揮したものもいた

→ 朝日新聞をけなしたあと、日本軍検閲済みの写真を使って掠奪や虐殺は行っていない、と主張しています。

<証拠不十分> 日本が検閲した写真だけで結論付けるのは無理があります。

B6 捕虜となった中国兵を4,50人ずつロープで縛り、惨殺したのも将校の命令だった

→ 日本軍は捕虜を処刑していません。捕虜になれる資格を捨てたゲリラを処刑したのです。日本軍はポケットに陸軍刑法を携行しており、戦時国際法を遵守していました。捕虜を丁重に扱っている写真もあります。

<証拠不十分> ベイツが国際委員会文書第50号にこの事件を記録しています。ここでは「将校の命令で惨殺した」と言ってるだけで、国際法違反かどうかは関係ありません。

B7 老ひたるは60才の婦人から若きは11才の少女まで強姦した

→ 「街頭や家庭の婦人を襲撃」など、ニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズには報道されていません。ここでも本多勝一や朝日新聞の非難でごまかしています。

<証拠不十分> 婦人への暴行は、ニューヨーク・タイムズ記事(1937/12/18、1938/1/9)に掲載されているし、「戦争とは何か」や国際委員会の文書などにも多数記載されています。

B8a 中国赤十字社の有する棺桶を奪って炬火の薪に使用、赤十字作業夫の多数が惨殺された

→ 日本海軍が保国寺難民キャンプを整備したことに対して中国赤十字(世界紅卍会)から感謝状をもらった、と述べています。

<的外れ> 「戦争とは何か」に本件に類似した記述があります。水間先生は、台本の記述内容については何もふれず、関連のありそうな紅卍会から感謝状をもらった、とだけ言っていますが、中国赤十字に該当するのは紅十字会という組織で、紅卍会とは無関係です。

B8b 発電所では日本軍により技師54名が殺害されました

<立証せず> 水間先生はこの事件を無視していますが、「戦争とは何か」やマギーの日記などに記載されています。

B9 試し斬りされた数名の者が病院に運ばれましたが、多くは負傷のために絶命していました

→ ニューヨーク・タイムズの記事を引用して、日本軍は中国軍負傷者を救済し、献身的に治療を行った、と主張します。

<的外れ> 台本が述べているのは、負傷した中国兵でなく、試し斬りされた人です。水間先生はそのことには一切触れず、日本軍は優しかったという印象操作をしているだけです。なお、これとほぼ同じ内容が、国際委員会第50号文書に記載されています。

B10 日本軍飛行機が宣伝ビラを撒き、… 数千人の中国人が避難先からわが家へ帰ったが暴行された

→ 宣伝ビラにはふれず、南京城外の写真を見せて「のどかに野良仕事に精を出していた…」と述べます。

<証拠不十分> 日本軍の検閲というフィルターを通した写真だけで、台本が捏造したものだ、と結論付けるには無理があります。なお、私の調査ではビラをまいた事実は確認できませんでしたが、安全区にいた難民に帰宅命令が出て、帰宅したところ掠奪や強姦などの暴行にあったという記録は「ミニー・ヴォートリンの日記」や国際委員会の第56号文書などから確認できます。

B11 日本軍は大晦日の夜、翌日行う住民の「発意」による祝典のために、日章旗を作れと厳命した

→ 「日章旗を作れと厳命した」にはまったくふれずに、北京や天津でも日の丸は翻っていた、などと書いたあと、祝典とか日章旗とはまるで無関係の林芙美子のレポートについて延々と書いています。

<立証せず> 日の丸を作らせたことについては、「戦争とは何か」に記述されています。

B12 昭和13年3月、東京放送局は「南京で惨殺などを行った無頼の徒は蒋介石軍の兵士で、厳罰に処せられた」と放送した

→ 東京放送局の放送などにはまったくふれずに、1938年3月28日に維新政府が成立したことや小林秀雄の南京レポートを掲載しているだけです。

<立証せず> 東京の放送局がこのような放送をしたかどうかについては、確認できていません。

以上をまとめてみると、次のようになります。

台本の記載内容が誤りであることをきちんと立証できているのは、わずか1件しかありません。半数の9件は、証拠能力の極めて低い検閲後の写真を使ったり、誤りであることを証明する論理展開に不備があります。また、<的外れ>と<立証せず>を合わせた7件は、台本の内容を正面から検証しようとせず(できなかったのでしょう)、類似の事象などでごまかそうとしています。結局、台本が捏造されていることは論証できていませんので、南京事件はGHQの創作という主張も虚構の主張である、ということになります。

