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5分ではわからない南京事件

2019/5/12

Yahoo!から"南京事件"で検索したときに、上位5位以内に入るコンテンツに「5分でわかる南京事件!大虐殺の原因と真相を分かりやすく解説!」というのがあります。ここではそのコンテンツの批判をしています。

目次

このコンテンツは、本の紹介会社のサイトで、ソフトな文体で南京事件の経緯や原因などを述べた後、「事件の真相についてはまだまだ解明されていない…」「南京事件について深く知るためには、…多面的に考えていく必要があるでしょう」と結んで、その後に6冊の本を紹介していますが、いずれも否定派系の本ばかりで、これらを読んでも多面的に考えることも南京事件を深く知ることもできません。
南京事件についていくらかでも知識のある方々は、すぐにこれが否定派のコンテンツであることに気がつくと思いますが、南京事件をよくご存じない一般の方はこのコンテンツを信じてしまうかもしれません。
このレポートでは、そうした方々のために、このコンテンツの誤りを指摘させていただきます。


決定的証拠がない!?

このコンテンツでは、「写真は合成と疑われるものしか残っておらず、旧日本軍が行ったとされる決定的証拠が出ていない」と述べます。確かに南京事件関連の写真には、南京事件とは無関係の写真、キャプション(説明文)が不正なもの、演出による写真、などが多いですが、なかには事件の存在を証明する写真もあります。例えば、揚子江岸で後ろ手に縛られ黒焦げになった死体群を撮影した村瀬守安氏の写真などがあります。(詳細は、私のサイトの本文6.4.3項を参照ください)

後述しますが、事件の存在を裏付けるのは写真だけでなく、日本軍の公式記録、現場にいた将兵や外国人の日記や記録、など文書による証拠が多数あります。

南京事件が起こった原因

このコンテンツは、事件が起きた原因として、次の3つをあげています。

① 南京攻略戦で日本軍に多数の死傷者が出て、兵士の目の色が変わった。

② 中国軍の司令官 唐生智が敵前逃亡し、日本軍は降伏勧告をしたが返答なく、攻城戦から殲滅戦に切り替えて南京に入った。

③ 便衣兵(≒ゲリラ)に悩まされていた日本軍の対処(=処刑)が、中国は民間人の殺害と主張し、否定派は正当な軍事行為だと主張している。

①と③も問題あるのですが、②はまったくの誤りです。事実関係は、12月9日開城勧告、同10日総攻撃開始、同12日夕方 唐生智逃亡、13日南京城陥落、となります。

事件はなかったかもしれない、と言っている著者がここであえて原因を上げる理由はわかりませんが、あったとしてもやむを得ない事情があった、とでも言おうとしているのでしょうか。ちなみに、歴史学者たちが指摘する主たる原因は、急激な進軍による士気や軍紀の低下、捕虜収容体制や憲兵体制の未整備、占領後軍政計画の不在、などです。(詳細は私のサイトの本文8.2節を参照ください)

事件の真相は解明されていない!?

南京事件は多数の事件の集合体ですが、捕虜殺害、便衣兵殺害、市民暴行の3つに類型化できます。個々の事件があったことを示す史料はたくさんありますが、捕虜殺害と便衣兵殺害については主要事件についての主な史料をリストし、市民への暴行は個別事件が小さすぎるので包括的に記録した主な史料をリストします。
なお、ここに掲載した史料のほとんどが事件の起きたときに作成された一次史料、つまり信頼性の高い史料です。

(注1) 史料名の後ろにつけた※nは、その史料を収録している文献などを示します。

(注2) 「史料」の※印は史料が収録されている文書などを示します。どの文書かは末尾に記しました

(注3) 「犠牲者数」はその史料に記載されたものです。

(注4) 「本文関連個所」は、その史料の詳細等について記した私のサイトの本文における章節項の番号です。

(1) 捕虜殺害

下記の例は公式記録等に"俘虜は処断"した、などと記載されているか、複数の史料に同じことが記述されているものです。いったん収容した捕虜は、「逃亡、反逆などがあれば現行犯で処断できるが、通常は裁判手続きが必要だった」というのが歴史学の専門家による国際法の解釈です。(後述)

捕虜殺害の主要史料

(2) 便衣兵殺害

市民の服に着替えて逃げ込んだ便衣兵を摘出してそのまま殺害したケースです。こちらは、日本軍の公式記録以外に外国人などによる目撃証言もあります。便衣兵についても、現行犯での処断は認められていますが、市民と兵士を峻別するための裁判が義務付けられていた、というのが歴史学の専門家による国際法の解釈です。(後述)

