Rail Story 12 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー12

 新宿駅の悲劇 (前編)

今までに何度もこの場で話題を取り上げてきた京王新宿駅。

戦前の東口時代は百貨店などの誘致のきっかけとなり、西口に移転した戦後は木造の仮駅時代を経て地下化を行ない、同時に高速鉄道としての脱皮を実現、それまでの決して良いとは言えなかったイメージを払拭した。その後地下鉄との直通運転が始まり、京王線は笹塚から新宿の間に京王新線を建設、「新線新宿」駅を追加したのはご存知のとおり。

数ある私鉄のターミナル駅で、このような移転や変遷を遂げた例というのは珍しくはないが、その京王新宿駅に隠れた「悲劇」があったとは…。

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昭和38年4月1日、京王線は現在の新宿地下駅を開業した。それまでは甲州街道上をのろのろと走り、新宿駅といえば板張りのホームという、「戦後」の姿をそのまま残していたが、あと1年半足らずのうちにオリンピックが開催され、東京中が変貌する事実とは信じ難い光景だった。

次いで同年8月4日には架線の電圧が600Vから1,500Vになり、アイボリーにエンジの細い帯を締めた新車5000系がデビュー、それまでの京王のイメージを払拭した。しかも電車の増発が可能となり、京王線は一大通勤路線として飛躍していくことになる。10月1日には新宿-東八王子(現在の京王八王子)間に特急が走り出した。昭和43年夏シーズンからは関東の私鉄では東武などの一部優等列車を除いて初の冷房車も加わった。
続いて昭和43年11月1日からは特急、通勤急行、通勤快速の一部列車で7両編成運転が開始されたが、実はこれが京王新宿駅の悲劇の始まりだった。

地下化された京王新宿駅は、当初こそ工事が全て終わっておらず18mクラス4両編成しか入れなかったが、のち竣工して6両編成4本が収容できる規模になった。しかし7両編成運転を行うには、当然ホームを延ばさなくてはならない。京王はやむなく西寄りの4番線に蓋をかけ、3番線ホームを18m延長して、7両対応とした。何故せっかく出来た線路とホームを閉鎖しなければならなかったのだろう。

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新宿西口の副都心再開発は淀橋浄水場の跡地利用と高層ビル群の出現が全国的に知られているが、それ以外にも京王線新宿駅の地下化、小田急や京王の駅ビル建設なども含まれていた。つまり現在の新宿西口そのものがこれら再開発によって形成されたといっても過言ではない。中には駅西口の地下広場もあったのはむしろ当然だが、半円状のスロープが二つ対抗する形で地上の道路と地下広場を結ぶという斬新かつ未来的なデザインは注目を集めた。地下広場にはタクシー乗り場と駐車場が設けられることになったが…。

新宿駅西口 西口地下広場 京王新宿駅ビル
新宿駅西口 地下広場とスロープ、タクシー乗り場 京王新宿駅ビル

地上同様、地下空間も限られたスペースであることは明らか。駅ビルの地下階や公共空間、タクシー乗り場に駐車場に電車の駅と、建設の時点で新宿西口の地下は既に埋め尽くされていたようなものだった。これをどう割り振るかという話になるが、この西口地下広場の計画は建設省(現在の国土交通省)と東京都建設局により行われており、当然主導権も握られていたようだ。
最終的には京王の新宿地下駅は6両編成4本分と決められてしまったが、それは京王にとって不本意なものだった。というのも、計画段階で京王線の需要は急激に上昇するのは明らかであり、新しい駅が出来ても早い段階で限界に達するのは目に見えていたからだ。京王は異議を唱え続けたものの、省や都は首を縦に振らなかった。

当時流行った言葉の一つに「モータリゼーション」というのがある。日本の場合クルマ社会への移行ということになるが、この頃地方都市では路面電車が邪魔者扱いされ廃止が相次ぎ、地方交通を担っていた私鉄路線もそのあおりを受け、同様に廃止されたものが多い。東京でも同じ頃に都電路線や東急玉川線など路面電車が急速に姿を消している。
新宿西口地下広場もこの「モータリゼーション」を受けたもので、計画の主体となった省や都が「これからはクルマの時代」とスロープ、タクシー乗り場、駐車場に大きなスペースを割いたため、皮肉なことに隣り合わせとなる京王新宿駅は制約を受ける結果に…。

新宿西口駐車場 赤いBゾーンと隣り合わせの京王新宿駅
新宿駅西口地下駐車場 Bゾーン(赤)の隣は京王新宿駅

地下駅開業、高速化が実現して便利になった京王線は、増発やスピードアップを重ねても輸送力に限界を生じ、増結が不可欠となってしまったが、それはたった5年余りという、予想通りの結果だった。
やはりもっと主張を重ねて最初から駅を大きくすべきだったか…しかしそれは京王の敷地をはみ出してしまうため、無理な話だったのかもしれない。

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新宿駅の改造が終わり、一部列車が7両編成で走り出した後も、京王は輸送量の増加に頭を悩ませていた。このままでは7両編成運転でも早晩限界がやってくる。京王社内にはプロジェクトチームが設けられ、今後の方針について検討が始まった。チームが沿線人口の伸びなどから試算した結果は「将来的にラッシュ時は2分間隔で全ての列車を10両編成で運転しなければならない」だった。しかもその電車は京王が使ってきた18mクラスの3つドア車ではなく20mクラスの4つドア車を必要としたが、当時京王線は18mクラス7両対応が限界で、全線に亘るホーム延長などの大規模な施設改良も必要なことが判明した。また将来的には新宿-調布間の複々線化も必要ではないかと考えられるようになった。八幡山駅前後の環状八号線との立体交差は、この複々線化計画によるものだった。

同じ頃京王は、新たな路線として北野から分岐して高尾山口へ向かう高尾線、調布から分岐している多摩川支線を延長して将来の住宅街(現在の多摩ニュータウン)のアクセス手段となる相模原線を計画していた。また戦前からの念願である新宿から先、都心部への地下乗り入れも進展を見せつつあり、新宿駅の地下化などに始まった京王の「改革」の成功は、思いがけない大きな転機を迎えるきっかけになったのは確かである。


思惑の違いが災いして、完成後5年を過ぎた時点で不本意な改造を強いられた京王線新宿駅。7両編成運転開始は、駅にとって悲劇を生んでいたのです。ただし、さらに延び続ける需要は、新たな悲劇を生みました。

次はその「悲劇」と、現在に至る苦難の話です。

【予告】 新宿駅の悲劇 (後編)

―参考文献―

鉄道ファン 1983年9月号 京王5000系物語2 交友社
鉄道ピクトリアル 2003年7月臨時増刊号 【特集】京王電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950〜60 鉄道図書刊行会

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