1.事案の概要
X(原告)は,1985年(昭和60年)11月20日にイタリア国においてした特許出願に基づく優先権を主張して昭和61年11月14日にした特許出願(特願昭61-270001号,以下「原出願」という。)の一部を分割して,平成9年2月13日,名称を「新規な官能化ペルフルオロポリエーテルとその製造方法」とする発明につき新たな特許出願(特願平9-42855号)をしたが,平成11年2月2日に拒絶査定を受けたので,平成11年5月6日,これに対する不服の審判の請求をした。
特許庁は,同請求を平成11年審判第7337号事件として審理した上,平成10年11月20日付け手続補正書によって補正された明細書(以下「本件明細書」という。)には,当業者が本件明細書に記載された発明(以下,「本願発明」という。)を容易に実施できる程度に記載されているものとは認められないから,本件特許出願は特許法36条3項(注,「平成2年法律第30号による改正前の特許法36条3項」の趣旨と解される。以下「特許法旧36条3項」という。)の要件を満たさないとして,平成12年5月1日に「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をした。
X出訴。
2.争点
本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,当業者において容易に本願発明の実施をすることができる程度のものか。
3.判決
請求棄却。
4.判断
「第5 当裁判所の判断
1 取消事由(明細書の記載要件の充足性に関する判断の誤り)について
(1)本件明細書の発明の詳細な説明において,本願発明の目的,構成及び効果がどのように記載されているかをまず検討する。
ア 本件明細書(甲第2,第15号証)の発明の詳細な説明には,下記の記載があることが認められる。
・・・
イ 本件明細書の発明の詳細な説明の上記記載によれば,【従来の技術】欄において,本願発明は,電子装置分野においては平均分子量の非常に低いペルフルオロポリエーテルが必要とされ,また,高真空ポンプ用作動流体としては中程度のものが必要とされている一方,従来のペルフルオロポリエーテル製造技術によった場合,一般に,その大部分が高すぎる分子量を有するものとなるために実用上の制約があったとの課題が示されていること,【発明が解決しようとする課題】欄において,このような課題を受けて,「本発明の目的は,前記ペルフルオロポリエーテルの平均分子量を,ペルフルオロポリエーテル鎖の分断により所望値になるまで減ずる方法を提供することである」と明記されていること,【課題を解決するための手段】欄において,この目的を達成する手段として,特許請求の範囲の必須要件項である請求項1に記載の構成,すなわち本願発明の要旨に規定するとおりの構成を採用したことが記載されていることが認められる。
これによれば,発明の詳細に記載された本願発明の目的は,「ペルフルオロポリエーテルの平均分子量を所望値になるまで減ずる方法を提供すること」であること,その構成は本願発明の要旨に規定するとおりの構成であること,その効果は,上記目的を達成することができること,すなわち,所望の平均分子量を有する化合物を得ることができるというものであることが認められる。なお,【発明の実施の形態】欄において,本願発明の方法によれば「所定の平均分子量」の化合物を得られることが繰り返し記載されていることもこれに沿うものということができる。
ウ Xは,上記目的は特許請求の範囲に記載されていないことを理由に,本願発明は高分子量のペルフルオロポリエーテルを分断して低分子量の化合物を得るものであって,所定の分子量のペルフルオロポリエーテルを得ることを目的とするものではない旨主張するが,本件特許出願について適用される特許法36条4項(平成2年法律第41号による改正前のもの)は,特許請求の範囲には,発明の構成に欠くことができない事項のみを記載すべき旨を規定するのであるから,特許請求の範囲に上記の目的が記載されていないことは,何ら上記認定を妨げるものではない。
(2)次に,本願発明が触媒に関する発明であることにかんがみ,本件明細書の記載要件の充足性を判断する前提として,触媒効果の予測可能性について検討する。
ア まず,本件明細書(甲第2号証)の「【0008】この目的を達成するための限定条件は,a)温度を,触媒の種類および量を関数として150〜380℃範囲に保つこと,そしてb)使用触媒の種類および濃度である」との記載並びに同段落【0005】及び【0006】の記載(上記(1)ア)に照らせば,本件明細書自体において,本願発明の目的を達成するために必要となる限定条件として,触媒の種類,出発物質ペルフルオロポリエーテルに対する触媒の重量割合及び反応温度を挙げていることが認められる。また,反応時間及び出発物質ペルフルオロポリエーテルの具体的内容についても,反応後の化合物の平均分子量に影響を与えることは,技術常識から明らかである。なお,反応時間に関しては,上記段落【0006】に,第(II)類のペルフルオロポリエーテルに関する説明としてであるが,上記の認定を基礎付ける記載が認められるところである。
