フォーレの晩年の作品はあまり知られていない。 その中でも室内楽は特にその傾向が強い。 ヴァイオリンソナタ第2番の項を見てもらえればわかる。 その他にも、ピアノ四重奏曲、五重奏曲に関して、 「その豊潤な音はむしろドイツ的な響きを持ち、難解ですらある。」 「気合いを入れて書いた室内楽作品は名曲だが、大衆の支持を得るのは難しいのだ」 (ともに三枝成彰)と言われてしまう。
それでも、である。聞けば聞くほど新しい発見があるのはやはり後期の作品群である。 フォーレの五重奏曲第2番(ハ短調、Op.115)は、フォーレの室内楽の中で、 あえていえば全作品の中でも最高峰に位置する。晩年の代表作品でもあり、 フォーレの資質がいかんなく発揮された作品といえるだろう。 しかし、初期の甘い旋律は表には出てこなくなっている。 なお、ピアノ五重奏曲第1番も参照いただきたい。 また、正式名称は「2 つのヴァイオリンとヴィオラ、チェロ、ピアノのための五重奏曲第2番 (DEUXIÈME QUINTETTE pour deux Violons, Alto, Violoncelle et Piano)」である。
第1楽章の冒頭は、ピアノによるcとgのみのアルペジオによって始まる。 長調短調をぼかすこの導入は、吉田秀和のいうとおり、 ベートーヴェンの交響曲第9番に始まり、 ブルックナーの得意とするところである。 しかしフォーレはフォーレであり、これは交響曲でもない。 何ももったいぶる必要はないので、 第2小節からすぐにヴィオラが入ってくる。 この出だしの3音がg, c, gであることに気づいてあっと言ったのは、 恥ずかしながらつい最近のことである。 おまえは昔から聞いてきたのではなかったか、といわれればそれまでだが、 このヴィオラの開始が、ピアノのアルペジオそのものからとったということに 今まで気が付かなかったのである。
その外にも、 このヴィオラのメロディーにはただ単にぐねぐねしているだけではなく、 次のような特徴がある。
つまり、この主題からどんな素材でも作れるということではないか。
ピアノの伴奏音形も渋い。右手はオクターブと中の音が独立で動くアルペジオで、 オクターブがg-as-g-f-g-c-b-a-f-es、中の音がc-d-c-b-as-c-es-g-d-c-gと、特に出だしが順次進行を心がけている。 左手は上、中、下とさらに別れていて、上がg-as-g-f-g-a-d-c-g, 中がc-b-es-d-c-es-d-b-f-b、 下がg-f-es-d-es-g-c-f-g-as-esと、やはり出だしは順次進行するように気を 配っているかのようだ。
出だしだけでこうなのだから後のことを思うとぞっとする。とにかく、よく考えられた楽章である。
冒頭楽譜
デジタル音源
コーダは 303 小節でハ長調に転調するが、その 5 小節前の 298 小節から見てみよう。
ここで、転調を決定づけるのは、303 小節めのピアノの冒頭の E 音である。 ここが 3 度下の C 音を弾いた演奏が実演、録音ともにあるが、せっかくの転調が決まっていないのは残念だ。
最後に言っておかないといけないのは、 フォーレがソナタ形式に第2展開部を導入した最初の楽章がこれである、 ということだ。ただし、第2展開部そのものは既に(これまた) ベートーヴェンが交響曲第3番の第一楽章で既に実践済みである。 とはいえ、フォーレのソナタ形式の楽章は、「第2展開部」の発見でさらに豊かになったといえる。
第2楽章は、急速なスケルツォ。 ピチカートと弦の両奏法の対比が非常にはっきりしている。 冒頭を次の譜例で示す。上段がピアノ、下段がヴィオラとチェロのピチカートである。
あまりにもフォーレのどの曲にも似ていないため、 それどころか他の作曲家の作品と比べても特異なため、 解説者がなんとかして似ている曲を見つけだそうとしているところが面白い。 たとえば、吉田秀和はこの曲の解説で、 『読者はベルクの「叙情組曲」の急速な楽章を思い出すだろうか』 という意味のことを書いている。最近気が付いたのだが、 この曲と類似する作品をフォーレ自身の作品から探すとすれば、 ヴァイオリンソナタ第1番の 第3楽章スケルツォではないかと思うようになった。 というのも、リズムがどちらも16音符で構成されているからだ。 ヴァイオリンソナタ第1番のスケルツォの拍子は 2/8 拍子とやや特殊であるが、 16 分音符の動きが律動感をもたらしていて、 また基底には三小節が一つの動機の単位となっている。このリズムにおいて共通点がある。 旋律や和声の作り方は大きく異なるが、フォーレの作品の性格がもつ、 初期の作風と後期の作風の思わぬ共通点がこの二つのスケルツォの対比にも見られる。
第3楽章については、吉田秀和が「私の好きな曲」でかなりのことを言っているので、私からいうべきことはわずかである。 そのわずかなこととはこうだ。 第二主題のト長調の伴奏は後打ちである。下が譜例である。
この形式は他にも三重奏曲第2楽章の第2主題のほか、 ピアノ独奏曲では夜想曲第9番、10番、11番、歌曲では「伴奏」など、けっこう目に付く。なぜだろう?
