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菅原道真公
学問成就、開運厄除、産業発展、家内安全
旧郷社
道真公は学者の家系で幼少より学問に秀で長じて学徳高く文章博士となられ宇多天皇の御信任篤く右大臣に任ぜられたが、藤原氏のざん言により太宰府に左遷された。
筑紫への下向の砌風波をさけて船を当地の浦に寄せられ神太夫とういうもの出会いわが家にお供つかまつり厚くもてなした。 一両日御滞在ののち日和も順風となり、御出船の折名残を惜しまれ、召されたる御冠を神太夫に与えられた。そして二人の息子太郎次・勘之介に松本・梅本の氏を賜った。
その後三十数年を経て、承平四年十月七日の夜より三夜にわたって太郎次に夢中の御託宣があり、「東の山の梅の古木に今宵のうちに花を開かしめん。その地に社を建て冠を神体として祭るべし」と。
太郎次隣家の人々と語らい訪ね見れば、果たして梅花咲き満ちて春のようであった。この瑞祥を見て、いよいよ神勅なることを思い、承平五年四月二十三日神祠を営み、梅花を見た十月十日を祭日と定め氏神として崇め奉った。神社の後方の冠石は、この時の冠を清め奉った処と伝えられる。
年月を経て社頭荒廃し、この地の領主三井兵庫助・・・の念篤く、天文十八年(1549)三月六日社殿を再建し、爾来数度の造営を経て、平成四年(1992)十二月奉賛会により社殿・参集殿が再建された。
創建当時は光井天神宮と称していたが、のち冠天満宮となり、明治六年宮号停止によって菅原神社と改め、昭和五年九月二日郷社に列せられ、昭和五十年十月一日再び冠天満宮に復した。
近郷の人々の尊崇の念篤く、特に「学問の神」として広く敬拝されている。
2004年02月21日 イチゴ狩り
2001年02月11日 梅見
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