Rail Story 8 Episodes of Japanese Railway

 ●消えたターミナル

阪急電車の大阪でのターミナルといえば梅田。京都線・宝塚線・神戸線が各々3つのホームを持つ私鉄最大級の駅だが、そもそも生まれの違う京都線のターミナルは全く別の場所にあった。それは現在も私鉄ターミナルの範となっている梅田駅よりも長い歴史があり、駅そのものの機能を失ったものの、今もなお存在している。

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阪急3300系阪急京都線はもともと阪急が建設した路線ではなく、京都線のライバル、京阪が建設した路線であるという話は有名。関西の私鉄各路線の多くは当初の路面電車スタイルから現在の高速電車に発展しているが、京阪とて例外ではなかった。しかし京阪の場合カーブが多く簡単には高速運転が出来なかったことが悩みの種で、この際淀川の対岸に高速新線を建設して一気にスピードアップを図ろうとした。

当初京阪は京都・大阪両方のターミナルはそのままで途中区間だけを新線とする案を立て、大正7年4月16日に申請、のち京都側を現在の大宮に変更することになり同年12月27日追加申請し、翌大正8年7月21日に大阪側のターミナルも同じく別に設けよとの旨の命令書付きで認可が下りている。

この「命令書付き」という予想外の展開に京阪は慌てるが、当時関西鉄道から鉄道省が引き継いだばかりの城東線(現在の大阪環状線)の高架化計画があり、その跡地を利用して梅田乗り入れを果たそうとした。
ところがこの計画は大阪市の横槍が入って中止となり、結局京阪は現在の阪急千里線と京都線十三-淡路間を開業していた北大阪電鉄を手中に収め路線を接続することにし、同社が保有していた淡路-天神橋筋六丁目間の路線免許も譲渡を受ける。

この時点で北大阪電鉄は本来基点を予定していた天神橋筋六丁目まで開業していないが、十三で箕面有馬電気軌道、即ち現在の阪急宝塚線に接続して大阪市内中心部へのアクセスを確保している。これは淡路から天神橋筋六丁目へ向かうには途中で新淀川を渡る必要があり、架橋に巨額の資金を要するためであった。逆に十三-淡路間は東海道本線の移設に伴う跡地を利用出来たため、このほうが安上がりでかつ早期に開業出来るというのも事実だった。

大正12年4月1日、路線を引き継いだ京阪は淡路-天神橋筋六丁目の建設に着手、新会社の「新京阪電鉄」を設立し大正14年10月15日に開業する。この時天神橋筋六丁目が京阪が新線の路線免許を下付された際の大阪側のターミナル、天神橋駅としてつくられたが、開業当初は本来の駅の建設が間に合わず、少し手前の仮の駅だった。
晴れて年末にオープンした駅舎は画期的なものになった。線路は高架で建物2階へ一体化、1階は改札口だったが、3・4階は新京阪マーケット(百貨店)、5・6階は京阪電鉄の本社事務所が入居した。
今では当たり前のターミナルビル形式、しかもテナントが入居するという手法を日本で初めて実現したのは、この新京阪の天神橋駅だった。

ここで注目したいのは「駅名」。本来天神橋という橋は駅よりも2km程南にあり、駅が出来た場所はあくまでも天神橋筋六丁目。なぜそれを名乗らなかったかというと、京阪はこの先路線を南に延長したいという希望を持っており、その時本当に天神橋の近くに駅を移設するという案もあったからだ…という説がある。また出来上がった駅ビルの正面には三つの大きな窓があり、それは将来線路を延ばす構造になっていたとも言われているが、その延長説がずっと後になって実現したものの、天神橋駅の運命を変えるとは誰も思わなかっただろう。

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新京阪の路線建設は急ピッチで進んでいき、昭和3年11月1日に天神橋-西院(仮駅)間が開通。その後西院-大宮間は地下線での工事が始まるが、ここで世界恐慌が起こり新京阪も影響を受けて工事半ばの昭和5年9月15日、親会社の京阪電鉄と合併の形となり京阪電鉄の「新京阪線」として再デビューすることになった。翌昭和6年3月31日に路線は大宮まで全通、大宮は「京阪京都」と名乗った。
天神橋-京阪京都間には名車デイ100形による特急が運転を開始、大山崎付近で鉄道省の超特急「燕」とデッドヒートしたという話は今でも語り継がれている。

