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誰が第2次大戦を起こしたのか!?

2018/12/3

「誰が第2次大戦を起こしたのか」(渡辺惣樹著、草思社、2017年7月19日発行)という本を友人から紹介されて読みました。その感想や評価をレポートします。

目次


1.何が書かれているか

著者の渡辺惣樹氏は1954年生まれ、米国・カナダでビジネスに従事し、日本近現代史研究家と称しています。この本は、2011年に英語版が出版され、2017年に渡辺氏が邦訳して日本でも発売されたハーバート・フーバー著「裏切られた自由」を読み解くためのガイドブックとして発刊した、と渡辺氏は述べていますが、私にはフーバーの著者などをもとに渡辺氏の歴史観を語るために書かれたもののようにしか思えません。以下、本書の内容を超要約します。

(1) フーバーについて

Herbert Hooverは1874年アイオワ州の鍛冶屋の息子として生まれ、スタンフォード大学を経て鉱山技師となり、鉱山開発で財をなした後、政治家を志した。1928年の大統領選に共和党から出馬して当選し、第31代大統領となったが、1929年に起きた世界大恐慌への対応に思うような成果をあげられず、1932年の大統領選では民主党のF.ルーズベルトに敗れた。野に下ったあとも元大統領として各国の要人と会談するなど活動し、1952年頃から回顧録を執筆、本人は1964年に死去したが、回顧録は紆余曲折を経て2011年に出版された。フーバーは当時のアメリカ世論の主流だった孤立主義者で、回顧録でライバルのF.ルーズベルトを強烈に批判している。

(2) 開戦前夜のヨーロッパ

F.ルーズベルトは、1933年ソ連を承認、渡辺氏はこれを「ルーズベルト外交の最初の失敗」と非難する。続いて、1937年10月5日のルーズベルトの「隔離演説」で日独伊を"侮蔑"し、アメリカ国民の評判は散々だった、という。1938-1939年にドイツが行ったオーストリア併合、チェコスロバキア解体を、第一大戦後に決められたベルサイユ体制の不正義を是正するための行動と評価して、ヒットラーが優秀な指導者であるといいう証言を紹介する。
この頃、F.ルーズベルトはニューディール政策の失敗にあせっていて、戦争経済の好況に期待したのではないか、と推測している。

(3)英仏の宣戦布告と独ソ戦

ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結んだ後、1939年9月にポーランドに侵攻、それに対して英仏が宣戦布告するが、渡辺氏はこの宣戦布告の背後にはF.ルーズベルトがいたという。
1940年6月、ドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まり、英仏及びF.ルーズベルトはソ連を支援する。渡辺氏はフーバーの言葉を借りて、独ソ双方が体力を消耗するまで戦わせればよいものをソ連を支援したために、大戦後の冷戦を招いた。ソ連を支援したのはまったくの愚策だった、とこきおろす。

(4)ドイツと日本の挑発

当時、孤立主義(不干渉主義)が米国世論の大勢を占めており、ドイツや日本と戦争することは世論が認めなかった。そこでF.ルーズベルトはドイツや日本を刺激して戦争をしかけさせ、米国世論を参戦に導こうとした。ドイツに対してはUボートの攻撃などを行った。日本は近衛首相とF.ルーズベルトとの首脳会談を申し入れたが、アメリカはこれを拒否し、最後通牒としての"ハル・ノート"を突きつけ、日本は真珠湾を攻撃し、米国世論を参戦やむなしにまとめ上げることができた。

(5)開戦後の連合国首脳による協議

1943年1月に行われたカサブランカ会談で、日本とドイツに対しては無条件降伏を要求することが決定されたが、その結果戦争が長引き犠牲者数を増やすことになった、とフーバーの回顧録を引用して主張する。
さらにこれらの会談を通して戦後の領土再分配なども協議されたが、ソ連側の主張が大幅に認められ、冷戦の原因にもなった。

