おまたせいたしました。
レイル・ストーリー6、発車いたします。


 ●富山地鉄乗り入れものがたり(前編)

100km近い路線延長を誇り、中小私鉄の中でも群を抜いている「地鉄」こと富山地方鉄道。
かつてこの私鉄には大阪・名古屋からの直通列車が数多く運転されていた。乗り入れる車両もバラエティに富んでいて、実に華やかな時代があったのだ。

● ● ●

前に話したとおり、富山地鉄は戦前からいくつもの計画(野望?)を持っていた。しかし戦後に至っては思うように事が運ばなかったが、富山・長野両県に跨る、立山黒部アルペンルートは後に全国的に知られる存在となった。富山駅からアルペンルートの入口である立山駅までの路線、地鉄立山線はその玄関口に相当する。そこで、国鉄(当時)からの直通列車を走らせて観光客の誘致を図ろうという話が持ち上がったのは、当然ではある。

戦後から富山地鉄は国鉄からの乗り入れを要望していたと聞くが、立山黒部アルペンルート開通に先立つ昭和43年、直通運転の計画は実現に向けて動き出した。まずは地鉄・国鉄両者による現地視察が行われ、その直後には早くも国鉄側から計画案が提示された。
翌昭和44年、今度は急行『たかやま』で高山線飛騨古川まで直通運転を行っていた名古屋鉄道(以下名鉄)も、かねてから抱いてきた乗り入れ区間の富山延長案を、さらに富山地鉄乗り入れにまで発展させることになった。そして大阪から2本、名古屋から2本(うち1本は名鉄)の地鉄直通急行列車の運転が決まった。

名鉄からの直通列車『たかやま』は、今更言うまでもないが後の『北アルプス』である。
その頃、名鉄の北陸地方への資本参加は多くを数えていた。福井鉄道(福井県)や北陸鉄道(石川県)だけでなく、石川県や富山県ではタクシー会社や温泉旅館、百貨店経営、不動産業、ホテル事業などを現在も行っている。そこへ自社の列車が走るということになれば、やはり名鉄とすれば多いに意義のあることだったのだろう。

昭和43年11月22日、国鉄の建築限界測定車、通称「オイラン車」が地鉄路線に乗り入れた。これは地鉄の電車よりもサイズが大きい国鉄車両が走るにあたって、抵触する建築物・工作物がないかを調べるものであった。幸い大きな問題が生じるものは無かったが、地鉄本線と立山線が別れる寺田駅のカーブはやや厳しかったようで、半径の拡大、ホームの改修などが行われた。その他、地鉄は重い国鉄車両の乗り入れのために軌道を強化する等の工事を行い、直通運転を目前にした昭和45年5月8日の最終チェック時には何の問題もなかったという。富山駅構内の国鉄・地鉄連絡線には、新たに国鉄から地鉄へスルーで直通する線路が追加された。

また地鉄運転士の養成も行われた。まず名古屋から高山線経由で乗り入れる列車は電車ではなくディーゼルカーであるため、昭和45年2月に学科講習を行い、続いて4月に実地講習を地鉄傍系の非電化線、加越能鉄道加越線(昭和46年9月30日廃止)で行った。ここでの実地講習は、かつて名鉄が『たかやま』の運転士養成を行ったのと同じ路線だったのは奇遇である。また大阪から乗り入れる国鉄電車は交直両用で構造も複雑なため、5月に国鉄の金沢運転所で取り扱い講習が行われた。6月には国鉄ディーゼルカーの運転講習も行われ、こうして直通運転の準備は着々と整っていった。

地鉄線への乗り入れは3両編成と決められた。しかし地鉄立山線はかなりの勾配があり、電車は120KWモーター車に限定、ディーゼルカーは当時エンジン1台あたり180馬力しかなく、3両で5台以上搭載が必要という制約が生じることになった。