イ 以上に加えて,昭和50年6月10日丸善株式会社発行の「化学便覧応用編(改訂2版)」(乙第8号証)には,「反応系に微量存在することにより,その系の化学平衡にはなんら影響を与えずに,反応速度を著しく変化させ,それ自体はまったく変化せずに反応過程で原料と錯合体を形成し,これが容易に生成物に変化し再びもとどおりに再生される物質を一般に触媒とよんでいる。・・・触媒が存在することにより新しい反応経路が生まれ,反応はこの経路に沿って触媒が存在しないときよりも,はるかに速く容易に進行する」(719頁左欄3行目〜17行目),「一般に触媒活性を支配する因子は非常に多い。活性を支配する因子は物質的要因と構造的要因とに大別されるが,後者にはとくに結晶構造,表面積,細孔構造および格子欠陥などが関連し,これらは触媒の製造と密接な関係があり,同一原料を用いても製造操作の相違により触媒性能が大きく影響されるので,その製法にはとくに注意を払う必要がある」(720頁左欄38行目〜44行目)との記載があり,これによれば,同じ種類の触媒であっても,触媒の製造方法も反応速度を速くさせるという触媒性能に大きな影響を与えることが認められ,上記文献の性格及び発行時期を考えると,このことは,本件特許出願の優先権主張日前に技術常識であったものと認められる。
ウ そうすると,本願発明の目的を達成するための限定条件としては,出発物質ペルフルオロポリエーテルの具体的内容,触媒の種類,量(出発物質に対する重量割合)及び製造法,反応温度並びに反応時間を挙げることができ,これらの条件をすべて特定のものとする手段によって,初めて本願発明の効果を追試することが可能となるというべきである。なお,Xも,審決の「本願発明においては,触媒の種類,特性,量が反応条件及び生成化合物に影響を与える重要な要素であることを示している。このことは,当業者が所定の(目的とする)平均分子量を有する化合物を得るためには,触媒の種類,使用量及び反応条件についての情報が不可避的に必要であることを意味するものと認められる」(審決謄本4頁1行目〜6行目)との認定自体は争っていない。
エ 上記のとおり,触媒効果が,出発物質の具体的内容,触媒の種類,量(出発物質に対する重量割合)及び製造法,反応温度並びに反応時間に左右される一方,本願発明の構成が,出発物質の内容,触媒の種類及び反応温度について規定するにすぎないことは,その要旨から明らかである。そうすると,適切な実施例の記載又は必要な条件設定の手掛かりとなる具体的な手段の記載がない限り,本件特許出願の優先権主張日当時の技術常識を踏まえたとしても,本願発明の構成自体からその効果を予測することは困難といわざるを得ない。
(3)以上の認定判断に基づいて,本件明細書の記載要件の充足性について判断する。
ア まず,本件明細書(甲第2,第15号証)の発明の詳細な説明の記載に徴しても,出発物質ペルフルオロポリエーテルの具体的内容,触媒の種類,量(出発物質に対する重量割合)及び製造法,反応温度並びに反応時間のすべての条件を具体的に特定してこれを実施した記載は皆無であり,当然ではあるが,その実施の結果,どの程度の平均分子量のものが得られたのかといった記載もない。すなわち,発明の詳細な説明には,本願発明の目的を達成するために必要な限定条件が特定された実施例が一例も示されていない。
イ さらに,本願発明は,その要旨に規定するとおり,出発物質のペルフルオロポリエーテルだけでも,第(I)類〜第(III)類の三つの類が選択的事項とされている上,それぞれの類内には分子量に注目しても数多くの種類のものが選択的事項として規定されていること,触媒の種類も九つの元素の中から適宜選ばれる元素の弗化物,オキシ弗化物及び酸化物,さらにはその混合物や先駆物質まで包含するものが選択的事項として規定されており,出発物質ペルフルオロポリエーテルの具体的内容と触媒の種類の組合せという最も基本的な条件だけでも膨大な数に上り,当業者がこれらの組合せの中から適切なものを選択し,追試するには重大な困難が伴うというべきである。なお,本件明細書の段落【0009】には,「ニッケルの場合,効果的触媒は,酸化度の最も高い金属弗化物により代表されることが確かめられた。また,良好な結果は,酸化度が最高値より低いNiのハロゲン化物を用いても達成される。