さて、演奏を聴き比べてみると、ある違いがわかる。13小節めの第1拍でト長調の主和音に解決した後の楽譜である。
演奏によってはこの楽譜にない 6th の E の音、つまり G6 の和声になっているものがある(シューベルト・アンサンブルなど)。
前から気になっていたが、ひょっとしてと思って調べてみたら、理由がわかった。
これは、ヴィオラのパート譜の13小節めが D ではなく E で書かれているためである
(私が持っているデュラン社の譜面はいつ出版かはわからない)。ピアノ付随の譜面では上記の通り D になっているし、
次の 15 小節の響きから考えても13小節目は E ではなく D であるべきだ。(2012-06-23)
第4楽章については、前三楽章のこってり、 しっかり風味付けから離れてすっきりさわやか系になっている。 ひたすら突き進む部分と休みにまどろむ部分が交互に出てきてクライマックスに向かって直進する。
しかし、さわやか系とはいえ、フォーレはある企みを試みている。それは、 ヘミオラを徹底的に使って、 リズムの安定性と不安定性のバランスをどのようにとるかという実験のように聞こえる。
冒頭は次の通りである。ピアノによる2小節の序奏ののち、ヴィオラが単峰性(弓なり)の旋律を奏でる。 ピアノの音型は明らかにヘミオラを意識している。ここからヴィオラの旋律が第2ヴァイオリン、 第1ヴァイオリンと受け渡されて厚みを増し、突き進む要素となる。
そしてまどろむ部分とは62小節の3拍目からである。63小節のアウフタクトから、というべきなのかもしれない。 ピアノ独奏ののちヴィオラがからんでくるところだ。このからみがしばらく続く。
ヘミオラの追求とはたとえば 135 小節からのフレーズに顕著である。次の楽譜の上段は第1ヴァイオリンを、 下段はピアノの右手を表している。なお、他の弦楽器は後打ちのピチカートを、ピアノの左手は (3/2 としての拍の頭の)根音を弾いている。 これはリズムの交代のヘミオラというよりはむしろ3拍子の引き延ばしの効果を狙っている。ピアノの連桁にも注意すると良い。 フォーレはヘミオラの使い手ではあったが、小節をまたいだ連桁の使用は稀であった。 下の楽譜では小節をまたいだ連桁のレンダリング(表示)ができないのでやむを得ず 3/2 拍子で表示している。 フォーレの楽譜ではもちろん 3/4 拍子である。
この曲は、名前の知られている割に実演が少ない(私が調べるのをサボっているだけか)。 そんなわけで私はまだ実演を聞いたことがない。何度かチャンスはあったのだが、 あまりコンサートには興味がなかったので全く調べていなかった。
そのかわり、友人との連弾で楽しんだ。 この楽譜を売っているデュラン社が、オリジナルはもとより、 ピアノ連弾のアレンジをも出している。 このアレンジを持っている友人のU氏と何回かお手合わせ願ったものだ。 第一楽章のアルペジオが薄くなるのが残念だが、雰囲気は結構出る。
ある掲示板で、 この五重奏曲のことが話題になっていた。話題を提起した方の意見の中に 「第4楽章が、前の3つの楽章に比べて今一つ好きになれない」というものがあった。 これに関して、何人かがいろいろな答を寄せていた。私も答を書いたが、 自分の答は忘れてしまった。掲示板の意見をまとめると、次のようになるだろう。
私は感心すると同時に、この曲がもつ親密性を濃く感じた。ここでいう親密性とは、この曲が理解できるのは 曲を聞いている自分だけであるという傲慢さ、優越感をも持つ親しさ、という意味である。もちろん、 私もこの親密性に虜になった、あるいは囚われの身になった一人である。
