関西私鉄ストーリー

本日も御乗車、ありがとうございます。

このページでは地下鉄銀座線ストーリーに引き続き、私鉄王国関西のことを紹介致します。


 
 ●阪急京都線の謎 京都線っていったい何?
 
阪急電車は、神戸線、宝塚線、京都線の三本柱を中心に出来ている。特に梅田−十三間の三複線は圧巻で、毎正時に梅田を神戸線特急、宝塚線急行、京都線特急が同時発車していく様は他の鉄道では見られない、ダイナミックなシーンである。

しかし…今は同じ阪急であっても、神戸線・宝塚線と、京都線は生まれも育ちも違うのである。
 
 

阪急京都線は、実はライバル会社の京阪電鉄によってつくられていた!

では今の阪急の基礎となっているのは、と言うと宝塚線なのである。明治43年「箕面有馬電気軌道」という社名で開業している。もともとは有馬まで路線を延長する計画であったが、地形上の問題もあったかそれは断念せざるを得なかった。しかし沿線は閑散とした田園風景の中で、乗客の数はたちまち伸び悩んでしまった。そこで路線の終点宝塚に遊園地を建設、そこに生まれた少女歌劇団「タカラヅカ」は現在まで名を馳せる結果となっている。

次に箕面有馬電気軌道は路線を神戸へ延ばす。それまで路面電車の域を脱していなかった宝塚線に比べ、十三から神戸へ向かう神戸線は一応「軌道」ではあるものの、始めから高速運転を目的としてつくられた。しかし宝塚線以上に開通当初は何もない所を電車が走っていたと言われており、宅地開発を進め、芦屋、六甲、夙川といった高級住宅街を形成する。この運営形態が各地の私鉄でポピュラーとなっていく。神戸線の開業と同時に社名を「阪神急行電鉄」と改め、略称である「阪急」がずっと後に正式社名となる。

じゃ、京都線は…と言うと、京都線の基礎となったのは今の千里線なのである。それも鉄道会社が作ったのではなく、「北大阪土地株式会社」という不動産屋が、千里周辺に計画していた宅地の足として、天神橋筋六丁目−淡路−千里山間の路線を計画したのが最初だった。
しかし淡路から天神橋へ向かう途中には新淀川に橋を架ける必要があり、これにはかなりの資金を要するため、とりあえず阪急の十三を基点として、その先千里山までの路線の建設にあたった。大正10年10月26日、「北大阪電鉄」として開業。

この頃、淀川を挟んで反対側に位置する京阪電鉄は、本線とは別の京都-大阪間の新路線を計画していた。何しろ今はかなり改良が進んだが、もともと京阪は国道1号線に沿って走っていたためにカーブが多く(「京阪電鉄カーブ式(株式)会社」と言われる位)、高速性に欠けるからだ。路線はバイパス線として計画され、大阪側は京橋を出てすぐの野江から別れ、淀川を渡って吹田、茨木、高槻を経由して再び淀川を渡り、京都側の淀で本線に接続するものであった。後に京都側の終点を四条大宮に変更し、大正8年、路線免許を得る。だが、この免許には命令書が付いていた!

「大阪側には別に基点を設けること」

京阪は大阪側の基点を模索し始める。そこで当時十三−千里山間を開業し、かつ未開業の淡路−天神橋筋六丁目間の免許を持つ北大阪電鉄に白羽の矢が立った。天神橋筋六丁目を基点として、淡路から路線を京都方面に延ばせば、京阪の夢は実現する。

ここで当時鉄道院にいた五島慶太の介入もあり、京阪は北大阪電鉄の株を過半数取得し実権を掌握、この大阪−京都間の新路線は「新京阪鉄道」(以下新京阪)として京阪から独立した形でスタートした。

新京阪は大正12年4月、北大阪電鉄の権利、義務の譲渡を受ける。その後大正14年10月には淡路−天神橋筋六丁目間を開業、引き続き京都への工事を進める。この間、京都市内の西院−四条大宮間は地下線に変更したが、地下線の工事は後回しにして、とりあえず西院は地上の仮駅としてこれを終点にしたが、それは昭和天皇の即位に間に合わせなければならなかった。昭和3年1月16日、淡路−高槻町(今の高槻市)間開業、そして同年11月1日、西院(仮駅)まで開通する。この西院仮駅は、西大路四条交差点の南西側の角にあって、ちょうど現在の京都線が地下に入る部分である。