(6)おわりに

 南京事件や慰安婦問題が中国や韓国のプロパガンダであることをアメリカは知っているが、F.ルーズベルトとチャーチルの戦争指導の愚かさ、戦後世界の混乱を隠すために、日本とドイツが極悪国家であることにしなければならないのである。アメリカや英国の若者の死が、スターリンの指導する共産主義思想の拡大に利用されただけだとは、けっして言えない。その意味で、日本の中国・韓国(そして北朝鮮)との外交問題は、アメリカが歴史修正主義を受け入れないかぎり続くと覚悟しなければならないだろう。

2.「ルーズベルト陰謀説」

ルーズベルトが第二次大戦を起こした、という説は「ルーズベルト陰謀説」と呼ばれ他にもたくさんの説があります。渡辺氏の説は、それらの説ほど手の込んだものではありませんが、参考までに秦郁彦氏の著書「陰謀史観」(2012年、新潮新書)から、歴史学者の見解をご紹介します。

{ 日米戦争の仕掛け人がルーズベルトかコミンテルンだと聞かされれば、惨憺たる敗北を喫した日本人にとっては聞き逃すわけにはいかないのも人情であろう。なかでも日本だけが悪者にされているという"東京裁判史観"に不満を抱いている人たちは、発信源の多くがアメリカ人だったこともあり、日本側記録との突合せや米国側の背景分析もせず、耳触りのよい情報をウノミにする傾向があった。 ・・・ ルーズベルトが1933年に大統領に就任していらい20年にわたり民主党政権が続いたため、野党の地位に甘んじた共和党系の反感も影を落としている。}

ルーズベルト陰謀説には、真珠湾攻撃を知っていたか予想できたにもかかわらずルーズベルトは何もしなかった、というものと、経済的圧迫などにより挑発した、という2つの系統があり、さらにそれぞれにコミンテルンがからんでいたとする系列に分けることができる。渡辺氏の説はコミンテルンの関与はあまりない挑発説に属する。

ここでは、真珠湾陰謀説――いくつかあるがいずれも秦氏は具体的事実をあげて否定――は割愛して、挑発説について紹介する。

{ さすがに題材も品薄になってきて、めぼしいのは不発に終わった日本爆撃計画とか、死に絶えたスパイたちの「忠誠審査」ぐらいしか見当たらない・・・}

「日本爆撃計画」とは、真珠湾攻撃より前の1941年7月に中国機を装って日本本土を爆撃する計画があり、中国に航空機と操縦士を送り込んだ、というもの。しかし配備された飛行機はフライング・タイガースと命名された旧型機で航続距離が短く大阪や東京の爆撃は不可能だった。

ハル・ノートはコミンテルンのメンバーが作成した、という説が今でもあり、田母神俊雄氏など「大東亜戦争」派の人たちには信じている人たちが多数いる。ハリー・ホワイトというソ連のスパイがハル・ノートを書いたという証言があるが、本人は否認した直後に死亡し、その後の調査でもホワイトはソ連のエージェントではない、という証言もある。1941年11月、日米交渉の最終段階で、日米両国は戦争突入を回避する暫定案つくりに取り組んでいた。アメリカでは国務省が担当していたが、財務省はホワイトが起草した私案を国務省に届けた。そこにはドイツ打倒を優先する立場から日本を宥和するため、20億ドルの供与とか日本の在米資産凍結の解除などが含まれていた。ところが、ルーズベルトは11月26日、日本の大船団が台湾沖を南下中という偵察機の報告を受けたせいか、方針を変え、ハル国務長官へ、強硬な対日通牒を手交するよう命じた。いずれにせよ、ハル・ノートとホワイト案が別のものであることは明らかで、ハル・ノートは国務省が作成したものに間違いない。 と、秦氏は述べる。

{ 「ルーズベルトは知っていた」というたぐいの話は、数えきれないほど出回っているが、裏の取れない噂話のたぐいほど、説得力を発揮するものらしい。}

渡辺氏は公知になっている事実の範囲だけで、主としてフーバーの回顧録をもとにして「戦争を起こしたのはルーズベルトだ」と断言していますが、「裏のとれない噂話」以上に説得力を持っているかもしれません。

