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レイル・ストーリー7、只今発車します


 ●橿原神宮前の謎

「近鉄」といえば日本一の規模を誇る私鉄だが、その路線網は近鉄が大阪電気軌道(以下略して大軌)だった頃、大阪南部から東部にかけて林立していた私鉄同士の思惑と現実が複雑に入り乱れた結果出来たもの…とも言える。その名残の一つが橿原神宮前駅とその付近に残っている。

現在の近鉄橿原線は大軌橿原線として大正12年3月21日に西大寺-橿原神宮(現在の橿原神宮前)が開通しているが、路線免許が大軌に下付された時に現在の田原本線である大和鉄道と天理線である天理軽便鉄道を買収することが条件とされていた(この辺の話はこちらも)。もっとも橿原線の計画時、終点は橿原神宮ではなく今のJR天理線畝傍駅を予定していたため路線名は畝傍線となっていたが、のちに橿原神宮に変更し橿原線となった。
大軌は続いて参宮急行電鉄との路線拡大に成功、伊勢神宮、橿原神宮という二つの「神域」を沿線に、さらに紀元2600年に向け大私鉄への基礎を築いていくことになる。

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ところが長い歴史を持つ橿原神宮同様、橿原神宮前駅も複雑な歴史を持っている。

大軌橿原線の橿原神宮駅には吉野鉄道が大正12年12月5日に吉野口-橿原神宮間の開業時に構内に乗り入れた。吉野鉄道は既に開業していた吉野(現在の六田)-吉野口間と路線が繋がったが、この時点まで大阪からの乗客輸送は吉野口で接続する国鉄(現在のJR和歌山線)に委ねていた。翌大正13年11月1日に吉野鉄道は国鉄桜井線との接続を図るべく橿原神宮-畝傍間の延長も果たすが、この区間は小房(おうさ)線と呼ばれることになる。

その後、吉野鉄道は全国的に有名な桜の名所、吉野山へのアクセスを改善するため六田-吉野間の延長を昭和3年3月25日に行い、観光輸送と木材輸送の両面を伸ばしていく。続く昭和4年3月29日、現在の近鉄南大阪線である大阪鉄道(以下略して大鉄)が吉野鉄道の久米寺(橿原神宮の一つ南の駅)まで開業、吉野鉄道と大鉄は事前に結んでいた契約に基づき大鉄からの直通運転を実現した。
もともと吉野鉄道と大鉄は国鉄との貨車直通を行うためにレールの幅は1,067mmだったのに対し、大軌は1,435mmで建設されたため、大軌は橿原神宮で吉野鉄道との乗換えがどうしても必要だった。

大阪から自社路線経由で観光地吉野を手中に収めたい大軌は、橿原神宮から先へと吉野鉄道に並行した路線免許を申請、両社の雰囲気が気まずくなっていく。既に近鉄大阪線の前身、大軌桜井線が昭和2年7月1日に八木に達しており、橿原線に乗り入れて橿原神宮まで直通していた(この辺の話はこちらも)が、大軌沿線から吉野山へ向かう客は橿原神宮と久米寺の二度の乗換えが必要となり、しかも両駅の間隔はたったの500m、不合理は否めなかった。
大軌は大阪から吉野山へ向かう客をみすみす大鉄に取られたことに焦りを感じたのもしれない。しかしもともと沿線人口の少ない吉野鉄道の隣に新規路線が認可されるはずもなく、大軌は吉野鉄道の株式を買収、大鉄と吉野鉄道が直通運転を開始してから半年もたたない昭和4年8月1日、吉野鉄道は大軌吉野線となってしまった。

しかし大軌吉野線となってからも大鉄からの直通運転が行われていた。というのもこの直通運転は吉野鉄道時代に契約されたものだが、契約はずっと有効となっていたためで、大軌橿原線からの乗客は相変わらずの二度の乗換えを強いられていた。
大軌はこれを少しでも解消するため橿原線電車の久米寺直通を行うことにした。橿原線と吉野線はレールの幅も電圧(橿原線は600V、吉野線は1,500V)も違うので、吉野線のレールの外側にもう1本レールを敷き、走る電車に合わせて電圧を切り替えるもので、これで電車の直通を実現したらしい(電圧の切り替えが本当に行われていたかは明らかになっていない)。

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紀元2600年(昭和15年)を迎えるにあたり、橿原神宮駅は大きな変化を迎えることになる。

橿原神宮がこれを機会に国威高揚を図るため拡張造営されることになり、それを受けて橿原線八木駅から南の線路を東側へ300m移設することになった。昭和14年7月28日には現在の位置に駅が完成した。同時に吉野線久米寺駅は新しい橿原神宮駅に統合され、大鉄の電車も乗り入れるようになり、大軌からの二度乗換えは解消した。

