レイル・ストーリー10 Episodes of Japanese Railway

 消えた工場(前編)

大阪市御堂筋線21系一般に日本で地下鉄のある都市は?といえば、東京の次に出てくるのは大阪だろう。関西における地下路線という意味では現在の阪急京都線西院-大宮間が最初だったが、少し遅れて大阪にも地下鉄が建設されていった。
もっとも東京、京都の二路線は私鉄路線としてのスタートだったが、大阪の場合は最初から大阪市の手による「都市計画事業の一環」としてスタートしたのが大きな違いだ。

大阪市の人口は明治30年には75万人だったが、その後急速な増加を見せ、当然都市交通網の整備が望まれていた。明治36年9月12日には大阪市電が開業しているが、この時点でラッシュアワーなど路面交通の限界が見え、将来的には地下に高速鉄道を建設するべきだという機運が高まったのは大正9年2月のことだった。
大正13年10月には早くも地下鉄の調査報告書が出来上がり、翌年10月には大阪市高速度交通機関審議会が4路線の概要を決めた。続く大正15年3月29日、この計画は市議会に提出され承認を受け、地下鉄建設がスタートした。
東京の場合は戦前・戦後を通じて計画が大きく変わり現在の姿となっているが、大阪市の計画は概ね現在の路線と近似しているのに驚く。戦後の昭和23年にこの計画は若干見直され、現在の地下鉄網が形成されていくことになる。

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大阪最初の地下鉄路線は現在の御堂筋線だ。現在の…というのも、この名前になったのはずっと後のことで、日本万国博を控えた昭和44年10月16日だった。それまでは地下鉄1号線(以下1号線)と呼ばれていた。

昭和5年1月29日、御堂筋の路上で1号線の起工式が行われた。
御堂筋はもともと船場にあった幅6m足らずの細い道で、これを幅44mの大阪のメインストリートにすることになり、まず民家の移転が行われ地下鉄を建設、その後地上の道路を整備するという方法が採られた。
工事は土佐堀川などの川底をくぐるという難工事もあったが、昭和8年5月20日、梅田(仮駅)-心斎橋間が開業。本町駅を除いてホームの天井はアーチ型のゆったりした広く明るいもので、公共空間としての中階を設けるという構造だった。しかも中階からホームへはエスカレーターが設置されていた。エスカレーターは戦中に撤去(戦後一部復活)されてしまったが、中階は基本的にこの後も受け継がれていく。

梅田駅の階段
梅田駅の階段はかつて全部エスカレーターだった

また1号線の開業を控え、電車の搬入は御堂筋に設けられた「穴」から行われた。それも牛に牽かれて電車が未完成の御堂筋の路上に輿入れし、しばらくシートを被ったまま搬入の日を待った。いよいよその日には大掛かりな櫓が組まれて少しずつ地下の線路に電車を降ろしていた。大型のレッカー車など無かった時代だ。のち延長開業用新車も同様に搬入されたが、既に御堂筋は道路として供用されていたにもかかわらず、白昼堂々と通行止めにして作業が行われたという。

この後1号線は昭和10年10月6日に梅田駅が完成した本駅に移り、同年10月30日に難波へ、昭和13年4月21日に天王寺へと伸びていく。また3号線(現在の四つ橋線)が途中の大国町から分岐、花園町までが昭和17年5月10日に開業したが、徐々に戦争の影が地下鉄にも及び、戦前における大阪の地下鉄の開業区間はここまでで終わる。なお建設はこの先も進められていたが、鋼材の規制により躯体は駅部分を除き無筋コンクリートや花崗岩で代用という有様だった。
1号線では既に昭和13年11月に天王寺-西田辺間の工事に着手していたが、実際にはたった600m掘ったところで資材不足となり工事はとうとう中断…。それも並行して工事が行われていた3号線花園町-岸里間が、路線の上の国道26号線(当時は16号線)が軍事上重要で、万一崩れたらどうするのだと国からクレームがつき、やむなく埋め戻しのために掘っただけ…という曰く付きだった。掘った部分は雨水が溜まり大きな池と化してしまい、ボウフラが湧いて住民からは苦情が寄せられたとか。