便衣兵殺害の主要史料

捕虜や便衣兵殺害の合法性について

捕虜及び便衣兵の殺害は合法である、という主張もありますが、2000年前後に史実派の吉田裕氏と否定派の東中野氏の間で論争が行われ、捕虜にしろ便衣兵にしろ、裁判なしで処刑するのは不法、ということで決着がついています。(詳しくは本文6.5節を参照ください) その後も否定派のなかには同じ議論を蒸し返す人たちがいますが、吉田裕氏の主張にまともに反論できているものはありません。

(3) 市民への暴行

市民に対する掠奪、強姦、殺傷など暴行事件の記録は、中国人被害者の証言もありますが、安全区国際委員会などの外国人による記録が多いです。

市民への暴行に関する主要史料

(注) 史料の収録文書名

  • ※1 小野賢二他:「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」
  • ※2 偕行社:「南京戦史資料集」
  • ※3 偕行社:「雑誌偕行 証言による南京戦史」
  • ※4 冨澤茂信:「南京安全地帯の記録」
  • ※5 南京事件調査研究会:「南京事件資料集1」
  • ※6 南京事件調査研究会:「南京事件資料集2」
  • ※7 洞富雄:「日中戦争 南京大残虐事件資料集2」
  • ※8 ジョン・ラーベ:「南京の真実」(ラーベの日記)
  • ※9 ミニー・ヴォートリン:「南京事件の日々」(ミニー・ヴォートリンの日記)

(4) 包括的な史料

これ以外に、事件の存在を包括的に証明する次のような史料もあります。

① 松井大将が処刑前に残した言葉

{ 南京事件はお恥ずかしい限りです。・・・ 日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。・・・ 折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。}(花山信勝「平和の発見」、秦郁彦:「南京事件 増補版」P45-P46より再引用)

② 参謀総長"戒告"

陸軍参謀本部は1938年1月9日、参謀総長名で「軍紀風紀に関する件通牒」という文書を送付していますが、こうした文書を天皇が任命した現場司令官あてに送るのは極めて異例で、秦郁彦氏はこれを「戒告に相当するもの」と述べています。少し読みにくいですが、原文の一部を引用します。(カタカナはひらがなに直してあります)

{ … 就中軍紀風紀に於て忌々しき事態の発生近時漸く繁を見之を信せさらんと欲するも尚疑はさるへからさるものあり
惟ふに一人の失態も全隊の真価を左右し一隊の過誤も遂に全軍の聖業を傷つくるに至らん
須く各級指揮官は統率の本義に透徹し率先垂範信賞必罰以て軍紀を厳正にし戦友相戒めて克く越軌粗暴を防ぎ各人自ら矯て全隊放銃を戒むへし特に向後戦局の推移と共に敵火を遠さかりて警備駐留等の任に著くの団隊漸増するの情勢に処しては愈々心境の緊張と自省克己とを欠き易き人情を抑制し以て上下一貫左右密実聊も皇軍の真価を害せさらんことを期すへし ・・・ }(「南京戦史資料集」,P565)

③外務省東亜局長 石射猪太郎の日記

1938年1月6日の日記に次のように書かれています。

{ 上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。・・・}(石射猪太郎:「外交官の一生」、P298)

類似のものはほかにもたくさんありますが、このくらいにしておきます。

解明されていること、いないこと

ここまで見てきたように、南京事件があった、ということは間違いのない事実です。もし、ないことを証明しようとしたら、上記のような証拠史料の内容が間違いであることを具体的に指摘しなければなりませんが、否定派の主張は、中国のプロパガンダ、中国兵がやったという証言がある、国民政府の顧問だった外国人が書いた史料はウソに決まっている、事件を見たことも聞いたこともないという証言がある、など状況証拠ばかりです。

解明されていない――正しくは近現代史の専門家の間で合意形成されていない――のは、犠牲者数です。その理由には次のようなものがあります。

a) 事件の地理的、時間的範囲

中国を含めてほとんどの専門家は、東京裁判における定義、すなわち、地理的には南京城とその周辺、時間的には陥落から6~7週間(12/13~2月上旬まで)、としていますが、笠原十九司氏ら史実派(=大虐殺派)は、南京攻略戦の戦区となった南京城と近郊6県全体、期間は日本軍が南京戦区に突入した12月4日頃から、中華民国維新政府が成立した3月28日までとしています。笠原氏らの主張する十数万~20万以上という犠牲者数はこの定義にもとづいています。

