東京高判平成15年12月26日(平成15年(行ケ)第104号)

1.事案の概要
 X(原告)は,発明の名称を「タキキニン拮抗体の医学的新規用途」とする特許第3020757号発明(平成4年9月18日出願〔優先権主張1991年(平成3年)9月20日(以下「本件優先日」という。),1992年(平成4年)2月11日,同年2月27日・英国〕,平成12年1月14日設定登録,以下,この特許を「本件特許」という。)の特許権者である。
 本件特許につき,特許異議の申立てがされ,同申立ては,異議2000-72673号事件として特許庁に係属したところ,Xは,平成13年9月10日,願書に添付した明細書の特許請求の範囲の記載の訂正(以下「本件訂正」という。)を請求した。特許庁は,上記事件につき審理した結果,平成14年11月7日,
 (1)本件決定は,別添決定謄本写し記載のとおり,本件訂正発明1〜7及び9に係る本件明細書の記載には不備があるから,本件訂正発明1〜7及び9に係る特許は,平成6年法律第116号による改正前の特許法36条4項,5項及び6項(以下,「改正前特許法36条4項,5項及び6項」のようにいう。)に規定する要件を満たさない特許出願に対してされたものであり,
 (2)また,本件訂正発明6は,Cell. Mol. Neurobiology,3,No.2,113頁〜126頁(1983)(以下「甲5文献」という。),特表平3-503768号公報(以下「甲6公報」という。),特開昭62-252764号公報(以下「甲7公報」という。),米国特許第4920227号明細書(以下「甲9明細書」という。)及び特開昭63-196583号公報(以下「甲10公報」という。)に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたもの,本件訂正発明8は,甲5文献及び欧州特許公開公報第0436334A2(以下「甲8公報」という。)に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであって,本件訂正発明6及び8に係る特許は,いずれも特許法29条2項の規定に違反してされたものであるから,取り消されるべきものである,
という理由により,「訂正を認める。特許第3020757号の請求項1ないし9に係る特許を取り消す。」との決定(以下「本件決定」という。)をした。
 なお,以下,本件特許出願の願書に添付した本件訂正に係る明細書を「本件明細書」といい,その請求項1〜9に係る発明を,それぞれ本件訂正発明1〜9という。

2.争点
(1)医薬についての用途発明においては,当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されているというためには,明細書において,当該物質が当該医薬用途に利用できることを薬理データ又はそれと同視すべき程度の記載により裏付ける必要があるか。
(2)本件訂正発明についての容易想到性判断の誤り。

3.判決
 一部取消,一部棄却。

4.判断
「第5 当裁判所の判断
  1 取消事由1(明細書の記載事項に関する認定判断の誤り)について
    (1)本件明細書における特許請求の範囲の記載は,上記・・・のとおりであり,本件訂正発明1〜7及び9は,Xも自認するとおり,いずれも,「NK1受容体拮抗体を有効成分とする嘔吐治療剤」として,有効成分をその機能によって規定する構成を採用しているものと認められる。Xは,上記・・・のとおり,上記各発明の特定方法は,その発明の本質を的確に規定したものであり,上記方法以外によって当該発明を適切に特定することはできない(上記・・・)などとして,上記各発明に係る本件明細書の記載につき改正前特許法36条4項,5項及び6項に規定する要件を満たさないとする本件決定の認定判断は誤りである旨主張する。
    (2)そこで,本件明細書(甲4)の記載について検討すると,発明の詳細な説明には,有効成分である「NK1受容体拮抗体」と医薬用途である「嘔吐治療剤」に関連するものとして,・・・との記載が認められる。
    (3)ところで,改正前特許法36条4項は,「発明の詳細な説明には,その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果を記載しなければならない」と規定しているところ,本件訂正発明のような医薬についての用途発明においては,一般に,有効成分として記載されている物質自体から,それが発明の構成である医薬用途に利用できるかどうかを予測することは困難であるから,当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されているというためには,明細書において,当該物質が当該医薬用途に利用できることを薬理データ又はそれと同視すべき程度の記載により裏付ける必要があり,出願時の技術常識を考慮しても,それがされているものとはいえない発明の詳細な説明の記載は,改正前特許法36条4項の規定に違反するものといわなければならない(東京高裁平成8年(行ケ)第201号,平成10年10月30日判決参照)。また,いわばその裏返しとして,医薬についての用途発明においては,特許請求の範囲に記載された発明が発明の詳細な説明において裏付けられた範囲を超えるものである場合には,その特許請求の範囲の記載は,発明の詳細な説明に記載したものであるとはいえないし,特許を受けようとする発明の構成に欠くことができない事項のみを記載したものであるともいえないから,改正前特許法36条5項1号及び2号に規定する要件を満足しないものと解するのが相当である。