3.日米交渉と開戦の経緯

渡辺氏は、他の[大東亜戦争派」と同じように、日米交渉の経緯について詳細には触れず、近衛首相は和解を求めて首脳会談を提案したのに、ルーズベルトは一方的にそれを拒否した、としか記していません。そこで今回は、日米交渉がどのように行われたのか、その事実関係を検証してみます。なお、このサイトの本文5.3節にも同様の記述がありますので合わせてご覧ください。

(1) 日米通商条約の破棄(1939年7月)

38年11月の「東亜新秩序声明」や39年4月~の天津租界事件などを口実に、アメリカは日米通商条約の破棄を通知してきた。

(2) 英仏が独に宣戦布告(1939年9月)

1939年9月、ドイツがポーランドに侵入した直後、かねてからドイツの侵略に警告を発していた英仏はドイツに宣戦布告した。1940年5月、ドイツは大攻勢に出てあっとういまにフランスなどを制覇し、イギリス本土への空襲を開始した。

(3) 日独伊が三国同盟締結(1940年9月)

ドイツの快進撃を見た日本は、"バスに乗り遅れるな"とばかりに三国同盟を締結したが、アメリカにとっては脅威となった。

(4) 日本軍、北部仏印に進駐(1940年9月)

三国同盟締結直後、日本は蒋介石への支援ルートを絶つことを目的に北部仏印(現在のベトナム北部)に進駐。これに対してアメリカは、屑鉄の輸出全面禁止の措置をとった。

(5) 日米諒解案による交渉(1941年4月)

前年秋から日米の民間人ベースで検討されてきた「日米諒解案」を日本政府が了解すれば、近衛首相とルーズベルト大統領の首脳会談を行うことになり、近衛首相はじめ軍関係者も了承していたが、独ソ歴訪から帰国した松岡洋右外相はこれを拒否し、5月に強硬案をアメリカに提示した。

(6) 日本軍、南部仏印に進駐(1941年7月)

石油などの資源を確保することを事実上の目的として、日本軍は南部仏印(現在のベトナム南部)に進駐、これに激しく反発したアメリカは、日本の在米資産の凍結と石油の全面禁輸に踏み切った。南進によりアメリカが経済制裁を強化するリスクは、松岡外相などが指摘していたが、「仏印だけで蘭印に手をつけなければ米国は動かないだろう」という希望的観測のもとに強硬派の意見を採用した結果だった。

(7) ルーズベルトの仏印中立化提案(1941年7月)

石油禁輸の発表に先立ってルーズベルト大統領は、7月24日、「仏印から日本軍が撤兵すれば、仏印は中立化し日本の物資調達にも協力する」と提案したが、陸軍が「撤兵は南進方針をくつがえすことになる」と強硬に反対したため、拒否の回答をしている。

(8) 日米首脳会談に至らず(1941年8月)

近衛首相はルーズベルト大統領との首脳会談を決意し、アメリカ側に申し入れた。ルーズベルト大統領は乗り気だったが、ハル国務長官は「事前に日米間の基本問題について合意が成立しない限り首脳会談はできない」と回答、首脳会談を開くことはできなかった。

(9) 開戦準備(1941年9月)

9月6日の御前会議で「10月上旬までに外交交渉が決着しなければ開戦を辞さず」、を決定。

(10) 荻外荘(てきがいそう)会談(1941年10月)

10月12日に行われた「荻外荘(てきがいそう)会談」において、近衛首相と外相は「一部譲歩して交渉継続」を主張したが、東條陸相は「開戦を決意すべき」と主張、近衛内閣は閣内不一致を理由に10月16日総辞職した。

(11) 開戦決意(1941年11月)

11月5日の御前会議で、11月末までに対米交渉がまとまらなければ、12月初旬に開戦することを決定。

(12) 最後の交渉(1941年11月)

11月7日、日本はアメリカに正案と暫定案の2つの案を提示したが、交渉に進展はなかった。

(13) ハルノート提示(1941年11月26日)