なお、同じ台本について私が検証した結果(弊サイトの小論報「真相箱の南京事件」)では,事象の約70%は当時の文書に準じて書かれており、GHQが独自に捏造したということは確認できませんでした。

6.<第4章> 南京虐殺事件問題に終止符を打つ決定的証拠

いよいよ最後の章です。水間先生は、{ それでは本書の核心を解説します。}(P155) と述べているので、これから述べることが最も言いたかったこと、あるいは「完結」と名付けた理由であるようです。その主旨を要約すると次のようになります。(文中の(1)~(7)は、その下に記した検証項目に対応します)

{ 南京事件の範囲は孫宅魏氏が述べたように、南京"城内"だった(1)。埋葬者数は1,793体(2)(うち、女8体、子ども26体)であり、これらのほとんどは傷病兵だった(3)と判断できるので、南京事件による民間人の死者数は34人だった(4)といえる。
埋葬者数は、これまで紅卍会の記録43,071体と認識されてきたが、新たに発掘した資料によれば、33,733体が正しい(5)。この数字は、中華民国が出版した資料に掲載されている南京攻略戦による死者数33,000体(6)とほぼ一致する(7)。}

水間先生の論述について、順を追って検証してみます。

(1) 南京事件の範囲は"南京城内"か?

水間先生は、南京事件の地理的範囲を南京城内とする論拠について次のように述べます。

{ 1997年12月、東京で開催された「南京大虐殺60周年国際シンポジウム」で、… 笠原十九司氏が 、「ラーベは5~6万と言っているが、彼の目の届かない郊外や、彼が去った後の犠牲者数を足すと30万人ぐらいになるはず」との見解を述べたところ、中国を代表して参加していた孫宅魏氏は、「30万人は南京城内だけの数字である。地域や時期を勝手に広げてもらっては困る」と異議をとなえていたのです。※7(P146-P147)

孫氏は口頭のやりとりで「南京城内だけ」と発言したかもしれませんが、公式議事録では次のようになっています。

{ 私は南京のまわりの県を含めるという笠原先生の意見に賛同する。しかし犠牲者数については問題がある。私たちが言っている30万というのは、まわりの6県その他地域を入れていない。}(藤原彰編:「南京事件をどうみるか」,P146)

孫宅魏氏が30万とする根拠の一つである千人以上の集団虐殺10回は、草鞋峡(57千)、燕子磯江周辺(50千)、宝塔橋・魚雷営一帯(30千)、水西門外・上新河一帯(28千)、中山埠頭(5千)、下関一帯(4千)、… など※8(カッコ内は犠牲者数)、これらはすべて城外です。ほとんどの研究者は「城内とその周辺」を自明の理としているので、孫氏は「その周辺」を略したのでしょう。水間先生もそのことを知らないわけがなく、ちょっとした言葉の揚げ足をとって、持論を展開するのは研究者の風上にもおけないやり口であるだけでなく、一般の人を欺くに等しい卑劣なやり方です。

※7 この情報の出所は秦:「南京事件 増補版」,P292 と思われます。

※8 藤原彰編:「南京事件をどうみるか」,P78-P79

(2) 城内の埋葬者数は1793体?

1793体は城内での死者数ではなく、城内に埋葬された遺体数です。城内での死者数は厳密にはわかりませんが、遺体収容場所≒死亡場所とみてよいでしょうから、収容場所をキーにして数えなければなりません。「完結 南京事件」の148,149ページに載っている表をよく見てください。上から2番目の行のタイトルは「埋葬箇所」になっており、死体数は埋葬箇所ごとに記入されています。そして下の備考欄には「城内に在りしものを納棺」などと遺体の収容場所が記述されています。

収容場所をキーにして集計してみると「城内での死者数」は、紅卍会の収容分だけで4,758体になります。(弊サイトの本文4.7.5項) なお、4,758体のうち女性は78体、子どもは46体です。

(3) 男性の遺体はすべて傷病兵?

水間先生は、ニューヨーク・タイムズに{ 病院はおびただしい数の傷病兵をさばききれず … }とあるのを根拠に城内の死者数のほとんどは傷病兵だった、としていますが、であれば収容場所は病院があった場所の近くに集約されるはずです。城内のほぼ中心にある外交部(外務省)の建物が病院になり多くの傷病兵が収容されていたことが知られていますが、埋葬記録の収容場所にそのような名前はなく、「古林山上」「五台山荒山」、「清涼山墓地」など、とても病院があったとは思えない場所ばかりです。

(4) 民間人の死者数は34人?

