大変ながらくお待たせ致しました
レイル・ストーリー7、只今発車します


 ●萱島駅の謎

「京阪電車」といえば何を思い浮かべるだろう。まずは特急『テレビカー』だが、それは既にこのシリーズで二度取り上げた位、多くの話題があるのは確かだ。今回はそれ以外の話題に触れてみよう。

京阪の創業当初からの悩みはカーブの多さ。もともと国道1号線沿いにつくられた路面電車スタイルの路線ということもあるが、ともかく速く走らないとせっかく大阪と京都を結んだ意味がない。
とにかくスピードの出る直線区間で優等列車の高速走行が必要ということになり、大阪寄りの蒲生(現在は廃止)-守口(現在の守口市)間4.2kmを複々線としたのは昭和8年12月29日のことで、これは他に例を見ない早さだった。この間は直線が連続しており、内側の2線を通過専用とし、途中にある6駅には外側の普通電車用2線にしかホームがない。現在も特急以下準急までホームのない内側の線路を軽快に走るのが京阪の魅力でもある。

この頃既に大正15年阪急が梅田-十三間を複々線としているが、これは神戸線と宝塚線を並行して走らせただけ。現在新快速が疾走する東海道線も複々線となっていたが、こちらは本来短距離の通勤電車用の「電車線」と、長距離の旅客・貨物列車用の「列車線」に分けたもので、どちらも京阪の「優等列車の普通電車追い抜き専用複々線」とはスタイルが違っていた。他の私鉄がこのような複々線建設による高速化を手がけたのは戦後の話で、それほど京阪の先見の明には驚くべきものがある。

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戦後の京阪は特急の復活を期に、特急にはエアサス車や『テレビカー』を実現、いっぽう普通電車には高加減速車『スーパーカー』を実現という新機軸が中心となっていくが、それはこの時期までは既に完成していた複々線の恩恵があって対応できていたに他ならない。

昭和33年の都市交通審議会の答申は、関西地区の私鉄の大阪市内中心部乗り入れが実現するものとなった。京阪はもともと大阪市内に路面区間が遅くまで存在していたが、それは大阪市電乗り入れによりキタの中心、梅田まで電車を直通させようとしたものであった。
結局その案は大阪市側のドタキャンで実現しなかったが、今度は違う形、即ち現在の地下線での天満橋から淀屋橋への延長だった。

昭和38年4月16日には淀屋橋延長線が完成する。永らく京阪の大阪側ターミナルとして親しまれた天満橋駅はこれを機会に地下化されたが、電車の編成が長くなった晩年を除いて、この駅は降車ホームと乗車ホームが同じホーム上でも停車位置で区別していた。電車が駅に到着したらまずホームの手前半分で乗客を降ろし、一旦ドアを閉めて奥半分に進んで再びドアを開け、乗客を迎え入れるというこの方法は、京阪だけでなく近鉄上本町駅などでも行われていた。現在も淀屋橋駅で特急が折り返す際、一旦乗客を降ろしてから数メートル移動して乗客を乗せているが、それはこの方法の名残である。

大阪市内の大動脈である地下鉄御堂筋線との接続が出来るようになり、京阪はますます便利になっていく。続いて京橋駅付近の改良と高架化も進められ天満橋-野江間が昭和45年11月1日、同時に複々線化されて完成。京阪自慢の複々線は天満橋-守口市間となった。

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この後、京阪は再び乗客増に悩まされることになる。日本初の5扉車となった5000系の投入(その話についてはこちらも)もされたが、更なる増発と高速化、同時に踏切の解消を実現するには線路の更なる高架複々線化が必要だった。京阪は先に完成した天満橋-野江間に続いて、昭和47年11月には守口市-寝屋川信号場(寝屋川車庫の出入口)間の工事に着手した。

工事は住宅地に挟まれた狭い場所に仮の線路を作ったり、工事の済んだ部分から順次高架化したりで苦労の連続だったが、まず守口市-門真市間が昭和51年9月12日に完成、残る門真市-寝屋川信号場間も昭和55年3月16日に完成し、私鉄最長(当時)の複々線区間は12km以上となり京阪の輸送力増強は着々と進んでいった。その後も電圧のアップ(600Vから1,500Vへ)、七条-三条間の地下化と出町柳延長、枚方市駅、寝屋川市駅、淀駅の高架化などの改良が次々と行われることになる。