b) 犠牲者の範囲

虐殺というと無残な殺し方を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、上述のように犠牲者としてカウントするのは、捕虜・便衣兵・市民で不法に殺害された人たち、とするのが一般的です。戦死者や戦闘に巻き込まれて亡くなった人は含まれません。捕虜や便衣兵を収容したあと裁判なしで処刑するのは不法、ということは専門家の間で合意されていますが、史実派はこれに加えて、陥落直後の追撃戦で戦意を失って逃亡する中国軍将兵を殺害したのは国際法の趣旨に反した行為であり、犠牲者とすべきだ、としています。

c) 捕虜、便衣兵の犠牲者数増減要素

公式記録に掲載する捕虜数は、実際より多くなっている場合が多いと言われていますが、実数がどのくらいかは研究者のカンに頼るしかありません。
逆に、増える可能性もあります。捕虜のなかには、武装解除後に開放したケースや収容所などに収容したケースもありますが、解放後別の部隊につかまって殺害されそうになったという証言や、収容した捕虜の一部を殺害した可能性を示唆するような証言などもあります。

d) 市民の犠牲者数の増減要素

市民の犠牲者数について最も信頼できる史料はスマイス報告だといわれています。スマイス報告は統計的手法により犠牲者数を推定したもので、都市部の兵士暴行による死者と拉致されて戻ってこない者を合わせて6,600人と報告されています。史実派はもっと多い、としてこの数字を使っていませんが、それより少なく見ている研究者もいます。
上記には便衣兵と間違えられて殺害された市民も含むので、犠牲者総数を算定するときはその重複分を差し引かねばなりませんが、それがどのくらいかはわかっていません。

なお、中国の主張する30万は誇大な証言と過大な埋葬者数をもとに算定しており、中国側にも問題視する研究者がいるようです。

否定派には30万を否定することにより、南京事件はなかった、という印象を持たせようという人がいるので要注意です。ちなみに、否定派の象徴的存在である櫻井よしこ氏は犠牲者数を1万人と推定しています。いうまでもなく、1万人はとても大きな数で「なかった」といえる数ではないでしょう。

5分ではわからない南京事件

南京事件の超概要であれば、コトバンクなどに書かれている5~6行を読めばわかりますが、それよりもう少し詳しく、というのであれば、次のようなことが書かれているものを読むべきだと思います。

・南京攻略戦に至る経緯と攻略戦後の歴史の動き

・南京事件を構成する個別事件の概要

・南京事件にまつわる論争の経緯

・事件が起きた原因

例えば私のサイトの第1章にはこれらのことが書かれていますが、全部読むと10~15分はかかるのではないでしょうか。

おすすめの図書

「5分でわかる・・・」のコンテンツで紹介しているのは否定派系の本ばかり6冊ですが、偏向していようがいまいが多様な考え方を知って自分で判断することが大切です。私は、中間派、史実派、否定派の各派の代表的かつ南京事件全体がわかる次の3冊をおすすめします。

(1) 秦郁彦:「南京事件 虐殺の構造 増補版」,中公新書,2007年 <中間派>

この本を読まずに南京事件は語れない、というくらいよく読まれている本で、事件の経緯、何が起きたのか、なぜ起きたのか、そして増補版では論争史もあり、内容も非常に充実しています。秦郁彦氏は日本の近現代史の第一人者で心情的には否定派に近いものを持っているようですが、この本に限らず、どの著書を見ても自らの心情を抑えて事実を実証的、論理的に淡々と語っています。

(2) 笠原十九司:「南京難民区の百日」,岩波書店,2005年 <史実派>

秦郁彦:「南京事件」で唯一、難を言えば、日本軍の史料が主体で中国や欧米人の記録が少ないことです。それを補うのが笠原氏のこの本です。8月に始まった南京空襲から南京に進軍する日本軍の様子などを書いたあと、難民区で起きた出来事を欧米人や中国、日本など幅広い史料をもとに語っています。

(3) 東中野修道:「再現 南京戦」,草思社,2007年 <否定派>

否定派の本は状況証拠を大げさにならべて、否定派読者を満足させようとする本が多く、この本にもそういう要素はあるのですが、否定本のなかでおそらく、唯一、南京事件を構成する個別事件を網羅的に分析しています。否定論を案出するために涙ぐましい努力をした様子がうかがえますが、残念ながらほとんどが憶測になっています。東中野氏の専門はドイツなどの思想史のようですが、一時期は否定派の総大将を務めた方ですので、否定派の意気込みを感じることはできるでしょう。

以上