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私がクラシック音楽を好きになるきっかけになったレコードがあります。それは、グレン・グールドというピアニストが弾くバッハの「ゴールドベルク変奏曲」というレコードです。当時のLPレコード1枚3,000円は大金で(夕飯の定食が150円の時代でした)、大学生になったばかりの私にとって、レコードを買うというのは大変な決断だったはずなのですが、どうしてその時、突然そんなレコードを買ったのか、今となってはもう思い出せません。しかし、これを聴いて、ピアノというのはこんな風に弾けるものなのかということと、音楽はこういう風に人の心を打つのだということに心から驚いたことを、つい昨日のことのように覚えています。
グレン・グールドというピアニストはまさに「奇才」と呼ばれるにふさわしく、若くしてコンサート活動から身を引いてしまい、以降、50年の短い生涯を閉じるまで、レコードによってしか彼の演奏を聴くことはできませんでした。しかし、その作品の全ては、いずれも名演奏(超演奏)といえるものばかりで、なかでも冒頭に述べたものは、彼のデビュー作であり、そして代表作でもあり、まさに歴史的名演奏の名にふさわしいものです。しかし、残念ながら1950年代半ばのモノラル録音で、今となっては、音質も十分とはいえないものでした。
ところが、その演奏が、何と半世紀ぶりにステレオで再録音されたというニュースが飛び込んできました。もちろん、本人があの世で録音したというわけではなく、残された録音をコンピュータで精密に分析し、鍵盤のタッチの強さや早さはもちろん、ペダルの操作まで完全に復元し、最新の自動演奏機能を持つYAMAHAのピアノを使って録音したものだそうです。いわば、バーチャル・グレングールドの誕生です。
この話を聞いて思い出したのが、「バットマン」の映画の話です。この映画では、バットマンが高層ビルから飛び降りて、ふわりと道路に着地してそのまま歩き出すシーンがときどきあります。これはもちろんCGですが、着地した瞬間からは人間が演技をしているのだそうです。アメリカの俳優組合との申し合わせ事項により、通常の地上のシーンなどではCGは使えない(人間が演技をしなければいけない)のだそうです。なぜならば、それを許せば、いずれ人間の出番はなくなってしまうからだそうです。(今では、さすがに、そういう制限は多少は緩和されているかもしれませんが・・・。)
全てのデータがデジタル化され、それがネットワークで結ばれる世の中では、一瞬にして、世界中の全ての情報にアクセスすることができます。しかしそれは、同時に、リアルとバーチャルの世界が境界線を失っていく世界でもあります。その代表が、最近脚光を浴びている「Second
Life」というサイトです。ここは、いわばゲームの世界で、当然、仮想現実と仮想通貨の世界ですが、あたかも現実のように人々(参加者)は行動し、また、商取引を行うことができます。(仮想通貨を現実の通貨に交換可能。従って、ここで稼いで本物のお金持ちになった人もたくさんいる。)リアルとバーチャルが限りなく接近した代表例だと思います。
話は変わりますが、「あるある大事典」が、必ずしも真実ではない放送をしたということで大きな問題になっています。もちろん、公器たる電波を使って「嘘」を放送するのは論外ですが、ネットワークの先にある膨大なデジタルコンテンツの世界では、既に、リアルとバーチャルの境界線が薄れていくのと同時に「虚」と「実」の境界線も極めて不明確になっています。つまるところ、接した情報がどの程度信頼に足る物であるのかを判断するのは、情報を手にした本人以外にはありません。これからは、一層、情報の受け手の能力が問われるということでしょうか。
私の大好きな寅さんの映画の中に、受験に悩む満男君の「人はなぜ勉強しなければならないのか」という問いに対して、「勉強していれば困ったときに自分で考えて判断できる」と答える有名なシーンがあります。(注)
バーチャルピアノ演奏の話から、寅さんのセリフにまで話が脱線してしまいましたが、Web2.0時代における一人一人の判断能力(いわば「教養」とでも言うべきもの)の大切さについて、最近時々考えています。いささかお説教めいた話になって恐縮ですが、皆さんは如何お考えでしょうか。
(注)全部を引用すると、寅さんは、「つまりあれだよ。ほら、人間長い間生きてりゃ、いろんなことがあるだろう。そんなときに、俺みてえに勉強してない奴は、振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるしかしょうがないんだ。ところが勉強をした奴は、自分の頭できちんと筋道を立てて、『はて、こういうときはどうしたらいいのかな』と考えることができるんだ。だからみんな学校に行くんじゃないか」と言っています。第40作「寅次郎サラダ記念日」の中のセリフです。
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