この曲についての各種音盤(レコード+CD)を比較したページ (pseudo-poseidonios.net, 2022-09-21 現在リンク切れ)がある。 非常に濃い議論の記録であり、私のフォーレのページなんか吹けば飛んでしまいそうだ。 それでも、私が手に入れた盤を聴いた感想を記す。
比較的手に入れやすいのは、ジャン・ユボー / ヴィア・ノヴァ四重奏団、 クリスティーナ・オルティス / ファイン・アーツ四重奏団、 ジャン=フィリップ・コラール(p) /パレナン四重奏団 だろう。 私としては、下で聴き比べをしている中のどの演奏を聴いてもらってもよい。 この曲の良さが演奏の幅の揺れを打ち消すと思う。
上記リンク先で、「音楽語法が全然違う」として紹介されている演奏がある。 Peter Orthのピアノ、Auryn 四重奏団によるCDである(cpo 999 357-2)。 わたしが何にびっくりしたかといえば、この曲の第4楽章の表現であった。 まるでブラームスでも弾いているかのような、鋭いアクセント、テンポのめりはり、 緩急の対比に驚いた。 しかし、程なく、この第4楽章にとってはこの楽団の表現が最上なのではと思えてきた。 それほど病み付きになりそうだ。 もちろん、表現がきついのはこの第4楽章だけではない。 テンポをゆらす個所の多さ、付点音符をきつく( 3:1 を 4 :1 に近付ける)することなどが、 その根拠である。
全体に夢幻的な雰囲気を重視した演奏に思える。メリハリはその雰囲気の中でおさめられている。 2003-01-19
ローマ・フォーレ五重奏団(Quintetto Fauré di Roma)は、 イ・ムジチ所属の弦楽器奏者と モーリーン・ジョーンズというピアニストから成る。 弦の歌い方の特徴が他の演奏に比べて強い。緩徐楽章はもちろん 第1楽章でも顕著である。この第1楽章ではポルタメントをかけた個所があり、 フォーレには似つかわしくないのではないかと思いつつも効果的に聞こえる。
テンポのとりかたはわずかに甘く、音楽の流れのままに委ねているという方針なのだろう。 もちろん、不快に感じるほどではない。御国柄というのがあるのかもしれない。
1966年の録音であるが、演奏スタイルには古めかしさは感じられない。 録音のせいか、ヴァイオリンの角が立った音で聞こえるが、耳には心地よい。 低音は籠りがちであるが安定しているので心地よい。 どちらかというと弦の優位な演奏であるが、ピアノが芯となって支えているのがわかる。 昔の演奏のよいところだろう。
第2楽章は多少遅めだが、転調とリズム遷移の妙は十分伝わる。
私がこの曲を最初に聴いたのが、この演奏だった。1980年ごろ、 NHK-FMで放送されたときにエアチェックし、テープを何度も聞き返した。 わからなかった。この曲の楽譜を見て、第1楽章が3拍子だということを知ってから、 徐々に靄が晴れるように全体像がつかめて(くるような気がして)きた。 この曲をもっと皆に知ってもらいたいと思い、 NHK-FMの番組で土曜日の午後3時からあった「リクエスト・アワー」にこの曲の放送を要望した。 1982年あたりだろうか。 後にも先にも、放送局に要望を出したのは初めてであった。 しばらくして、この曲が取り上げられた。願いは適った。 少し残念だったのは、リクエストの葉書を読まれたのは、 別のリクエスト者の要望だったことである。そのあとに「なお、この曲のリクエストは、 マルヤマサトシさんからも寄せられました」とだけ、添えられた。 これを聞いて、私以外にも熱烈にこの曲が好きな方がいるということを知り、嬉しかった。 そのとき放送された演奏も、この団体のものだった。