34という数字は女性と子供の遺体数と思われますが、中国軍には女性兵士もいました(弊サイト本文4.1.5項)から、女性は兵士でない、と断言できません。水間先生は男性のほぼ全員は傷病兵と推定していますが、市民が城内で殺害された、という記録は安全区国際委員会の記録に多数ありますし、スマイス報告では少なくとも2400人が城内とその周辺で殺害された、と推計しています。もし、34人と推定するのであれば、田中正明氏が「信頼できる」としているスマイス報告が誤りであることを証明する必要があります。

(5) 紅卍会の埋葬者数合計は33,731?

{ 東京裁判に提出された紅卍会の埋葬記録は、表形式のものと明細が羅列された「個別統計表」の2種類あり、両方とも合計値は43,071となっていたが、表形式のものは水増しされており、「個別統計表」の合計値33,731が正しい }(P151-P156) と、水間先生は主張します。その根拠は箇条書き形式では加筆する隙間がない、1937年4月16日の大阪朝日新聞の記事にある{ これまで城外で片づけた遺体30,311体 }と「個別統計表」の城外の合計値31,940体がほぼ一致する、の2点にあるようです。

まず、大阪朝日新聞の30,311と31,940の差は、4月16日以降の埋葬数だと水間先生はおっしゃいます。だとすれば4/16以降の埋葬数は31,940-30,311=1,629体のはずですが、「個別統計表」の4/16以降の埋葬数は3,168体で、1,530体も多く辻褄があいません。否定派サポーターはこの程度のことで納得させられるでしょうが、科学と名のつくカテゴリーに設定されている本であるならば、もっと丁寧に見てほしいものです。

私が「完結 南京事件」に掲載されている「個別統計表」の明細を加算したところ、表形式の数字43,071(城内含む)との違いは、12/22から2/7までの明細7件、合計9,389体がまるまる抜けていることがわかりました。明細7件は、記入用紙1段(又は1ページ)分に相当するので、何らかの理由でこの部分がそっくり抜けた、と考えるのが自然です。ただ、12/28の6468体は埋葬地も収容地も記載されておらず、不審さがぬぐえないのは事実ですが、"新発見"の「個別統計表」と従来からの「図表型統計表」は同じものと見て良いでしょう。

(6) 南京攻略戦による死者は33,000?

水間先生は、何王欽の軍事報告書の第4戦区(正しくは第3戦区)の死者数は33,000といいますが、第3戦区には南京攻略戦の前に行われた上海戦を含んでいると思われ、南京戦の死者数は半分かそれ以下になります。また、こうした報告書では国民の士気をあおるために戦死者数をできるだけ少なく見せる傾向があり、さらに南京戦で中国軍は統制なくチリジリに敗走していますので、正確な戦死者数を算出するのは困難だったと思われます。したがって、この報告書の信頼性は疑わしいと言ってよいでしょう。

南京攻略戦の中国軍戦死者数(不法殺害含む)については、その当時の南京衛戍司令長官部参謀処第一科長譚道平が36千と推定、孫宅魏は90千、日本の南京戦史は4.6千、秦郁彦氏は6千、笠原十九司氏は10~12千など、研究者により大きくばらついています。(秦:「南京事件」,P312)

(7) 埋葬者数≒将兵の死者数とする意味は?

埋葬者数(=死亡者数)が戦死者数と同等であれば、市民の殺害者はほとんどない、と言いたいのでしょうが、これまで述べてきたように、埋葬者数と戦死者数が一致するという論拠はきわめて弱く、その主張は成立しない、と言ってもよいと思います。

以上、検証してきたように水間先生の"決定打"はピッチャー・ゴロで終わりました。今まで検証してきたことに加え、次の3点を追記してこの章を終わります。

7.間違いだらけの「完結 南京事件」

このレポートではすでにたくさんの誤りを指摘させていただきましたが、他にもたくさんの誤りがあります。誤字、曲解、論理矛盾などの間違いは、ざっと数えただけでも30件以上になります。以下、いくつかの例を記します。校正を行う出版社にも問題があり、活字にして書店にならべる書籍としてはいかがなものかと思わざるをえません。

