2005年10月

「格物致知」




先日、「愛・地球博」に行って参りました。私が訪れたのは、史上最多の入場者を記録し大々的な入場制限が行われた9月18日の翌日ということもあって、思っていたよりは落ち着いていましたが、それでも人気パビリオンには近づくこともできませんでした。そこで、比較的すいているアジアとヨーロッパのパビリオンをいくつか見て回りました。会場にいたのはごく短時間のことでしたが、それでも、地球にはたくさんの国と人々と文化があるのだなという当たり前のことを強く実感することができました。
その一つである中国パビリオンでは、閉幕間際の「セール」の傍ら、「書」の名人と覚しき中国の人が1回500円也で、こちらがお願いした漢字を半紙にしたためてくれるという一風変わった催しをしていました。漢字という共通の文化を持つ国同士ならではとちょっと感心したので、500円を投資し何か書いてもらうことにしました。何を書いてもらおうか少し迷ったのですが、「祈阪神優勝」(注1)では書き手には何のことかわからないでしょうし、今更「努力」や「友情」も気恥ずかしいし、「開運厄除」では初詣になってしまうので、咄嗟に私の大切にしている「格物致知」という言葉を書いてもらうことにしました。希望する文字を小さな紙に記入して差し出すと、おもむろに書いてくれるのですが、この言葉を見たとき、いかにも大家ふうの書家氏がにこっと笑って中国語で読み上げたあとに、「ラオツィ」と言いました。「老子」ということのようです。下記(注2)にも書いたとおり、この言葉は老子とは直接は関係ないと思うのですが、それでも、大変気合い入れて書いていただくことができました。書き終わると、それを見ていたまわりの方々からも拍手がわいたほどで、ちょっと日中友好に役立ったような気がしました。

私が生涯で最も影響を受けた本の一つに「羊の歌」という本(注3)があります。この本は、私が高校2年生の時に刊行された本で、著者加藤周一の半生記(自伝)ですが、その終わりの方に、著者自身の考え方の基本原理として、この「格物致知」という言葉が登場します。 著者は、この言葉を、「価値判断よりも事実判断を大切にするということで、伝聞や仄聞に拠らず、また憶測や推定に頼らず、できる限り自分の目と耳で確かめ、自分の頭で考え理解した「事実」に基づいて物事を判断することで普遍的真理に近づくことができる。」ということだとしています。私には、その考え方が大変深く心に残りました。そして、以来、私の行動原理として大切にしようと心に刻みました。
万博会場で、思いがけなくこの言葉を書いてもらったときに、久しぶりに、この若き日の志を思い出すと共に、世間の荒波(?)にもまれているうちに、それを忘れかけているのではないかとふと気がついた次第です。また、その言葉が、(当たり前のことなのかもしれませんが)発祥の地で今でも大切にされているということを目の当たりにして少しうれしかった気もしました。

何事につけても、志を立てるよりも、その志を守り続けることの方がはるかに難しいのは、皆さんもご承知の通りです。こういう話から、「計画必達」などという話にこじつけるのは少し反則気味かもしれませんが、人生にせよ、仕事にせよ、立てた志には拘り続けなければいけないとあらためて感じております。

(注1)これは、9月19日のできごとです。(その後優勝を決めたのは見事でしたが、日本シリーズはどうなるのでしょうか・・・。10月25日記)
(注2)せっかくの機会でもありましたので、あらためて調べてみました。この言葉は、儒教の最も重要な教典である「四書五経」の「大学」のなかにあるもので、「八条目(格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下)」という人間の最も重要な行動規範として登場するとのことです。ご覧頂いたとおり、意、心、身、家、国、天下と順番にスケールが広がっていく中で、物と知は、最初の二項目、即ち基本項目として扱われています。しかし、他の六項目にはきちんと解説が付いているのに対して、この二つには何も解説が付いていません。そのため、朱子や王陽明をはじめとして後世の大思想家が実に様々な解釈をしているようです。(朱子の解釈と陽明の解釈はまるで逆のように見えます。)年をとって、たくさん時間ができたときに、(頭と目が大丈夫なら、)思い切って原典を読んでみようと思っています。
(注3)正続二冊の岩波新書として今でも容易に手に入りますので興味のある方は是非一度読んで見てください。



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