今、久しぶりに聴いてみて驚愕した。第1楽章は遅く、温く、薄い演奏だと思い込んでいたが、 とんでもない。ピアノは弦につかず離れず立ち回り、弦はアンサンブルよく全体を形作っている。 第2楽章は快速かつ華やかで、一息で書き上げた書道の字のように筋よく弾き上げている。 第3楽章の歩みは確かでフォーレの音楽語法が余す所なく伝えている。 残念なことにここまでの演奏が傑出しているため、 第4楽章の演奏が割を食っているようだ。和声の響きはよいのだが、 縦の線の合わせ方、リズムの浮き立たせ方や対比が甘いために、 この楽章が本来もっている、渦を巻くような力が今一つ出てこない。惜しまれる。
この演奏を聴いて昔の感動を思い出した結果、個人的な思い出をつい書いてしまった。 ごめんなさい。なお、この盤は長らく絶版だったが、 最近再発売されている。(2004-10-30)
全体にテンポを遅く取り、調和を目指した演奏。 弦とピアノの対比は抑えられている。 ルバートの部分がわずかにあり、そこに違和感があるが、聞き込めば印象が変わるだろう。 (2009-05-31)
古くから知られている演奏。どちらかというと、勢いを重視している。 映画「田舎の日曜日」の最終場面で流れる本曲の第1楽章は、この演奏である。 (2009-05-31)
厚みと歌心が加わった演奏。特に第1楽章で楽譜と違う箇所があるのが残念。 (2009-05-31)
最初は求心力の高い演奏と思っていた。この印象は変わらないが、 最初から最後まで通して聞くと必ずしもそうとばかりはいえない。 低音域で支えがほしいときに高音部に音域が集中することがあるように聞こえた。
全体としては穏当な解釈であり、長く安心して聞けると思う。 特に第4楽章は滑らかさが際立っており、Auryn 四重奏団 / Peter Orth との対極にあるようだ。
ゆったりめの演奏で、どちらかというと ORTF 四重奏団とジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン(p)の行き方に似ている。 もちろん、音は ORTF に比べて抜群にいい。第4楽章の推進力が多少弱い気がする。 (2011-10-02)
第1番のところでも書いたのだが、テンポが不安定なのが残念である。(2012-02-10)
勢いと快速感がある。第1楽章ではつんのめりそうなリズムの不安定感さえあるが、 弦が同じ表情で歌うので全体としてはよいできの演奏だ。(2012-07-11)
第1楽章は冒頭少しテンポが安定しない気がする(特に提示部第2主題のところなど)が、その後は美しく聞かせる。 第1ヴァイオリンにわずかなポルタメントが聞こえるからだろうか。 ピアノは伴奏のまわったときのテクスチャーの表現に心打たれる。 特に、練習番号14から15にかけての細かな16音符の動きがくっきりと、しかし静かに浮き立っているのには驚いた (2018-03-25) 。
大木正興によると、ピアノ五重奏曲という形式は作曲家にとって一度でよいものなのだという。 そしてただ一人の例外がフォーレであるとも付け加えている。 フォーレの2曲は互いに通じる書法もあり、異なる書法もある。 この作曲家にとってピアノ五重奏曲は、最適な形式であったのではないかと思う。
さて、同じピアノ五重奏曲では、ショスタコーヴィチのものが有名である。 ショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲は、彼のチェロソナタ同様、歌心に富んだ作品であり、 彼の曲のなかではとっつきやすいほうに属する。彼の五重奏曲のスコアには、 「ピアノはオクターブを鳴らし、弦が和音の厚みをつけるのが特徴」と書いてある。 フォーレの五重奏曲における書法は対照的で、 ピアノは和音を主とする一方、 弦はオクターブで重なることの多いメロディーを奏する。 資質の違いといってはそれまでだが、 ともに転調に独特の嗅覚を持つ二人が同じ形式で異なるアプローチをとったのは面白いことだ。
なお、一部譜例は abc 記法による