この頃から大阪市内交通には民間の通称青バスが参入、大阪市営の銀バスも後を追い競争が激化、早くもモータリゼーション現象が見られ市電不要論まで飛び出す始末。どうなることかと思われたが戦時体制突入のため燃料統制が敷かれ、バスはまともに走らない代燃車ばかりになり人気は急落、乗客は市電に押し寄せた。クルマの少なかった当時は市電も地下鉄も所要時間は大差がなく、ふらりと地上で気軽に乗れる市電は運賃も地下鉄より安かったこともあって地下鉄は余り人気がなかったが、本土も爆撃の被害を受けるようになると、涼しい顔をして走る地下鉄は一転して連日超満員になった。

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そして終戦。地下鉄の戦後が始まったが、ここまで地下鉄には電車の検修を行う本格的な施設がなかった。

大阪の地下鉄ではホームの一部やその先の僅かな延長部を利用して保守業務を行なっていたが、路線はまだ比較的短く、車両数も少なかった戦前はそれで事足りていた。しかし開業時から施設を建設する予定で土地まで確保していた我孫子まで1号線が伸びるのはまだ先になるため、せっかく掘った天王寺から先の600mの区間に線路を敷き、その先に工場を建設することになった。ただし、将来我孫子に工場が出来るまでの仮設工場という期間限定だった。
電車が天王寺からこの工場へ向かってくると、入り口手前には踏切があったという。つまり現在地下鉄(サードレール方式)唯一の東京メトロ銀座線の上野検車区にある踏切だが、この頃は大阪にも存在したことになる。

こうして昭和22年12月に完成したのが「高速車両工場」だった。まだ戦後の混乱期で資材もろくにない中での工場の誕生だったが、それ以上に戦争の終結で大阪市の人口は急速に増えたこともあり、とにかく整備が追いつかず走れなくなっていた電車を路線に復帰させなければならなかった。また可動車も部品不足や酷使に耐えながらの保守や運転を余儀なくされていた。
ちなみに当時、地下鉄に殺到する乗客は定員の350%にものぼり、ドアはまともに開閉出来なくなり、入庫した電車のコイルサスペンションやリーフサスペンションにはペシャンコに潰れた跡があったという。

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戦後の混乱が少し落ち着き、1号線は昭和26年12月20日には戦前に掘った部分を整備して天王寺-昭和町間が、翌年10月5日には昭和町-西田辺間が開業した。これらの区間の特徴は何と言っても「開溝式構造」で、トンネルの天井がないという掘割のようなものだった。
これは将来上には道路を建設するという予定があったからだが、地下鉄だというのに空が見えるという区間で話題となったという。ところが線路の両脇は住宅街、電車が通るたびに反響した騒音が予想を上回り苦情が絶えず、雨で法面が崩れたとか雑草が伸びる等の事もあって、現在の「あびこ筋」の建設が急がれたとか。またトンネルも深く掘られず、新設された駅では伝統の中階は作られなかった。ちなみに中階は建設費用が高くつくため、この後主要駅のみに採用されることになる。

この頃、日本には朝鮮戦争による好景気がもたらされたが、地下鉄が悩まされたのは泥棒だった。とにかく何でも「銭になる」ということで、夜間に電車の電球が盗まれたことに始まり、工場の電球も盗まれてしまった。さらには金属類の相場が上がったせいで、真鍮製だった運転台のハンドル類や窓の保護棒を、走行中に堂々と盗む者まで現れたとか。

昭和33年11月、1号線天王寺-西田辺間はめでたく正規の「地下鉄」になり、2年後の昭和35年7月1日には西田辺-我孫子間が開通。この年の12月には27年越しの懸案だった本格的な工場が我孫子で産声を上げ、「高速車両工場」は役目を終えた。新しい工場は昭和37年3月には最新設備を誇る「我孫子車両工場」に成長したが、一部の機械類には高速車両工場から持ち込まれたものがあったという。

地下鉄開業時からの計画どおり、恒久的施設として作られた我孫子車両工場だったが、仮設だった高速車両工場同様、後に消えることになるとはこの時誰も予想出来なかった。

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この後、南へ伸びてきた1号線は一転して北への延伸を始める。昭和39年9月24日に梅田-新大阪間が開業したが中津から先は高架線となって新大阪へと向かうことになり、続く10月1日には東海道新幹線が開業して新大阪駅は大阪の一大ターミナルに成長する。