いよいよ昭和15年になると、戦時中にもかかわらず橿原神宮駅は各方面からの乗客で大賑わいを見せることになる。大阪線からは伊勢直通用の電車がこちらにも乗り入れ、当時既に橿原線と直通運転していた奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)も新車を投入して京都からの直通急行運転を実施した。
さらに特筆すべき点は当時国鉄畝傍駅でレールが繋がっていた小房線を経由して蒸気機関車の牽く国鉄の列車が橿原神宮駅にも乗り入れたことで、これらの列車で駅は大盛況だったという。

やがて戦局の悪化で日本はどんどん荒廃していく。そんな中で昭和18年9月12日、大軌は大鉄を合併、続く昭和19年6月1日には南海鉄道をも合併し近畿日本鉄道、つまり「近鉄」となる。
畝傍-橿原神宮間の小房線は昭和20年6月1日に運転休止となり、以後近鉄の電車が走ることはなくなったが、貨車の直通は継続して行われた。路線は戦後まで残ったが昭和27年4月1日には廃止となった。近鉄吉野線・南大阪線と国鉄との貨車直通は和歌山線吉野口駅で行われることになった。

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橿原神宮前駅(昭和45年橿原神宮駅から改称)はそれからずっと橿原神宮の玄関口として、橿原線と吉野線・南大阪線の接続駅として機能しているが、それ以外にも重要な役目がある。

近鉄には大阪線五位堂に大阪線・奈良線・南大阪線などレールの幅を問わず電車の検査等を行う工場があるが、南大阪線・吉野線の電車はレールの幅が違うためそのままでは大阪線へ入れない。このため橿原神宮前駅でレール幅の大きな台車に「履き替え」を行う必要がある。そのため駅としては広大な敷地が必要となるが、かつて国鉄の列車が乗り入れるほど規模の大きかったこの駅は、履き替え作業を行うには丁度良いものだったのである。

小房線ホーム跡は工場に
隣の工場がかつての小房線ホーム跡

小房線の廃止で役目を失ったホームは撤去され、新たに上屋が建てられ台車の交換場となった。この部分のレールは1,067mmと1,435mmが入り乱れ、3本もしくは4本のレールが敷かれている。もともとは国鉄からの乗り入れ列車を受け入れられる長いホームがあった場所だ。

さてその小房線はどうなったのだろう。

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橿原神宮駅を出た小房線はしばらく真北に走る橿原線と並行になったあと、やがて北北東へと向きを変える。現在の国道169号線と斜めに交差した直後にはこの区間唯一の途中駅、小房駅があった。
確かに国道と斜めに交差する細い道が1本だけあるが、これが小房線の跡だ。

小房駅跡付近

現在の線路跡

斜めに交差する細い道

その先は真っ直ぐ進む

ここから先、線路跡は道路と宅地になっている。道路は線路跡とは思えない程狭く、おそらく軌道敷を縦に分割、一つを道路、もう一つを宅地に充て、宅地のほうは1軒分ずつ分割していったのだろうと推察出来る。そのまま進むと飛鳥川を渡ることになる。

飛鳥川を渡っていた橋の遺構は何も残っていないが、小房からの延長線上を辿ると再び線路跡が続く。ここも同様に半分が道路、半分が宅地となっているようだ。やがて線路跡は突き当たりとなり、線路跡は途絶えている。この先小房線は左にカーブしながら畝傍駅へと向かっていたはずだ。

小房線跡

小房線跡

さらに線路の跡は続く

この先途絶えている

現在の近鉄の全駅中でも、橿原神宮前駅ほど複雑な歴史を持つ駅は少ない。それは近鉄の歴史だけでなく、大正以降の日本の歴史をも含めたものと言っても過言ではない。そんな中で本来の機能を発揮しつつ現在要求されている使命も果たしているという、実に不思議な存在の駅でもある。


大私鉄の近鉄には、この他にもいろいろかつての路線、駅などの跡がいっぱいありますが、それらはまた次の機会に紹介することにしましょう。

次は廃止された路線が、全く別の形で悲劇的に生まれ変わったという不思議な話です。

【予告】消えた天王寺線

−参考文献−

鉄道ピクトリアル 1981年12月臨時増刊号 近畿日本鉄道特集 鉄道図書研究会
鉄道ピクトリアル 2003年1月臨時増刊号 【特集】近畿日本鉄道 鉄道図書研究会
車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道 特急車 関西鉄道研究会

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