● ● ●

昭和45年7月15日、いよいよ国鉄と地鉄の直通運転が開始された。大阪からの急行『立山』2往復、名古屋からの急行『むろどう』と名鉄神宮前からの急行『北アルプス』が立山駅を目指した(もっともこの時はアルペンルートのほうは、大観峰-室堂間のトンネルが未完成だったのだが…)。
名鉄『北アルプス』は国鉄特急並みの装備と冷房完備だったこともあり、人気は上々だったという(国鉄の急行列車に冷房が装備されたのはもう少し後のこと)。高山線内では使えない名鉄自慢のミュージックホーンは、地鉄線内では誇らしげに鳴らして…。また『立山』の1本と『むろどう』の立山行きは早朝に到着するため、そのまま立山登山をするには時間的にも都合が良く、好評だったと聞く。
地鉄線内ではこれらの列車は特急として運転されたが、もちろん線内特急としても利用され、電鉄富山駅では発車が近づくと駅員が改札内の通路を国鉄富山駅ホーム(1番線)に誘導していたものである。

国鉄475系

国鉄キハ58・28系

名鉄キハ8000系

大阪からの『立山』
(国鉄475系)

名古屋からの『むろどう』
(同型の国鉄キハ58・28系)

名鉄からの『北アルプス』
(名鉄キハ8000系)

この頃、TBS系人気ドラマ「キイハンター」で、2週連続のスペシャルものが名鉄『北アルプス』を舞台に繰り広げられたこともあった。『北アルプス』は全国に知られる存在となっていく。

アルペンルートがめでたく全線開通した昭和46年シーズンからは、早くも直通列車に変化が現われた。地鉄沿線のもう一つの観光地、宇奈月温泉への直通列車が走り出したのである。8月1日から大阪-金沢間の電車急行『ゆのくに』の宇奈月温泉への延長運転が始まった。一方、能登半島の和倉温泉と立山を結ぶディーゼルカーの急行『越山』が7月21日から運転されたが、こちらは思ったほど需要が伸びず、8月29日をもって終了している。

続く昭和47年1月15日から『ゆのくに』は電車運用の都合で『立山』1往復と交代した。この年には高山線鵜沼駅の改良が完成して名鉄との連絡線は駅をかすめて直通出来るようになり、それまで駅構内で二度方向転換していたのが解消された。同時に名鉄線内で『北アルプス』の通過駅だった犬山は停車駅になったが、これをきっかけに犬山市と立山町は姉妹都市提携を結ぶことになった。列車が取り持った姉妹都市というのは珍しい例だろう。

名古屋から宇奈月温泉への直通列車『うなづき』は昭和48年10月1日から運転を開始した。この『うなづき』は当初グリーン車を含む4両編成での乗り入れが計画されていたが、それでは地鉄のホームをはみ出してしまうため、結局2両での乗り入れになった。

● ● ●

この時点で立山へは大阪から『立山』(3号、1号)、名古屋から『むろどう』『北アルプス』、宇奈月温泉へは大阪から『立山』(1号、2号)、名古屋から『うなづき』の計5往復が乗り入れたが、この頃が地鉄直通列車の最盛期であった。


富山地鉄は、宇奈月温泉やアルペンルートへのアクセスとして、また「鉄」な人には国鉄・名鉄からの直通列車が走ることで、一躍有名になりました。しかしそれは長続きしなかったのです。

続いて後編へとまいります。

【予告】富山地鉄乗り入れものがたり(後編)

−参考文献−

鉄道ジャーナル 1974年3月号 富山地鉄を走る乗り入れ列車
鉄道ファン 2001年11月号 さよなら”北アルプス”
鉄道ピクトリアル 1997年9月号 <特集>富山地方鉄道
鉄道ピクトリアル 2001年5月臨時増刊号 【特集】北陸地方のローカル私鉄
名列車列伝シリーズ15 特急しなの&ひだ +JR東海の優等列車

このサイトからの写真・文章等内容の無断転載は固くお断りいたします。

トップに戻る