(1) 誤字の例

(2) 曲解

① 日本軍は安全区に1発の砲弾も打ち込まなかった。(P11)

→ 誤って3発の砲弾が安全区に打ち込まれています。(ラーベの日記 12月11日9時)

② 1930年代生まれの人たちはGHQの真相箱を聞かされ、洗脳された。(P42)

→ 石原慎太郎、渡部昇一、西尾幹二 これらの方々は1930年代生まれですが、洗脳されたようには見えません。

③ 張作霖が乗っていた貴賓車の写真をもとに爆殺はソ連の仕業であるかのように記しています。(P54)

→ 別冊歴史読本「未公開写真に見る満州事変」には、爆破の瞬間から張作霖の葬儀まで日本軍将兵が撮影した一連の写真が掲載されていますが、張作霖が乗車していた「展望車」は車軸と床を残しただけで屋根も窓も完全に吹き飛んでいます。水間先生が使っている貴賓車の写真もありますが、爆破された車両の近くにあった別の車両と思われます。なお、写真以外の情報からこの事件は日本軍の謀略であることが判明しています。

④ 日本は1937年8月17日に閣議決定をして、同8月13日を正式に「支那事変」の起点としていた。(P73)

→ 同年9月2日、日本政府は北支事変を支那事変と改称しています。これにより、支那事変(日中戦争)の起点は盧溝橋事件とされたのです。8月17日の閣議で決定したのは{ 従来執り来れる不拡大方針を抛棄し、戦時態勢上必要なる諸般の準備対策を講ずる }という方針です。(秦郁彦「日中戦争」、P233)

⑤ (中国は…)「日中間の歴史問題に口を挟むと東京裁判で米国が「南京虐殺事件」を捏造したことをバラすぞ…」と無言で脅しているのです。(P122)

→ おやおや、そうだったんですか。ならば、今、中国はトランプから攻められて苦労しているので、そのうちバラすかもしれませんね。まぁ、トランプは「フェイクだっ!」と叫び、周囲も「そうだ、そうだ!」といって終りでしょうが。

⑥ 本多勝一氏は文庫版「南京への道」で大阪朝日新聞の記事に追記して記事の主旨を改竄した。(P153-P154)

→ 先入観をもって見ると、白いものも黒く見えてしまいます。たまたま、引用した記事と次の段落の切れ目がページの境目で、記事に続けているように見えないことはないですが、追記したという段落をしっかり最後まで読めば、記事とは別の内容であることはすぐにわかります。

⑦ この判決確定表から、南京において「平和に対する罪」にあたる「南京大虐殺」は行われていなかったことを、らずも東京裁判が証明していることになります。(P170)

→ 「平和に対する罪」は、侵略戦争などを計画,開始,実行した罪のことをいいます。南京事件は捕虜や民間人の不法殺害で構成されていますので、「通例の戦争犯罪」として裁かれています。水間先生は、「近現代史研究家」ですから上記のようなことを知らないはずがないのに、何をもって「南京大虐殺」を「平和に対する罪」としたのか、不可思議です。

(3) 論理矛盾

8.まとめ

私が「完結 南京事件」を評価してみようと思ったきっかけは、ネットで南京事件を調べていて、最新の否定本であるにもかかわらず、肯定派からの批判がまったく見当たらなかったことにあります。ただ、私もその理由はうすうすと気がついていて、二の足を踏んだのですが、まっいっか、と大して意味なく踏ん切りをつけて始めました。やってみて良かったのは、日中関係史をもう一度勉強しなおせたことです。これを機会に10冊近い本を購入し半分くらいは目を通しました。

しかし、実際にやってみて、かなりびっくりしました。まず、論理の飛躍や矛盾があるのは否定本につきものなのですが、誤字や文章の初歩的誤りがたくさんありました。また、特定の個人や集団を感情的な言葉で攻撃する段落があちこちに出てきて、そこまでやらないと否定論は成立しなくてなっている、らしいと思いました。これでは、誰も批判をしようという気にならないのは当然ですね。

もし、誰かに「『完結 南京事件』ってどんな本?」、と聞かれたら、次のように答えるしかありません。

ヘイト・スピーチならぬヘイト・パラグラフが随所に出てきて不快感で胸が苦しくなるかもしれないよ。それに、フェイク・ニュースならぬフェイク・ストーリーも隠れているから、歴史書として読むのではなく写真付きの物語として読んだ方がいいと思うよ・・・

以上