Rail Story 13 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 13 

 里帰りした電車たち 1

石川県加賀市。とかく「加賀百万石」というイメージが強い石川県だが、県でも最南部に位置する加賀市は江戸時代の大聖寺藩であり、富山藩と並んで加賀藩の分藩だった。石高は当初八万石、のち十万石を数えたという。現在の加賀市も、そんな由緒ある歴史を感じさせてくれる街だが、山代温泉など加賀温泉郷を擁することでも有名だ(粟津温泉は小松市)。
かつてそれらの温泉には北陸鉄道の鉄道路線が通じていたが、今はその姿が消えて久しい。

平成17年8月、大井川鉄道で活躍していた元北陸鉄道6010系電車『しらさぎ』が山中温泉に里帰りした。電車は山中温泉に出来た「ゆけむり温泉村」に保存され、北陸鉄道山中線当時を偲ばせている。この里帰りは山中温泉のあった江沼郡山中町がその年の10月に加賀市に合併したため、町最後のビッグプロジェクトとして実現したものだった。その後、もう1両の電車が後を追って里帰りを果たすことになる。

北陸鉄道モハ6010系電車
山中温泉「ゆけむり温泉村」に保存された『しらさぎ』

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ここでもう一度北陸鉄道の加賀温泉郷を結んでいた鉄道路線について整理しておこう。

明治30年9月20日、官設鉄道の福井-小松間が開業。現在のJR西日本北陸本線の西から延びてきたレールが加賀温泉郷の近くまでやってきた。早速各温泉の旅館経営者達は共同で馬車を近くの駅から走らせたが、やがてそれらは馬車鉄道に発展し、その後の鉄道路線の基礎となる。

最初の馬車鉄道は山中馬車鉄道(後の山中線)で、鉄道開通直後の明治31年7月4日には早くも大聖寺-山中間の路線特許を取得、明治33年5月16日には全通した。乗客・貨物共に順調に伸びたようで10年後には電車への転換を決め、大正2年3月18日には県内初の電車が走り出した。

続いて明治39年3月5日、一旦は頓挫した山代温泉と官設線との路線はこちらも馬車鉄道として路線特許が得られ、明治44年3月5日には山代軌道の動橋(いぶりばし)-山代間が開業した(後の山代線新動橋-山代間)。既に開業していた山中馬車鉄道と路線を繋げばもっと短くて済んだものを、わざわざ動橋を接続駅に選んだのは、当時の山代温泉と山中温泉との仲たがいが原因だったと言われている。

粟津温泉には明治40年11月12日に新粟津-粟津温泉間の路線特許を得た粟津軌道(後の粟津線)が明治44年3月5日、馬車鉄道でスタートしたが、実は官設線動橋-小松間には当初駅がなく、粟津温泉からの請願で粟津駅が開業したのは明治40年11月16日だった。官設線駅の新設、そこから温泉を繋ごうという計画はほぼ同時進行していたのだろう。

最後に動橋と片山津温泉を結ぶ片山津軌道(後の片山津線)が明治43年12月26日に路線特許を得たが、動力を馬ではなくガス式自動車という意味不明なものに変えたのが影響したか路線の工事は全く進まず、結局社長の退任騒ぎの後、再び馬車に戻り工事が本格化した頃には石川県の後押しもあって、これら4路線は大正2年11月6日設立の「温泉電軌」に統合される運びとなった。大正3年4月29日に片山津軌道は一応開通したものの、運営は既に温泉電軌に委託されていた。

その後温泉電軌は各路線を繋ぐべく河南-山代間(山代線)、宇和野-粟津温泉間(連絡線)の路線建設、既存路線の電化を進めるが官設線動橋駅での接続は北側に片山津線(動橋駅)、南側に粟津線(新動橋駅)と二つに分かれてしまった。これでは電車の直通が出来ず不便であり官設線との立体交差が計画されたという。しかし費用が掛かるため駅の統一は断念、片山津線だけが独立路線となり最後まで二つの駅のままだった。
また新規路線として粟津線の小松延長計画が大正9年12月27日免許されるが、全く着手出来ないまま大正15年10月9日に失効する。山中線も大聖寺から北前線時代からの港町、吉崎までの延長が計画され大正14年10月9日に免許を得ている。ただしこちらもその後の昭和不況や昭和6年の山代大火などの影響を受け工事は進展せず、昭和10年11月19日に失効した。

のんびりと温泉客を運んでいた温泉電軌であったが、昭和16年11月28日には山代にあった車庫が火災に遭い、電車の大半を消失してしまう。どうにか使える機器を利用して電車を復旧したものの、既に始まっていた太平洋戦争は全国各地で私鉄路線の統合という結果を生む。石川県内では鉱山鉄道の尾小屋鉄道を除いた全ての私鉄路線が昭和18年10月13日、北陸鉄道に一本化される。旧温泉電軌線は総称「加南線」として再スタートした。