    (4)以上の見地から,上記(2)で認定した本件明細書の発明の詳細な説明の記載を見ると,医薬用途の裏付けとなる記載は,段落【0102】の記載のみであると認められるところ,同段落には,@(±)シス-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジンのうち,(2S,3S)鏡像異性体はNK1受容体拮抗体としての効力があり,嘔吐を抑制する効果が認められたのに対し,(2R,3R)鏡像異性体はNK1受容体拮抗体としての効力が(2S,3S)のものの1/1000しかなく,嘔吐試験でも不活性であったこと,A式(I)で表される化合物である(エキソ,エキソ)-2-(ジフェニルメチル)-N-〔(2-メトキシフェニル)メチル〕-1-アザビシクロ〔2.2.1〕ヘプタン-3-アミンは,嘔吐を抑制したこと,BN-〔N1-〔L-ピログルタミル-L-アラニル-L-アスパルチル-L-プロリル-L-アスパラギニル-L-リシル-L-フェニルアラニル-L-チロシル〕-4-メチル-1-オキソ-2S-(6-オキソ-5S-1,7-ジアザスピロ〔4.4〕ノナン-7-イル)ペンチル〕-L-トリプトファナミドも嘔吐を抑制したことが記載されている。ところで,上記のうち,Aに記載された化合物については,段落【0058】において「NK1受容体拮抗作用をもつ」とされているが,そのことを明らかにするデータは示されておらず,Bに記載された化合物については,そもそもNK1受容体拮抗活性を有することを示唆する記載自体が存しないから,結局,本件明細書の発明の詳細な説明において,NK1受容体拮抗活性と嘔吐治療活性との双方が確認されているのは,上記@の(±)シス-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジンのうち,(2S,3S)鏡像異性体についてのみであると認められる。
      そうすると,明細書の発明の詳細な説明に,構造類似性のない相当多種類のNK1受容体拮抗作用を有する物質が嘔吐治療に有効であることを確認できる記載があるなど,NK1受容体拮抗活性と嘔吐治療活性との相関関係を当業者が客観的に把握できると認められる場合であれば別論,本件明細書の発明の詳細な説明においては,NK1受容体拮抗体である(2S,3S)-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジンが嘔吐治療に利用できることは裏付けられているといえるものの,それ以外のNK1受容体拮抗体については,そもそもNK1受容体拮抗活性と嘔吐治療活性の相関関係を裏付ける記載がないのであるから,それらを有効成分とする嘔吐治療剤について,当業者が容易に実施可能な程度に発明の詳細な説明の記載がされているものとは認められないというべきである。
    (5)この点について,Xは,本件明細書の発明の詳細な説明の段落【0102】の記載を根拠として,嘔吐治療効果を有する化合物であるか否かは,化合物の構造類似性を指標とするのではなく,NK1受容体拮抗作用を有するか否かにより決定されているのであり,ある化合物がNK1受容体拮抗作用を示せばその化合物は抗嘔吐作用を示すことが証明されている旨主張する(上記・・・)。しかしながら,Xのこの主張は,上記段落【0102】に記載された3種の化合物のすべてがNK1受容体拮抗活性を有することが確認されているとの前提に立つところ,そもそもその前提において誤りを含むものであることは上記のとおりであるから,採用の限りではない。
      また,Xは,本件明細書は,「NK1受容体拮抗体が嘔吐の治療に有効である」との知見を新たに提供するものであるとの前提に立って,本件訂正発明1〜7及び9の特許請求の範囲の記載は,その知見から的確に導き出されるものであるとも主張する(上記・・・)。しかし,上記(4)のとおり,本件明細書の発明の詳細な説明においては,ただ一つの化合物についてNK1受容体拮抗活性と嘔吐治療活性の双方が確認されているにすぎず,Xのいうような「NK1受容体拮抗体が嘔吐の治療に有用である」という包括的な知見を提供するものとは到底認められないから,Xの上記主張は誤った前提に基づくものであって失当であるというほかはない。
    (6)以上によれば,本件明細書の発明の詳細な説明は,(2S,3S)-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジン以外のNK1受容体拮抗体につき,それが嘔吐治療剤として有効であることを裏付ける記載を欠くものであると認められるから,本件訂正発明1〜7及び9に係る本件明細書の発明の詳細な説明は,当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されているとはいえず,改正前特許法36条4項に規定する要件を満たさないというべきである。さらに,同様の理由により,本件明細書の特許請求の範囲の請求項1〜7及び9の記載は,発明の詳細な説明において裏付けられた範囲を超えた発明が記載されているものというほかはなく,発明の詳細な説明に記載された発明を記載したものとはいえず,かつ,特許を受けようとする発明の構成に欠くことができない事項のみを記載したものともいえないから,改正前特許法36条5項1号及び2号に規定する要件を満たさないというべきである。
