おまたせいたしました。
レイル・ストーリー6、ただいま発車いたします。


 ●幻の路面電車(前編)

京王線特急の8000系

大手、中小を問わず、私鉄と言われるものには始めから高速運転を目的としたものもあれば、当初は路面電車の延長線上として作られ、後に高速運転を行うようになったものもある。
今ではそんな事すら想像できないが、京王電鉄、京浜急行の2社は、在京の大手私鉄の中でも遅くまで路面電車のスタイルを残したものだった。

京王電鉄は今の京王線である京王電軌と、同じく井の頭線である帝都電鉄が戦時中に東急と一旦合併した後、戦後くっついた形で独立して出来た「京王帝都電鉄」なのは有名な話。近年CIの導入と同時に「帝都」のネーミングを捨て、京王電鉄となっている。

もともと小田急の傘下だった帝都線改め井の頭線に比べ、京王線のほうはかつての「電軌」という社名が表わすとおり軌道線、つまり路面電車としてのスタートを切っている。走っていた電車も戦後もずっと路面電車のスタイルが残っていて、スピードも遅かった。小型車をゾロゾロ繋げてのろのろとしか走らない京王線のイメージは、今では信じられない暗いものがあったという。

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その頃新宿西口といえばもちろん今の高層ビル街はなく、東京都の水がめ、淀橋浄水場の巨大な姿があった。その浄水場を廃止し、大掛かりな新宿西口の再開発が計画された。後に高層ビルとして最初に出来たのは昭和47年完成の京王プラザビルであるのは有名だが、実はあまり知られていないが、この再開発計画が最初に形になったのは昭和38年4月1日に完成した京王線の新宿駅なのである。

今ではすっかり新宿西口の顔の一つであるが、京王線の新宿駅はもともと東口の顔として存在していた。

京王線が京王電軌として開業した時、新宿でのターミナルは今の場所ではなく、新宿3丁目交差点近くの路上の「新宿追分」という名の駅だった。今の伊勢丹の斜め向かい、丸井の横だったのだ。大正4年5月30日開業。
続く昭和2年10月28日には、そこから新宿通りを少し東に入ったところに京王ビルが完成、こちらに移転して出来たのが初代の京王新宿駅である。今の京王線新宿駅とは全く場所も違っていたが、昭和5年には三越が、昭和8年には伊勢丹が進出し、新宿東口は京王線をきっかけに現在の繁栄の基礎を築いたのである。

しかし世相は繁栄とは裏腹に戦争の時代を迎える。鉄道施設は爆撃の対象になることが多かったが、京王線も変電所の一つが被害を受け使用不能になってしまった。文化服装学院(現:文化女子大学)の辺りから甲州街道上を走り、そのまま新宿東口へと伸びていた京王線だったが、電気が足りなくなり省線(今のJR線)を越える橋の坂を登ることが出来なくなってしまった。ちなみにこの橋の上には「省線新宿駅前」という駅が設けられていたが、それはズバリJR新宿駅南口にあった。

新宿駅南口
現在の新宿駅南口

京王は終戦直前の昭和20年7月23日、新宿東口を諦め今の京王百貨店の場所に京王新宿駅を移転。直後に終戦を迎えたが、約600mの路面区間が残ることになった。戦後は東京とその近郊の人口が急激に増えたが、京王線は戦前のイメージをそのまま引きずってしまっていた…

そこに上記の新宿西口再開発計画がスタートした。有名な高層ビル街の建築もあったが、甲州街道を走る京王線と駅の地下化、小田急新宿駅の改良も含まれており、これがまず先に行われた。京王新宿駅の上には新たに京王百貨店を建てることが決まったが、そのあるべき姿を探るべく、昭和37年7月、京王は思いきって利用客に「京王」のイメージ調査を行った。

ところがそのアンケートの結果たるや…。「沿線が楽しい」等の評価もあったが大半は「地味」「電車がのろい」「パッとしない」などというマイナス要素ばかり。これではせっかく百貨店が出来るとしても、肝心の電車そのもののイメージが悪すぎた。

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この結果を重く見た京王は、とにかく戦前から使いつづけている古い小型車を一掃し、電車のスピードアップを図らなければならないと考えた。まずはイメージを一新する新車が必要。施設面では架線電圧を600Vから1,500Vに上げて高速運転に対応することになった。