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終戦を迎えた日本に少しはゆとりが生まれた頃、北陸鉄道加南線に新車が登場した。昭和26年に製造されたモハ5000形2両は、眺望を重視したためにシートの背をあえて低くした向かい合わせ式クロスシートがズラリと並んだ、正に観光路線向けの電車だった。この電車は好評をもって迎えられ、一躍加南線のトップスターになる。

もっとも当時、道路事情はといえば国道でさえ未舗装区間があるのは当たり前、加賀温泉郷へのアクセスは北陸本線各駅から出ている北陸鉄道加南線で、というのが常識だった。モハ5000形電車はその人気を支えたが、いかんせん「乗り換え」が生じるのは仕方のない話、やがて北陸本線にディーゼルカー急行が走り出すと関西方面からの湯治客も増えて、大聖寺から北陸鉄道山中線へ乗り入れて大阪と山中温泉を直結出来ないかという話が浮上する。
ところが山中線を含む加南線は馬車鉄道に端を発するものばかりで線路規格が低く、国鉄仕様の重いディーゼルカーは乗り入れは不可能だった。この話がまとまっていれば加南線の運命は変わっていたかもしれないが、やがて国道8号線などの道路整備が進み話は立ち消えとなってしまう。北陸鉄道は自力での生き残り策が必要となり昭和37年に6000系『くたに』、続く昭和38年に6010系『しらさぎ』を加南線に投入する。以前紹介したように両車は名鉄5500系や富山地方鉄道10020系などと兄弟関係にあるが、線路規格の低さから徹底的な軽量化がなされ、兄弟より数トン軽く出来ていたという。

『くたに』『しらさぎ』のデビューにより加南線の戦後を支えてきた先輩モハ5000形は役目を譲ることになり、昭和39年10月、金沢南郊から白山麓などを走る総称「石川総線」(石川線・金名線・能美線)に移った。自慢のクロスシートは他の電車同様ロングシートにされ型式もモハ3750形と変わった。

やがて『くたに』『しらさぎ』の健闘もむなしく加南線は昭和46年7月10日、山中線・山代線を最後に廃止され、『くたに』『しらさぎ』は大井川鉄道に移籍する。モハ5000形改めモハ3750形は石川総線で自社生え抜きの電車や、「大ドス」こと元名鉄モ3300形などの電車と共に石川線の路線一部短縮、能美線、金名線の廃止後もずっと金沢の南郊を走り続けた。

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平成2年7月25日、北陸鉄道石川線は東急から移籍した7000系電車の導入でイメージを一新した。戦後から平成に至るまで走り続けたモハ3750形2両だったが、生え抜きの1両(モハ3760形)と共に予備車として石川線に残り、イベント運転や時には7000系電車のピンチヒッターとして走る機会こそあったものの、冷房がないことや7000系と違いワンマン化されておらず、運転の際には車掌を乗務させなければならないこともあって徐々に走ることはなくなり、もっぱら鶴来の車庫で休む毎日だった。
平成18年2月、北陸鉄道はすっかり旧型になってしまった電車の払い下げを決め、ホームページ上で引き取り手を探した。幸いにも2両の電車がゆかりの地へ移ることになり、モハ3750形のうちモハ3751号は加賀市へと運ばれていった。

大聖寺川下り舟 待合所はなんと電車 北陸鉄道モハ3750形電車
大聖寺川と川下り舟のりば そこには電車が停まっている 余生をおくるモハ3751

モハ3751号にとって、加賀市は生まれ育った地。後輩の『しらさぎ』が先に果たしたのに続いての里帰りだったが、そこは加賀市の中心部でかつての沿線とは少し離れていた。大聖寺川で始まった観光屋形船の待合所としての役目が待っていたのだ。

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しかしここで温泉電軌の頃の話に戻してみよう。かつて温泉電軌には大聖寺から先、吉崎までの延長計画があったが、それが実現しなかった理由の一つが当時の大聖寺川の改修計画で、路線建設と時期が重なってしまい調整がつかなかったという話が伝えられている。
もし路線建設が実現していたなら、大聖寺の市街地を過ぎて終点吉崎に近づく頃には大聖寺川の畔を、この電車はそれこそ川の流れよろしく、ゆったりと走っていたはずだ。また川を遡ればそこは山中温泉、後輩『しらさぎ』とは今は鉄のレールではなく、お互いの目の前にある大聖寺川を通じて心を通わせているのだろう。

モハ3751号は、かつてモハ5000形として多くの湯治客を乗せて走っていた頃を思い出しているに違いない。


鉄道が廃止されてもうかなりの時間が経ったのに、その姿は人々の記憶に残っているばかりか、こうして里帰りを果たす電車たちは、とても幸せな存在と言えるでしょう。

次は、ちょっと変わった里帰り…という話です。

【予告】 里帰りした電車たち 2

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1996年9月号 <特集>北陸の鉄道 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル 2001年5月号 【特集】北陸地方のローカル私鉄 鉄道図書刊行会

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