レイル・ストーリー4 タイトル
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レイル・ストーリー4、只今発車いたします


 ●大和八木駅の伝説

アーバンライナー、伊勢志摩ライナー、さくらライナーに代表される近鉄の特急ネットワークは、私鉄とは思えないほどのスケールと木目細かさでも有名だ。

今の近鉄特急(有料制)は戦後まもなくの昭和23年にスタートした。当時はまだ復興が始まったばかりで、電車には窓ガラスがないのが当たり前、代わりに板をはめ込んであればまだ良いほうという時代にもかかわらず、眩しい位全部の窓にガラスが完備され、それは会社の机のガラス(デスクマットの事)まで使ったと言われたという。車体もライトイエローとブルーに塗られた専用車が用意された。

その後、世の中も落ち着きをみせはじめ、近鉄は次々に特急電車をデビューさせた。中でも昭和34年の名車「ビスタカー」(2世)は近鉄のブランドとなり、電車は大阪-名古屋間ノンストップ運転を実現、一躍名阪間のスターとなった。

ところが昭和39年に東海道新幹線が開通し、ビスタカーの名阪特急はガラガラに。近鉄の対抗策は新幹線からのお客を近鉄特急に誘導することだった。近鉄のテリトリー、大阪・京都・奈良を訪れた観光客をリゾート地区の伊勢志摩へ運ぶため、急いで特急網の整備にとりかかった。それは昭和45年に迫った万国博までに確立しておかなければならなかった。

まずは新幹線の開業に合わせ、奈良電引継ぎの電車をリニューアルして京都-奈良間に特急を走らせ、これを足掛かりに京都-伊勢志摩直通の特急が計画された。そのルートは京都から京都線と橿原線を大和八木まで走り、ここから大阪線へ乗り入れて伊勢志摩へ向かうものだ(これは今でも同じ)。しかし当時京都線・橿原線は上り線と下り線の間隔が狭くて小型車しか走れず、しかも電圧が京都線・橿原線が600V、大阪線が1500Vと異なっていたが、近鉄は小型ながらも苦心して車体を設計、両方の電圧を直通出来る方式を採用した新車(18200系。既に引退)を用意した。

大和八木駅付近の線路

ところが大和八木駅は大阪線と橿原線が直角に立体交差する構造。駅から離れたところにひっそりと両線のレールが繋がっているだけだった。京都-伊勢志摩を結ぶ特急は昭和41年12月20日にデビュー、その連絡線を使って橿原線と大阪線を行き来することになった。

ここで前代未聞の出来事が起こった。京都からやって来た電車は「橿原線の大和八木駅」で停車、そこでお客さんの乗り降りを行い電車は次の八木西口駅で向きを変え、バックして連絡線を大阪線へ向かい、大阪線に入ったところでもう一度向きを変え、今度は「大阪線の大和八木駅」で停車。さらにもう一度お客さんの乗り降りを行って大阪からやって来た特急を連結、伊勢志摩へ向かっていた。

八木西口駅を発車した電車

左端のレールが連絡線

連絡線は大阪線に繋がっている(上は大阪線の電車)

八木西口駅を発車した電車

左端の線路が連絡線

線路の先は大阪線に繋がっている

…ということは、一つの列車が同じ駅に二度停車していた…という事になる!何やらクイズのような話だが、それはまぎれもない事実だったのだ!!

1階橿原線ホームの特急

2階大阪線ホームの特急

1階の橿原線ホームを発車する特急

2階の大阪線ホームを通過する特急

この運転形態は時間がかかり、せっかくの高速運転も無駄になる。近鉄は橿原線からスルーで大阪線に乗り入れが出来るように新たな連絡線を翌昭和42年12月20日に完成させた。これで京都からやって来た特急はそのまま伊勢志摩へ向かうことが可能になった。のちお客さんも増えて大阪線の特急と連結も出来なくなり単独運転も必要になり、運転本数も増えて、この新たな連絡線は真価を発揮した。

京都-伊勢志摩間の特急が使っていた元の連絡線は使命を終えたかというとそうではなかった。さすがに今ではお客を乗せた特急は走らないが、南大阪線の電車や奈良線(京都線・橿原線も含む)・東大阪線の電車を、大阪線の五位堂にある車両工場へ運ぶために活用されている。そして、かつて同じ駅に二度停車する不思議な特急電車の伝説を秘めたまま、今も存在している。


同じ駅に二度停車する列車なんて…なにやらミステリのネタにも使えそうな話でしたが(笑)。

次は大阪に向かいます。南海電車からの話題です。

【予告】哀愁の汐見橋駅

―参考文献―

車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道 特急車 関西鉄道研究会

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