      そうすると,本件訂正発明1〜7及び9に係る特許は,改正前特許法36条4項,5項及び6項に規定する要件を満たさない特許出願に対してされたものであるとして,これを取り消した本件決定の判断は,結論において相当であるということができるから,その余の点について検討するまでもなく,Xの取消事由1の主張は理由がない。
  2 取消事由2(本件訂正発明6の進歩性に関する認定判断の誤り)について
    上記1のとおり,改正前特許法36条4項,5項及び6項の規定に違反することを理由に本件訂正発明6に係る特許を取り消した本件決定の判断は,結論において相当であるから,Xの取消事由2の主張については検討を要しない。
  3 取消事由3(本件訂正発明8の進歩性に関する認定判断の誤り)について
    (1)本件決定は,本件訂正発明8について,「刊行物19(注,甲8公報)には,新規な3-アミノピペリジン誘導体及び関連する化合物として『(+)S,S-シス-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジン』(注,本件訂正発明8に係る化学物質と同一の物質である。)が記載され,この薬理活性化合物は,サブスタンスP拮抗剤であることが記載されている」(決定謄本22頁下から第4段落)こと,「刊行物15(甲5文献)には,P物質が嘔吐作用を有することが記載されている」(同下から第3段落)こと,及び「拮抗物質または拮抗作用とは,薬物の奏する作用を減弱または消滅させる場合のものをいうことは前記のとおり周知である」(同下から第2段落)ことを各認定した上,「そうすると,刊行物19に記載されている『P物質拮抗剤』とは,P物質の作用を減弱または消滅する薬物のことであることは明らかであるから,『P物質拮抗剤』とは,刊行物15の記載からみて,P物質により生じる嘔吐を減弱または消滅する薬物のことも示していることは容易に理解できるところである」から,「刊行物19に記載されているP物質拮抗体であるところの『(+)S,S-シス-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジン』を,嘔吐治療剤として採用してみる程度のことは容易に想到できること」であって,「訂正後の請求項8に係る発明(注,本件訂正発明8)は,刊行物15,19に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものである」(同22頁最終段落〜23頁第4段落)と判断した。
    (2)そこで,本件訂正発明8の進歩性に関する本件決定の上記認定判断の当否について検討する。
      ア まず,本件訂正発明8は,上記1(4)において認定したとおり,本件明細書の発明の詳細な説明において,NK1受容体拮抗体である(2S,3S)-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジンが嘔吐治療に利用できることを裏付ける記載があることから,上記・・・のとおり,これを特許請求の範囲として記載したものであると認められる。
      イ 本件決定が引用する甲5文献には,・・・と記載されているものの,サブスタンスP(P物質)の拮抗体が実際に嘔吐を抑制することを裏付ける記載は認められない。
        また,同じく本件決定が引用する甲8公報には,・・・と記載され,当該発明に包含される多数の化合物の合成例の一つとして,例64に,(2S,3S)-シス-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジンを合成したことが記載されているが,他方,この物質が,実際にP物質拮抗体であることや,P物質の関連する疾病の治療剤として利用できることを裏付ける記載は認められない。
      ウ 上記イのとおり,甲5文献及び甲8公報においては,P物質拮抗体が嘔吐を抑制することについても,(2S,3S)-シス-3-(2-メトキシベンジルアミノ)-2-フェニルピペリジンがP物質拮抗体であってP物質の関連する疾病の治療剤として利用できることについても,これを裏付ける記載はないのであるから,上記物質を嘔吐治療剤として利用することは,これらの刊行物の記載から推測される膨大な可能性の一つにすぎないものというべきである。そうであるとすれば,特定の有効成分が嘔吐治療剤という特定の医薬用途に利用できることが発明の詳細な説明において裏付けられている本件訂正発明8について,そうした裏付けを欠き,単に膨大な可能性の中の一つとして本件訂正発明8に特定された物質に嘔吐治療剤としての用途があり得ることを推測させるにすぎない甲5文献及び甲8公報の記載に基づいて,その進歩性を否定することはできないというほかはない。
    (3)そうすると,本件訂正発明8について,甲5文献及び甲8公報に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるとした本件決定は,本件訂正発明8の容易想到性の判断を誤ったものというべきであり,Xの取消事由3の主張は理由がある。
  4 以上によれば,Xの請求は,本件決定の結論のうち,本件訂正発明8に係る特許を取り消すとの部分の取消しを求める限度で理由があるから認容し,その余は理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。」