アメリカも暫定案を用意していたが、日本への回答直前にルーズベルトの指示で暫定案は削除された。削除された原因については、イギリスや中国が暫定案に反対したから、というのが通説である。

アメリカの経済制裁は日本側の行動に対応して行われています。少なくともこれらの行動が陰謀によってしかけられた行動でないことは間違いありません。しかも、石油禁輸という決定的制裁につながった南部仏印進駐については、その制裁を予測する意見があったにもかかわらず、陸軍は強行しています。確かにアメリカの対応は原理原則に固執した頑ななものでしたが、それでも仏印中立化提案という歩み寄りの姿勢もありました。これらの事実を見れば、戦争を起こした責任をすべてアメリカに押しつけるのは無理があります。

そもそも、日中戦争の当事者でもないアメリカがなぜ日本に対して経済制裁をしたのか、という疑問については、日米通商条約を破棄した時のハル国務長官の談話(本文5.3節(2)参照)にもありますが、アメリカは大市場である中国との貿易に期待していた、日本やドイツの軍事力は強大で3国が本格的に連繋すればアメリカにとって大きな脅威になる可能性があった、ファシズムに対する強烈な嫌悪感、などでしょう。

4.まとめ

渡辺氏が「ルーズベルトが第二次世界大戦を起こした」と主張する主たる根拠であるフーバーの回顧録「裏切られた自由」は、戦争の結果がわかっている戦後に書かれたもので、しかもフーバーはルーズベルトの政敵であった人です。渡辺氏が引用した範囲では、これまでの通説を書き換えるような新たな事実が書かれているわけではありません。元大統領の"自分史"として彼が何を考えていたかを知る価値はあるでしょうが、歴史史料としての価値は期待できません。

渡辺氏はヨーロッパが戦端を開く経緯については主な事件をひとつひとつ取り上げ、フーバーの言葉や状況証拠・憶測などをもとに、ルーズベルトは英仏にドイツと戦争を始めるように仕向けた、と述べます。一方で、アメリカが参戦するきっかけになった日本の先制攻撃(真珠湾攻撃)に至る経緯については、近衛首相の首脳会談要求をルーズベルトが拒否したこととハル・ノートについてわずかに触れているだけです。フーバーがあまり日本のことを知らず回顧録にも記載が少ないので書かなかっただけかもしれませんが、ルーズベルトが戦争を起こしたと主張するのであれば、この経緯をきちんと論証すべきです。

こうして見ると、渡辺氏のこの本は西尾幹二氏がいう詩魂のある物語(本文8.1節(3)参照)ではあっても、史実を積み上げて歴史の見方を論証したものではない、といえるでしょう。

ただ、渡辺氏が主張する「ルーズベルトが戦争を起こした」を完全に否定することもできないと思います。歴史上の事件の多くは、その原因や動機をひとことで語り切れるようなものでないことがほとんどで、たくさんの要素がからみあって形成されています。それを単純化してひとことで言い切れば、わかりやすくはなりますが、誤った理解をすることになりかねません。太平洋戦争についていえば、大杉一雄氏の次の言葉が最も的確に表現していると思います。

{ あの戦争は、その失敗が明らかになった日本の中国支配体制を維持・継続するために、南方地域に侵攻した戦争であった。日本は日中戦争の現実的解決を目指したが、原理原則を固執する米国の反対にあい、勝算の乏しいことを知りながら戦争に突入した。侵略戦争であることは間違いないが、しかしそれは避けることができた戦争であり、開戦の責任は日米双方にある。}(「日米開戦への道(下)」、P350)

歴史に限りませんが、わかりやすい答えを安易に求めるのではなく、自らの頭で考えることが大事だと思います。その意味で次の言葉を紹介して終わりにします。

"Never take any Advice that You can understand ... It can't Possibly be any Good!"   Lucy

理解できるような助言はきかないこと・・・ ぜんぜん役に立たないにきまっているわ!  ルーシー

(チャールズ・M・シュルツ 谷川俊太郎訳:「スヌーピーたちの人生案内」)

以上