レイル・ストーリー

大変ながらくお待たせいたしました。

気分も新たに発車いたします。ご乗車ありがとうございます。


 ●玉電の幻影

玉電という名前自体、今では過去のものにすぎないのかもしれない。

渋谷から中央林間へ走っている東急田園都市線は、かつて246号線を走る路面電車だった。それももともと東急だった訳ではなく、前身は玉川電気鉄道といって、戦中のゴタゴタ(詳しくは地下鉄銀座線ストーリー「ライバル現る!?」を見てね)で東急の傘下となったもの。それを略して玉電と言ったのが、東急玉川線となってからも愛称として残ったものだ。

玉電は渋谷の玉電ビルを基点としていた。このビルは地下鉄銀座線の渋谷駅と同居した複合駅ビルとしてオープンした。ビルの2階から発車した電車はしばらく銀座線の引上線と井の頭線の間を通り、道玄坂上交番前で246号線に出ていた。ここまでの線路は玉川線の廃止後も東急バス専用道路として、玉電の駅跡地もバスターミナルとして使われていたが、最近になって渋谷駅の大規模な再開発(マークシティ)が行われ、その面影はなくなってしまった。

そのまま246号線の真ん中をゆっくりと走った電車は、途中で道路を離れたり、再び道路に戻ったりしながら二子玉川園まで走っていた。また、終点の二子玉川園では、砧本村へ向かう支線の砧線が出ていた。

電車のスタイルは路面電車だったが、路線の半分は専用の線路を走っていたことから、性格としては路面電車と郊外電車との中間的存在だったようだ。玉電は東京西郊から渋谷への足として、生活の中に定着していた。

ところが昭和40年代に入ると、自動車が急速に普及して「モータリゼーション」が叫ばれた時期。全国の愛すべき路面電車があちらこちらで姿を消していった。つまりはクルマにとって道路の真ん中をのろのろ走られるのは邪魔でしかなかったのだ。それと、246号線には首都高速3号線を建設することもあって、やっぱり邪魔者扱い…玉電の運命は??

玉電は将来新玉川線(今の田園都市線渋谷-二子玉川間)として発展的解消するため、都市計画路線11号線である営団地下鉄半蔵門線との相互乗り入れを前提に、東急玉川線と砧線は昭和44年5月10日、惜しまれつつも廃止されてしまった。

廃止から8年近くたった昭和52年4月1日、東急新玉川線渋谷-二子玉川園間が開業。翌昭和53年8月1日、営団地下鉄(現:東京地下鉄)半蔵門線渋谷-青山一丁目間開業と同時に東急からの乗り入れが開始された。半蔵門線はもともと銀座線の混雑緩和のためのバイパス線という意味合いもあるが、よくよく考えて見ると東急は既に日比谷線との相互乗り入れを行っていたものの、渋谷から銀座線の平行ルートを走るというのは銀座線の前身、東京高速鉄道という東急の地下鉄進出の30年越しの夢がこの時実現したのかもしれない。渋谷-二子玉川間はながらく新玉川線を名乗っていたが平成12年8月6日、田園都市線に併合された。

しかし、半蔵門線というのも変わった路線で、開業当初は営団側が電車を用意せずに全部東急の電車で賄っていた(営団分は東急からのリースという形)。続いて永田町まで延長した時は銀座線が万世橋仮駅まで開業した時のように単線運転。ようやく水天宮前まで開通した時に営団が電車を新製したが、車庫は自社線内ではなく、東急田園都市線の鷺沼にあった東急の車庫を頂いた。

実は玉電は全面廃止されていなかった。路面区間のない三軒茶屋から下高井戸までの支線は現在の東急世田谷線として生き残った。以降玉電時代からそのまま(色はグリーン一色に変わってしまったが)の電車が走っていたが、平成13年2月に全車引退した。

世田谷線の問題は車庫と電車の検査。上町に小さな車庫はあるが、もともと大掛かりな検査を行う玉電の車庫は、玉川線の大橋にあったために廃止と同時に使えなくなってしまった。そこで車検の時は車体だけ上町の車庫で検査をするが、その他の電気部品などは電車から外してトラックに積んで長津田の工場へ持ち込まれる。

そういえば世田谷線は環七通りを横切るが、この踏切はクルマ優先で電車が止まらなければならず、クルマの信号が赤になってようやく電車が踏切を渡るという変わったもの。

玉電を語る上で、どうしても外せないのがデハ200型、通称ペコちゃんである。

昭和30年に玉川線の新車としてデビューしたこの電車は、モノコック軽量ボディ、新型駆動装置、小型車輪の採用という40年以上経った現在でも十分通用するスペックをもっていた。ただ、その新機軸が保守する側の不評を買い、玉川線と運命を共にしたという不運さも持ち合わせていた。

その愛らしい表情は不二家のマスコット、ペコちゃんに似ているという声が起こり、この電車の愛称にもなった。現在1両だけが保存され、田園都市線高津駅にある東急「電車とバスの博物館」に展示されていたが、最近博物館の移転が決まり、久しぶりにペコちゃんは道路を走り(トレーラーに牽かれてだが)、移動したという。

今思えばこのペコちゃんは、軽量ボディが産む省エネ性能と小型車輪ゆえのバリアフリー性能など、なんて将来を見据えた電車だったのだろう。勿体無い事をしたもんだ…と思う。ただし冷房だけはついていなかった。

世田谷線の電車は新車デハ300型に置き代えられ、駅施設共にバリアフリー化が進められている。


こうして玉電は、世田谷線として今も変わらず普段の足として愛されています。そして多彩な(?)新車デハ300型はペコちゃんの良き後継者として活躍してほしいものです。

次は久しぶりに駅の話題です

【予告】京急線の謎

―参考文献―

鉄道ファン 1998年6月号 特集:地下鉄ネットワーク (株)交友社刊
鉄道ジャーナル 1983年6月号 特集●地下鉄と近郊電車の相互直通運転 (株)鉄道ジャーナル社刊
鉄道ファン 1999年4月号 「たまでん」跡は今 (株)交友社刊
鉄道ファン 2000年2月号 デハ300型の登場で振り返る東急デハ200型「ペコちゃん」 (株)交友社刊
ぴあMAP東京・横浜'98〜99 ぴあ(株)

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