昭和38年4月1日、京王線新宿駅の地下化が完成、同時に路面区間が廃止された。この路面区間は甲州街道の真ん中を走っていたが、廃止直前には線路はグリーンベルト状になっていて、完全な路面電車状態は脱していた。ただし今のルミネ1から甲州街道に出ていた部分だけは踏切のようになっていたが、通称”グリーン車”の頃までは、夜間に交通を遮断してここから新車を搬入していたという話だ。地下化された京王新宿駅はX字の柱が特徴的だが、それは現在でも通用する斬新なデザインである。

京王線新宿駅構内

甲州街道

京王新宿駅構内

かつてここを電車が走っていた

そして8月4日、京王線には架線電圧の1,500V化と同時に新車5000系がデビューした。車体はそれまでのグリーン一色に代わってアイボリーに赤の線が入った明るいイメージのものになり、一躍京王線のスターになった。この日までは桜上水の車庫に次々と搬入されて来る新車に、乗客は羨望の眼差しを注いでいたという。
続く10月1日からは最高速度90km/hが認可になり、待望の特急が走り出した。かつての路面電車のイメージはそこにはなく、高速路線として京王線は生まれ変わったのだ。

時を前後して新宿西口には昭和37年オープンの小田急百貨店(現:小田急ハルク)を皮切りに39年には京王百貨店、41年、42年と続けて小田急百貨店新館・本館がオープンし、現在の新宿西口のスタイルが出来あがった。その中で京王が行ったイメージ調査は、ここに実を結んだことになる。

京王百貨店
新宿西口の京王百貨店

京王線の名車 5000系

京王線のイメージリーダーとなった5000系は、続いて日本の私鉄電車をリードする存在となる。昭和43年に増備された仲間は、冷房装置を初めて搭載した通勤型電車となって登場した。それまで名鉄を除いて国鉄・私鉄を問わず冷房は優等列車にしかなかった。なにしろ本格的通勤車としては初のケースだったのでクーラーはどの位の容量が必要か判らなかったらしく、様々な型の冷房装置が電車の屋根の上を飾った。しかしこのことがきっかけとなり、全国的に電車の冷房がポピュラーになっていったことは確かである。後に5000系は初期車を除いて冷房が搭載された。

昭和47年、京王線には都営新宿線乗り入れを前提とした新車6000系がデビューした。車体は5000系の18mの3つドアから、20mで4つドアとなり大型化されている。これは現在の京王線の標準となるサイズとなったのだが、特急以下全ての列車に活躍していた5000系に少しずつ蔭りが見える結果となった。昭和50年以降は収容力の大きな6000系が特急にも進出し始め、5000系は休日の特急「陣馬」「高尾」には使われたものの、徐々に各駅停車主体の運転になっていく。…そして昭和62年12月からは引退が始まってしまった。ただしこのような名車を中小私鉄が見逃すはずがなく、愛媛県の伊予鉄道、島根県の一畑電鉄、山梨県の富士急行、香川県の高松琴平電鉄に活路を見出していった。

昭和59年には初のステンレス製車体の7000系、平成4年にはインバータ制御となった8000系がデビュー、京王線はすっかり大型車の天下となった。名車5000系は平成8年12月1日をもって全車引退。その後事業用になった3両だけが籍を残していたが、後輩6000系を事業用に改造したデワ600形に役目を譲り、京王線から姿を消した。

また都営新宿線直通運転を中心に走りつづけた6000系にも、最近は後継車の9000系がお目見えした。

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全て新しいことづくめのように思われる京王5000系だが、実は小型車からの伝統を一つだけ受け継いでいた。それは電車の正面の行先表示だった。昔から行先の文字を読まなくても標識のデザインを見るだけで判るように工夫されていたのが、そのまま採用されていた。

新宿行きは白地

京王八王子行き

高幡不動行き

桜上水行き

この表示は6000系以降へは受け継がれなかったが、京王が5000系に残した唯一の歴史だったのかもしれない。


京王線は、かつては路面電車だったなんて感じさせないスケールの私鉄路線になっています。実は同じような歴史を歩み、今でも名残を残す私鉄があるのですが…

続いて後編へとまいります。

【予告】幻の路面電車(後編)

−参考文献−

鉄道ジャーナル1974年11月号 私鉄名車物語 京王帝都電鉄5000系
鉄道ファン1978年2月号 特集:私鉄のターミナル
鉄道ファン1983年9月号 京王5000系物語2
鉄道ファン1995年4月号 特集:京王5000系と阪急2800系・名車がんばる
鉄道ピクトリアル1998年1月号 <特集>旅客ターミナル
鉄道ピクトリアル2000年11月号 【特集】JR山手線
鉄道ダイヤ情報1997年2月号 総力特集 京王帝都1997 弘済出版社

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