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1989年(平成元年)に戻りたい?


プロポーズ大作戦偉くなった同級生の話題や役員選挙で役員になってしまった先生、きっかけいろいろ、で最近、「僕の生きる道」はこれでよかったのか、と考えさせられて、プチブルーです。
1978年に東大の泌尿器科教室に入局。超音波やメディカルエンジニアリングの分野でやりがいを感じながら仕事していました。衝撃波結石破砕装置の勉強にドイツに派遣してもらうなど、恵まれた環境で仕事していました。
1987年に教授交代。新教授の得意分野は腎移植。風向きが変わり、私はそのまま傍流になれば良かったのですが、1989年の医局長選挙(立候補者はいつもいなくて、ぶっつけ本番の投票です)で、(たぶん教授がなってほしかった)本命を破って医局長に選ばれてしまいました。
1989年(平成元年)は、私の厄年だったのでしょうか?私を医局長に選んで何かを変えてほしいと願う医局員と、腎移植ではなくレーザー砕石という私の得意分野での新たなテーマを与えてくださった新教授。
生徒会長とか学級委員などが嫌いだったし、体育会系で揉まれたこともなかった私は新教授と医局員との橋渡しができず、4ヶ月で辞表を出しました。短い夏休みに小学3年生の息子と小学1年生の娘と房総半島で海水浴しながら、家族との時間を大切に生きようと思いました。辞表は受理されず、翌年、医長として青山病院に赴任しました。レーザー砕石の研究も中途半端なまま終わりました。
1989年(平成元年)にもっと頑張っていたら別の人生があったのでしょうか?
プロポーズ大作戦では、過去にもどっても人生を変えられませんでしたが、過去にもどったおかげで、現在の考えた方がポジティブになりました。
今、私は、低空飛行ながら軌道に乗ったクリニックの今後の方針について、いろいろ考える時期です。
ローコストで安全に、しかも医局長が勤まらなかった最大の原因である労務管理からも逃れたくて(人を増やすと、いろいろ面倒。今の規模でも時々、土曜日の休み希望がかち合ってしまいます。7月28日(土)と9月15日(土)は事務長が出勤です。大丈夫?)、マクシミリアンスタイルに憧れる私は、縮小路線(皮膚科の標榜を外して、スタッフも削減)に走りたいのが本音です。
でも将来、偉くなった友人をテレビで見て、「2007年にもっと頑張っておけば良かった」と思わないように、クリニックの方針を決めなくては、と思うのでした。

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