私の好きな言葉に、「ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)」ということばと「フェアネス(Fairness)」という言葉があります。どちらも少し難しい言葉ですし、私にはやや格調が高すぎるのですが、このところの「ライブドア騒ぎ」を見ていると、この言葉についてつい考えてしまいます。
「ノブレス・オブリージュ」という言葉は、そのまま訳せば「高貴なる者の義務」ということになります。中世のヨーロッパの貴族は、普段は庶民の税金で裕福に暮らしているのですが、ひとたび戦争になれば、「率先して、また、自らの命を賭して、人々の暮らしの平和と安全を守る義務を負う」というようなことが元々の意味だったと思います。人間は、その地位に応じて逃れることのできない義務が課せられているという認識です。(身分社会である西欧特有の「生来の」義務というニュアンスもあり、単なる「責任感」とは相当違うように思います。)
「フェアネス」というのも、かなり難しい言葉で、日本語の「公平」、「公正」とは少し違います。あえて言えば、「機会の公平」が担保されること、すなわち、共通のルールの下で、自分だけが有利取り扱いは受けないというようなことでしょうか。(そういう機会が仮にあったとしても、絶対に「ズル」はしないということ。)アメリカでは「unfair」と言われるのは最大の屈辱だと聞いたことがあります。
余談になりますが、昔、アメリカに初めて出張したとき、高速道路のインターチェンジを抜けるために(右側通行なので)右側車線に延々とかつ整然と並ぶ車列を見てこれが「フェアネス」なんだろうなと思った記憶があります。私はそのとき米国に駐在する先輩の車に乗っていたのですが、私の乗る車は、その車列に最後のところで極めて「日本的な」割り込みをしました。全く油断していた私は、急に進路を振られて、頭を思い切り窓にぶつけたので、そのときのことを良く覚えているのです。それから、アメリカも日本も随分変わりましたから、今では、それほどのことはないと思いますが、それでも、欧米と日本では、特に社会の指導的立場にある人の行動規範の明確さにはまだかなり違いがあるように思います。(善し悪しは別にして)
更に余談を続けますと、リーダー雄ライオンは、いつもハーレムを率いて、食事は一番最初に一番おいしいものを食べ、全く何も働かないそうです。しかし、敵に襲われれば、一族を全て逃がし、自分は最後まで残って戦うそうです。逆に、ある小動物(名前を忘れました)の雄は、普段は全く平等の暮らしをしており、一家の主の特権は一切行使しないそうですが、何かあるときは一番最初に逃げ出すそうです。ある種の「ノブレス・オブリージュ」は動物の世界にすらあるということですが、いずれも「種」を守る為の当然の行動原理ともいえます。
私たちのビジネスの世界は、今までの「護送船団、ローカル・ルール」社会から、「グローバルスタンダードの中での自律した」競争社会に変わりつつあり、そのために自らの行動を厳しく律することを求められるようになりました。その変化を受けて、各社とも、たくさんのコンプライアンスに関わるルールを整えました。当然、これらを犯すことは一切認められていません。
しかし、単にルールだけを守っていればいいのでしょうか。それは少し違うように思います。私は、長く社会人生活をしてきましたから、いろいろな局面に出会いました。ルールでは判断しきれないケース(結構多い)、ルール違反ながらその方が正義に叶っていると思われるようなケース、ルールを守ると著しく不利益となるケース・・・。そして、そのとき最終的に自らを律するのは、「ルール」ではなく、それ以前にある、自らの「行動原理」だということを何回か思い知らされました。
今回あげた二つの言葉は、いずれも欧米の行動規範を表した言葉です。私たちの行動規範は、明治維新と敗戦という二つの大きな価値観の変化をくぐり抜けたために、いささか曖昧になっているような気がしています。そして今、私たちに必要なのは、今の社会にふさわしい確かな行動規範と、それに基づく一人一人のぶれのない行動原理のように思います。
柄にもなく難しい話題を取り上げてしまいました。とても私の力で結論が出るようなテーマではありません。この機会に、一人一人、もう一度「自分の行動原理は何か、そして、それは確かか」ということに思いを馳せていただければと念じています。
|