昭和45年、大阪で「日本万国博(通称万博)」が開催されたが、これを前に地下鉄は○○線という名称で呼ばれることになり、1号線は「御堂筋線」となった。
万博の直前の昭和45年2月24日には御堂筋線新大阪-江坂間が開通、同時に北大阪急行(以下北急)江坂-万国博中央口間も開通し、両線の直通運転が始まった。万博の終了後は北急の終点は千里中央に変わった。

この後、大きな動きのなかった御堂筋線だったが、再び南へと路線が延びることになる。

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昭和55年6月11日、御堂筋線我孫子-中百舌鳥間が着工されたが、もともとこの区間は昭和38年の計画改定で御堂筋線の延長が決まったものの、昭和46年の都市交通審議会の答申で堺筋線の延長に変更されている。ところが延長先の堺市からは御堂筋線の延長が熱望され、堺筋線の中百舌鳥延長は消えた。
本来堺筋線には阪急と南海の乗り入れが計画されていたが、電圧や構造の違いから南海の乗り入れは断念、阪急と地下鉄の直通運転となってしまったという経緯がある。南海には堺筋線を高野線中百舌鳥以北のバイパスルートとしたいという思惑もあったかも…。それどころか南海は廃止した天王寺線の跡地を堺筋線の天下茶屋延長に提供する結果に…。

かくして、御堂筋線我孫子-中百舌鳥間は昭和62年4月18日に開業。終点の中百舌鳥には中百舌鳥検車場が出来た。前年6月1日には四つ橋線玉出検車場を拡張した緑木検車場や緑木車両工場(現在の緑木車両管理事務所)も完成していたが、中百舌鳥延長と同時に実施された御堂筋線9両編成運転開始で、敷地を確保した戦前にはこれで十分だろうと思われていた我孫子車両工場は8両編成までしか対応出来ず、新しい施設が求められていた。さらに平成7年12月9日には御堂筋線の10両編成運転も開始された。

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終戦直後から地下鉄の戦後を支えた高速車両工場は姿を消したが、現在は阿倍野区役所が建っている。その敷地は意外と狭く、荒廃した電車の保守に携わった関係者の苦労が偲ばれる。

阿倍野区役所 踏切はこのあたりにあった 現在のあびこ筋
跡地は阿倍野区役所に ここに踏切があった 線路の上は現在のあびこ筋

1号線の昭和町・西田辺延長時には開溝式だった線路は、現在ではあびこ筋という道路になっている。ちなみに工場への引込み線にあった踏切は、区役所北側と向かいのファミリーレストランに挟まれている道にあったようだ。今は当時の様子は全く伺えないが、ともかくこの一角に地下鉄の「戦後」があったのは事実である。

一方、中百舌鳥検車区と四つ橋線緑木車両管理事務所に役目を譲った我孫子車両工場は、その後大阪市の浅香住宅と浅香中央公園として整備され、その広大な敷地だけがかつてを偲ばせている。敷地の隣は堺市との境界となっている大和川だが、対岸にも浅香住宅があり、こちらは府営だ。川を挟んで同じ地名が二つの市に存在する珍しい場所でもある。

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大阪のメインストリート、御堂筋を南北に貫く地下鉄御堂筋線だが、この線名が決まったときイメージカラーである「号線カラー」も決められていた。駅の路線図などにはすぐに使われたが、電車にもその色が取り入れられ、全ての線で大掛かりな塗り替えが行われたのは昭和50年になってからだった。
御堂筋線のイメージカラーが赤なのはご存知のとおりだが、その由来はズバリ「動脈」。70年を越える歴史を誇る御堂筋線は、もはや大阪の大動脈としての揺るぎない存在であると言っても過言ではないだろう。その動脈は、二つの消えた工場に支えられていた。


御堂筋線は東京メトロ銀座線と比較されることが多いようですが、駅の規模にはどこか対抗心があったとしても、先見性は驚くばかりです。さて御堂筋線以外にも、大阪の地下鉄には数多くの話題が隠れているようです。

次は大阪を東西に貫く中央線から、再び工場にまつわる話です。

【予告】消えた工場(後編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 2004年3月臨時増刊号 【特集】大阪市交通局 鉄道図書刊行会
RM LIBRALY 56 万博前夜の大阪市営地下鉄 -御堂筋線の鋼製車たち- ネコ・パブリッシング
関西の鉄道 2001初冬号 大阪市交通局 PartV 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003初夏号 大阪市交通局 PartW 関西鉄道研究会
大阪の地下鉄 創業時から現在までの全車両・全路線を詳細解説 産調出版

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