昭和9年には箕面有馬電気軌道改め阪神急行電鉄、即ち阪急との接続を図るため、十三-京阪京都間に急行が走り出した。一旦は安定したような新京阪線だったが、やがて太平洋戦争が勃発、戦局が怪しくなる中で京阪電鉄は本線共々政策により昭和18年10月1日、阪神急行電鉄と合併し京阪神急行電鉄となる。もっともこの合併時に阪神電鉄も合併するという案もあったらしいが、阪神側が難色を示したため実現しなかったという。
合併直後には十三発着となっていた新京阪線急行の梅田延長が行われることになり、昭和19年4月8日、急行の運転系統は梅田・天神橋-阪急京都(もとの京阪京都)に改められ、淡路で双方の電車を連結する方法を取っていた。

やがて終戦を迎え、昭和24年12月1日に京阪電鉄が独立の運びとなったが、新京阪線はそのまま阪急に残り阪急京都線として再々オープンした。翌昭和25年10月1日には特急が復活、特急と普通が天神橋-阪急京都間、急行が梅田-阪急京都間という運転形態となり天神橋駅は阪急京都線のターミナルとしての地位を築くが、急行の大阪キタの中心、梅田発着という魅力は大きなものがあり、昭和31年4月1日から特急が梅田-阪急京都間の運転に変わり、天神橋駅は普通電車だけの発着となって一気に寂しくなってしまう。

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昭和30年代以降、大阪では道路事情が急速に悪化し市電に代わる新たな都市交通の手段として、ながらく大阪市が拒否を続けてきた既存路線の市内中心部延長が具体化することになる。運輸大臣の諮問機関、都市交通審議会は昭和33年3月28日の答申で国鉄城東線天満から堺筋を経由して動物園前に至る路線の必要性を打ち出す。続いて昭和37年7月13日の第二回都市交通審議会で、阪急が地下鉄堺筋線の建設を表明、のち大阪市、南海も同様の計画を発表し事態は混乱する。
結局この計画は大阪市が堺筋線を建設、阪急と南海が乗り入れという形となるが、当時三社の規格はバラバラでそのままでは直通運転を行えなかった。結局昭和40年8月に事態を一任された大阪陸運局長の裁定により、阪急の規格で建設されることが決まった。

地下鉄堺筋線の建設は翌昭和41年4月にスタート、万国博開催を控えて工事は急ピッチで進められ昭和44年12月6日、天神橋筋六丁目-動物園前間が開業、阪急千里山線も延長されて北千里・高槻市-動物園前の相互乗り入れが始まった。かつて京阪時代に夢に描いていた天神橋以南への延長がこの時実現したとも言えるものの、新京阪以来の伝統を保つ天神橋駅は役目を終えた。
というのも地下鉄堺筋線との接続点は「天神橋筋六丁目」という地下駅。天神橋駅ではなかったからだ。かつて駅からそのまま線路を延長するという計画は結局実現せず、線路は接続のため新淀川を渡った後急勾配で地下に降り、天神橋筋六丁目駅に達する構造に変わってしまった。

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かつて天神橋筋に威容を誇った天神橋駅ビルだが、現在も「天六阪急ビル」という名で存在している。

現在の天六阪急ビル 内部の階段の様子

地上部分が8階建てのこのビルは、戦後高層ビルが出来るまで建築基準法で規定されていた高さ31m近くと思われ、新築当時はかなり目立つ存在だっただろうと推測出来る。かつてホームの先端に大きなアーチ状の窓があった正面こそ少し増築されて趣きが変わっているが、その他はほぼ原形を留めている。
現在1階には阪急共栄ストア・りそな銀行があり、2階はストアの事務所と搬入口・駐車場、それより上の階は貸事務所となっている。北側はかつての高架線路が分断されたままとなっているが、その隣には地下へと進んでいく現在の線路がある。

こうして「天神橋」という駅は消えてしまったが、もしも歴史が変わっていたなら、この駅は今でも存在したのかもしれない。


今も天六に建っている茶色のビルには、こんな話があったのです。でも本当にこのビルが駅としてそのまま…だったとしたら、さぞ賑やかだったと思いませんか?

次はもう少し阪急電車の話題です。

【予告】阪急電車の謎 2

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年12月号増刊 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2003年10月号 【特集】関西大手民鉄の列車ダイヤ 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1989盛夏号 阪急電車特集 PartU 京都線・嵐山線・千里線 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2002盛夏号 阪急電車特集 PartX 京都線 関西鉄道研究会

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