また支線である嵐山線(桂−嵐山間)は、京阪が路線免許を持っていたのではなく、京福電鉄の前身、京都電灯が持っていた免許を譲受したもので、昭和3年11月9日に複線で開業したが、戦時中の金属回収令で不要不急の路線とされ、あえなく単線となってしまった。これは今もそのままだ。

その後四条通りの下を堀り進み、西院−四条大宮間は昭和6年3月31日に開業し、天神橋筋六丁目−四条大宮間がめでたく全通する。この地下線は東京地下鉄道浅草−上野間に次ぐもので、もちろん関西初。大阪市の地下鉄よりも早かった。当時の新聞は

「京都に地下鉄開業」と書いたとか。

ただし四条大宮はこのとき京阪京都と改名した。本来なら「新京阪京都」となるはずであった。

実は昭和4年頃から世間を席巻した世界恐慌により、景気低迷、不景気のあおりを受け、新京阪は京阪からの完全な独立が不可能となっていて、全線開通直前の昭和5年9月15日、京阪と合併していたのだった。京都線は「京阪の新京阪線」として再スタートしていたのだ。

名車デイ100形の「超特急」が鉄道省の超特急「燕」を並行区間で追いぬくという華々しい話題もあったが、その後日本は戦争への道を歩み始める。日本各地で陸上交通事業調整法による鉄道会社の再編が行われる中、昭和18年10月1日、京阪は本線共々阪神急行電鉄と合併させられ「京阪神急行電鉄」となってしまった。ただし京都線の基点は天神橋筋六丁目だったが、戦時中にもかかわらず、大阪キタの中心、梅田への乗り入れは昭和19年4月8日、宝塚線へ乗り入れるという形ではあったが実現した。

そして終戦。そもそも別会社だった阪急と京阪は昭和24年12月1日、袂を別つことになるが、ここで元の新京阪線は阪急に所属することになり、「阪急京都線」として再々スタートした。のちに淀川を挟んだ京阪、また国鉄(現JR)を含めた、京都−大阪間レースの幕開けとなったのである。

その後昭和34年2月18日、梅田−十三間の三複線化が完成、京都線のスピードアップが実現する。また京都市内の四条大宮−四条河原町の地下線による延長は、すでに新京阪時代の昭和2年10月18日に免許を得ており、これを利用したものである。工事は京都の祇園祭に支障しないよう行われ、昭和38年6月17日、開業した。

その他、元祖京都線である千里線(当時千里山線)は、千里ニュータウンの拡大により、千里山−北千里間を延長する。万博を前にした昭和44年12月6日には大阪市交通局(地下鉄)堺筋線との相互乗り入れも実現。当初北千里・高槻市−動物園前間だけが相互乗り入れ区間だったが、後に「堺筋急行」と称し、阪急の車両を使用し朝夕数本の河原町直通(京都線内は急行)が行われるようになり、地下鉄堺筋線も天下茶屋まで延長されている。

戦後京阪との分離が行われた後も、社名の「京阪神急行電鉄」はずっとそのままだった。しかし戦前から阪神急行電鉄を略した通称「阪急」はすでに関西人に広く浸透してしまっており、正式な社名は公式文書にしか使われなくなってしまっていたのが実情ということもあり、昭和48年4月になってようやく今の「阪急電鉄」となった。阪急の戦後はえらく永かったのかもしれない。


しかし…阪急京都線は奇妙な歴史を持っているんですねぇ。ライバル会社がつくった路線が勝負の舞台になっているなんて。

次はもっと雄大な話です。

【予告】阪急京都線の謎 目指していたものは…

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年10月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第一部」 (株)鉄道ジャーナル社
関西の鉄道 1989新春号 阪急電鉄特集PartU 関西鉄道研究会

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