但し,その場合,反応容器には基体弗素流れを導入し,該流れによって最も高い酸化状態にある対応弗化物を現場形成させるものとする。また,弗化物およびオキシ弗化物は,弗素の存在で対応するハロゲン化物から現場製造することができる」との記載があり,これによれば,ニッケルに係る効果的触媒に関しては「酸化度の最も高い金属弗化物」により代表されることが示されているとはいえるものの,上記のような膨大な組合せの中から適当なものを選択する手掛かりとなり得るようなものとは到底いえない。また,Xは,本願発明において用いることができる触媒は何ら特殊のものではなく,市販されているか又は当業者が容易に製造することができる任意の触媒を使用すれば足りる旨主張するが,必要な触媒が特殊かどうかということと,上記のとおり膨大な組合せによる追試の困難性があることとは別次元の問題であって,Xの上記主張は失当である。
ウ 加えて,出発物質に対する触媒の重量割合,触媒の製造法,反応速度及び反応時間についても本願発明の目的を達成するための限定条件となることは前示のとおりであるところ,加熱温度について,本願発明の要旨が150〜380℃との数値範囲を示しているものの,それ以外の条件に関しては,発明の詳細な説明中に,出発物質に対する触媒の重量割合について「0.1〜10重量%」,反応時間について「例えば,1分〜数時間好ましくは3分〜5時間程度」(ただし,第(II)類のペルフルオロポリエーテルが前提の記載)との極めて広範にわたる数値が示されているにすぎない。触媒の製造法に至っては,これに代わる入手手段も含めて何らの記載もない。
エ 以上のとおり,本件明細書の発明の詳細な説明には,本願発明の目的を達成するために必要な限定条件が特定された実施例が一例も示されていないばかりか,出発物質の具体的内容と触媒の種類の組合せだけでも膨大な数に上り,そのそれぞれについて適用すべき触媒の重量割合や反応時間といった上記諸条件についても極めて広範な数値が示されているにすぎないのであるから,ペルフルオロポリエーテルの平均分子量を所望値になるまで減ずるという本願発明の目的を達成し,その効果を追試するためには,当業者においても,多大な試行錯誤を要するといわざるを得ない。
これに上記(2)で説示したところを併せ考慮すると,本件明細書の発明の詳細な説明には,当業者が容易に本願発明の実施をすることができる程度にその目的を達成するための手段が記載されているとは認められないというべきである。
(4)Xは,@本件明細書の「実施例1」の記載,A平成10年11月20日付け意見書添付の実験報告書の記載,B原出願の願書に最初に添付された明細書の記載は本願発明の実施の容易性を基礎付ける旨主張するので,順次検討する。
ア まず,上記「実施例1」については,本件明細書(甲第15号証)の発明の詳細な説明に,・・・と記載されているものである。
しかし,上記「実施例1」で使用されている触媒はγ-AlF3であって,これが本願発明の規定する触媒でないことは明らかであり,このことはXも自認するところである。そして,触媒の種類が異なる以上,その中で採用されている触媒の量,反応温度,反応時間等の条件は本願発明の実施に何らの示唆も与えない。
したがって,上記「実施例1」の記載は,本願発明の実施の容易性を何ら基礎付けるものとはいえない。
イ 次に,平成10年11月20日付け意見書添付の実験報告書(甲第16号証)にX主張のような記載があるとしても,本件明細書の発明の詳細な説明中に本願発明の目的を達成するための手段が記載されているとは認められない本件においては,その記載不備を補うことにはならないというべきであるから,これが本願発明の実施の容易性を基礎付けるものとはいえない。
ウ また,原出願に係る明細書の記載(甲第3号証)についても,これを本件明細書の記載と同視することはできず,本件発明の実施の容易性を基礎付けるものとはいえない。
(5)上記の認定判断によれば,当業者において容易に本願発明の実施をすることができる程度に本件明細書の発明の詳細な説明が記載されているとは認められないから,本件明細書には,この点において特許法旧36条3項に反する記載不備の違法があるものといわざるを得ず,これと同旨の審決の判断に誤りはない。
2 以上のとおり,X主張の審決取消事由は理由がなく,他に審決を取り消すべき瑕疵は見当たらない。
よって,Xの請求は理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担並びに上告及び上告受理申立てのための付加期間の指定につき行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条,96条2項を適用して,主文のとおり判決する。」