おまたせいたしました。
レイル・ストーリー6、ただいま発車いたします。


 ●生駒トンネルの謎

大阪と奈良を結ぶ近鉄奈良線。今では近鉄の主要幹線として重要な存在だが、何と言ってもその路線の成否を分けたのは、生駒山の下を貫通する生駒トンネルだった。

時は大きく遡る。明治37年に始まった日露戦争は、日本の勝利に終わった。この直後、日本には好景気がやって来て各地で鉄道事業を始めようという気運が高まった。今の近鉄奈良線はこのブームに乗じてスタートしている。
明治39年5月〜7月には大阪と奈良を結ぶ電車による私鉄路線の出願が3件相次いだ。いずれも大阪・奈良の有力者や代議士等が主体となったものばかりだったが、どれもルートは現在のものに似通っていた。このような情勢を重く見た大阪府・奈良県は3者を説得し、その年の11月28日に合併契約を結ぶこととなった。

この会社は奈良電気鉄道といい(今の近鉄京都線の前身、奈良電鉄とは無関係)、大阪上本町から暗峠を越えて奈良までの路線をつくる計画を立てた。

明治40年4月30日には早くも路線特許を取得。特許というのはこの路線が軌道法の適用を受けたからで、事実大阪市内や奈良市内に路面区間が存在していた。しかし路面区間のある軌道が「鉄道」を名乗るとはけしからんと鉄道省のお叱りを受けたらしく、同年6月8日には会社名を「奈良軌道」と改めたという。こうして会社創立の準備は整い、明治43年9月16日にはめでたく株主総会開催の運びとなった。実は近鉄は、この日をもって今の近鉄の創立としているという話だ。その後10月15日には再び会社名を「大阪電気軌道」(以下略して大軌)と改めた。

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さて大阪と奈良の間にそびえる生駒連山をどう越えるか、これが大軌最大の難所だった。確かに地形上も難所でもある。
当初の大軌の計画では、大阪から生駒山の麓まで電車を走らせ、ここでケーブルカーに乗り換えて生駒山を越え、再び電車に乗り換えて奈良へ向かうという、信じられないようなものだった(もちろん今の
生駒ケーブルとは関係はない)。
こんな実用性のない計画では多くの乗客の輸送なんて出来る訳もなく、早々に電車がそのまま山を越えて行くものに変更された。しかし問題はそのルートである。大軌が申請した最短ルートでは、生駒山の大阪側の麓、瓢箪山から先は生駒山を上って奈良側の麓、生駒までの山越えしかないが、測量の結果三つのルートが大軌に提示された。

甲案:瓢箪山から生駒山を登っていき、頂上に達したところで再び降りていくという案

乙案:その坂の頂上付近で短いトンネルを掘るという案

丙案:坂の中間の日下(今の石切駅付近)から長いトンネルを堀り、そのまま生駒に出るという案

この三つの案が比較検討された訳だが、甲案、乙案は電車を走らせると時間が掛かることは明白であった。時間的にも距離面でも丙案が最良であり大軌も一旦はこれを採択したが、次の問題は建設資金と工事期間であった。確かに長いトンネルを掘るのは巨額の資金も期間も必要。カネと時間を掛けてまで開業を遅らせる訳にはいかない。それで大軌は丙案を諦め、甲案に変更したのだが…

大軌の役員会では甲案か丙案かで紛糾続き。最終的には「資金を惜しんでは後に悔いを残すことになる」となり再び丙案に変更、明治44年7月から生駒トンネルの工事は開始された。工事は急ピッチで進められ、途中で大規模な落盤事故もあったもののこれをものともせず、大正3年1月31日には当時国内2番目の長さを誇るトンネルが完成、4月30日にはめでたく大阪-奈良間の営業運転開始の運びとなった。翌日の5月1日は生駒聖天の日とも重なり、上々のスタートを切った。

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ちょっと危うかった時期を経たものの大軌は路線の拡大を進めていく。そして時は流れ大軌は近鉄となり、戦後の大量輸送の時期を迎えることになる。

もともと「軌道」というスタートだった奈良線は、線路の規格が低く上り線と下り線の間隔が狭かった。そのため開業以来ずっと小型車しか運転出来なかったが、とうとうそれがネックとなった。昭和36年には奈良線大阪側の瓢箪山までの改良が進み大型車の区間運転が始まったものの、肝心の生駒トンネルは大型車が通れず、新たにトンネルを掘る必要に迫られた。こうして出来たのが現在の生駒トンネルなのである。昭和39年7月22日完成。大型車は生駒まで足を伸ばすようになった。

同時に大阪側のトンネル入口付近は大改良が行われた。トンネル入口は400m程南寄りとなり、現在の石切駅はこの時に出来たもので、本来は200m程麓にあった。元のトンネルの入口にはもうひとつ「孔舎衛坂」(くさえざか)という駅があったが、その二つを統合したものなのだ。実はもともと短いトンネルがあった場所で、駅の新設に際して山を切り崩すという大胆な工事まで行われた。のち奈良線は全線の改修が終わり、大型車が堂々と走るようになった。

東大阪線生駒トンネルの坑口

旧生駒トンネルは埋められることなく、長い間そのままとなっていた。しかしそのトンネルは後に大阪市交通局中央線と直通運転を行う近鉄東大阪線に活用されることになる。奈良県側の一部が改修され、再び電車が走るようになったのだ。現在の東大阪線生駒駅から見えるトンネル坑口は、形は変わったもののかつての旧生駒トンネルそのものなのである。

では、大阪側の旧トンネルはどうなっているのだろう。

奈良線石切駅の北出口から先には、かつての線路跡を確認することが出来る。やがて現在線同様に生駒山に正対する格好になったところに駅のホーム跡らしきものが見えてくる。これがかつての孔舎衛坂駅だ。廃止以来40年以上経った今でも、まるで今にも電車が走ってきそうな面影を留めている。ホームの先はすぐに旧生駒トンネル坑口があり、中は現在電気施設が置かれている。

孔舎衛坂駅跡

ホーム跡にはまだ白線が…

旧生駒トンネルの坑口

孔舎衛坂駅跡と
旧生駒トンネル

大阪行きホーム跡
(白線がまだ残っている)

旧生駒トンネル坑口
(中は現在電気施設)

坑口からは冷気が吹いてくるということで、夏場は隠れた納涼スポットとなっていたらしいが、それはトンネルの霊気ではなかったのだろうか…


この生駒トンネルがなかったら、今の近鉄は存在しなかったのかもしれません。いえ、それ以上に奈良線がケーブルカーだったら…どうなっていたのでしょう。

次は同じく近鉄の話題です。

【予告】近鉄奈良線の謎

−参考文献−

関西の鉄道 No.31 近畿日本鉄道特集 PartY 奈良・京都・橿原・田原本線 関西鉄道研究会
関西の鉄道 No.33 近畿日本鉄道特集 PartZ 大阪線・伊賀線 関西鉄道研究会
パンタグラフ No.59 2002年冬 <特集>近畿日本鉄道 奈良線 大阪大学鉄道研究会

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