レコード好き    堀田 俊一

 私が三才の頃、母に連れられて叔父の家によく行ったものです。そこで四角い箱の上に回転する円盤がついたものがあって、横のハンドルを廻すと緑色のラシャをはった円盤が廻りだす。こんなものは家に無い、これが面白くてブリキの自動車なんかをのせて遊んだものでした。叔父がこれといった玩具がないので、朝顔ラッパつきの蓄音機のラッパとサウンドボックスをはずして提供してくれたのでした。レコードをのせてまわすと音がでることを知ったのは後日でした。
 父は、高価な蓄音機など子供のために買う気はなかったのですが、母の説得で私が幼稚園にはいった時、安物のポータブルを提げて帰ってきました。我家に蓄音機が誕生しました。レコードのことは全然記憶にないのですが、児童向きの七吋の童謡のレコードだったのでしょう。それもすぐ割ってしまって親を嘆かせたことだったと思います。
 小学校に入学の年、支那事変が勃発し世の中だんだん軍事態勢となってきました。「露営の歌」とか「愛国行進曲」とかの中に、コロムビアの十吋の黒盤で「森の鍛治屋・森の水車」、ビクターの黒盤で「軽騎兵」「ウイリアム・テル」とかがあったと思います。子供用のレコードは十吋の黒盤と決まっていました。なにしろレコードは高かったのです。クラシック十二吋赤盤が3円50銭、十吋黒盤でも1円50銭したのですから。今のレートになおすと各々、1枚7千円と3千円に相当します。ワインガルトナーの「田園交響曲」を親戚の家で聴かせてもらった覚えがありますが、重たいレコードが5枚セットで、今の価格で3万5千円もしたのです。金持ちの道楽としか言い様がなかったのです。
 中学1年生の時、戦災で全焼、田舎に疎開、そして終戦。戦災でレコードを失ってラジオだけが音楽との接点でした。それでも多くの素晴らしい楽曲を知ることが出来ました。その中の一つでもレコードが欲しい。しかし、戦後の疎開先の田舎でレコードなど贅沢品であって、中学生の買える品物ではない。しばらくして、父が知り合いの電気店からピックアップとフォノモーターを買ってきてくれた。大変嬉しかった。ありあわせの板ぎれで箱を作り、プレーヤーができた。あとは五球スーパーのラジオに入力端子を自分で加工して、[電蓄]が出来た。父がビクターの赤盤を3枚買ってくれた、「フィンガルの洞窟」と「モルダウ」でした。
 大学時代、関西で下宿生活をするようになってから、大阪の梅田界隈や神戸の元町周辺の、古レコード店にちょくちょく行くようになりました。お小遣いが無いのでとてもレコードを買うことは出来ませんでしたが、"旧プレス"と云って昭和10年頃のよい製品があることとか、舶来品のものすごく高価なものがあることを知りました。
 コロムビアの長時間レコード試聴会というのに行ったのもその頃でした。ワルターの[第9]で、第1楽章と第2楽章が片面に入ってしまうのには驚きました。しかもワインガルトナーの演奏より力強い表現に感心したし、なによりオーケストラの楽器が手に取るように聞こえるのに感動したと記憶しています。長時間レコード(LP)は急速に普及しましたが、まだ高価な品物には違いありませんでした。1枚買うと月給の半分以上は飛んでしまったのですから。
 LP時代になると、今まで知らなかった曲が聴かれるようになったのと同時に、同じ曲を違う演奏家で聴ける楽しみの増えました。値段もだんだん手頃になってきました。しかし今度は演奏自体に変化が出てきました。楽譜に忠実にとか、古楽器演奏とかすべて逆目にでました。また何々コンクールとかで画一的教科書的演奏が主流になり、個性派の芸術家が減ってしいました。戦前からの名演奏家を知る私には残念な思いです。コマーシャルベースにあわせて、同じ曲を四回も五回も録音した指揮者など、芸術家とはいえません。
 録音についてひとこと、音楽は人声、楽音ともにアナログなのです。CDと称する、レコードとは似ても似つかない物に置き替えられてしまったが、技術の進歩どころではない、まことに芸術の後退である。一度デジタル化した音声は、完全なアナログ音声に戻すことはできないのです。
 私自身古い人間です。しかし78回転のSPレコードの時代からの付き合いで、レコードを愛しています。気に入ったレコードを手放すことはできません。レコードの音溝ははっきり肉眼でみえます。ここを針が通ったらどんな音がするのだろう、と眺めているだけでも楽しい。死ぬまでレコードとは縁の切れない私です。

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