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当たり前の話だが、複々線化はどうしても線路の用地がそれまでの倍は必要となる。門真市から伸びてきた高架複々線だったが、工事区間も終わりに近い萱島駅では一つの問題が起こった。樹齢700年にも及ぶ大きな楠が大阪方面行きホームの邪魔になってしまうのである。

切り倒して駅を建設すればそれで事足りるのだが、この楠はずっと地元の住民に愛されてきたもの。とても切る訳にもいかないということで、ホームの幅を広げ木をそのまま残すことになった。完成した萱島駅にはその楠がホームとその屋根を突き抜けてさらに天へと伸びているが、生い茂る緑はホームで電車を待つ乗客にとって癒し空間となり、夏にもなると涼しげな木陰まで提供してくれるという、萱島駅にとって今や重要な存在になっている。

屋根を貫く楠

楠

楠

駅の屋根を貫通する楠

ホームの中の「癒し」空間となった楠

駅の下には小ぶりながらも鳥居があるが、これはこの地に再興された萱島神社で、御神木はもちろんこの楠であることは言うまでもない。またホームの京都寄りにはこの楠の由来が書かれている。

萱島神社

ホームにある楠の由来

駅の下には萱島神社がある

楠の由来が書かれている札

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こうして今も萱島駅のシンポル的存在としてそびえる楠だが、無事竣工した高架複々線化を記念して京阪電鉄がつくった工事写真集のタイトルは「クスノキは残った」だった。今も地元の人に愛されているこの楠は、京阪の社員や当時の工事関係者からも愛される存在だったのである。


−参考文献−

鉄道ピクトリアル 2000年12月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道 鉄道図書研究会
関西の鉄道 1999年爽秋号 京阪電気鉄道特集PartV 関西鉄道研究会

―あとがき―

前作「レイル・ストーリー6」をリリースしてから1年以上のブランクとなってしまいました。お待たせして本当に申し訳ありませんでした。ここにお詫び申し上げます。

今回の「レイル・ストーリー7」の構想は、既に前作を書き上げた時点でほぼ確定していました。去年秋にはさっそく静岡の大井川鉄道を訪れて北陸鉄道『しらさぎ』の取材を行い、またその後も石川県内の取材などが出来ましたが、今年に入りボクの回りの環境が変わり、なかなか取材や執筆の時間が取れなくなってしまいました。

自分自身「行かなきゃ」「書かなきゃ」という焦る気持ちばかりでしたが、ようやく少し時間に余裕も出てきたので念願だった広島地区取材を4月に行いました。広島電鉄もお好み焼も良かったのですが、何と言っても平和への思いを新たにすることが出来たのがボクにとって大きかったと思います。
しかしこの時点で予定していた名古屋地区、東京地区の話題は取材日程に無理があったのと内容の欲張りすぎの懸念もあって、次回作へ持ち越しとし、今回は北陸地区と関西地区の話題に集中しようと決めました。
残る大阪地区の取材が8月に出来ました。とても暑い日でした。今は晩秋ですが、こうして書いているとあの時の暑さを思い出します。詳しくは「旅日記」をご覧下さい。

取材が終わると思っていたよりサクサクと執筆が出来ましたが、取材の遅れは遺憾ともし難く、ようやくリリースに漕ぎつけました。ただし参考文献の量は終わってみるとハンパじゃない数で(笑)、子供の頃からとはいえよくもまあこんなに買ったものだと自分でも呆れています。

さてここ1年、ボクの身近なところでの「鉄道」は大きく、目まぐるしく変わりました。

北陸線特急『しらさぎ』『加越』が新車になり、『雷鳥』からボンネット先頭車が姿を消しました。いえ、その『雷鳥』は3年後に『サンダーバード』化されるようで、電車ごとの勇退がアナウンスされました。
東海道新幹線では前作でも取り上げた100系が早くも引退、とにかく今まで当たり前に思っていた事が、当たり前じゃなくなるという事実に、正直驚いています。時代は少しずつ、また別のところでは信じられない速さで動いているなと実感した1年でした。

ご乗車ありがとうございました。また次回作でお会いしましょう。

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