地下鉄 銀座線ストーリー

本日は御乗車ありがとうございます。
ここはお馴染み地下鉄銀座線の事を、ちょっと裏側まで紹介するページです。

 

 ●ライバル現る!?

浅草-新橋間を全通させた東京地下鉄道であったが、ここで最大のライバルが出現する。のちの東急グループを作りあげた東横電鉄が地下鉄に進出した。その名も「東京高速鉄道」という。これは昭和6年に将来東京地下鉄道と合併する事を条件として発足し、東京市より今の銀座線の残り区間、丸の内線の一部区間他の免許を譲り受け、工事に着手した。

しかし、後に東京地下鉄道と東京高速鉄道は「将来の合併」までにトラブルを繰り返すことになる。

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東京高速鉄道は昭和10年10月に着工され、昭和13年11月18日、青山6丁目(のち神宮前、現在表参道)-虎ノ門間、12月20日渋谷―青山6丁目間、翌14年1月15日、虎ノ門―新橋間が全通した。確かにこの時点で今の銀座線と同じ渋谷-浅草間が繋がったように見えるが、まだこの時は両社のレールはまだ繋がっていない。

東京地下鉄道はもともと「私鉄」としてスタートしている。また東京高速鉄道も当時東横系(現東急系)の「私鉄」である。今では再開発ですっかり変わってしまったが、銀座線渋谷駅は長らく東急百貨店東横店3階にあったのも不思議ではない。もっともこの建物は当初は玉電ビルといい、今の東急田園都市線の元となった玉川電気鉄道が建てたものだった。
玉電は昭和13年に東横に吸収され、今は世田谷線がその名残として残っている。東横はこの後関東地区の私鉄買収に走ることになる。結果的には戦後独立したが東横は小田急、京王、帝都、京浜急行をことごとく買収し、「大東急時代」を形成する。京浜急行が買収されたのも実はこの地下鉄にまつわる話だったとは…。京王と帝都はくっついたまま残り、あとは現在の形となっている。しかし今でも東急の各社への資本参加は続いており、余談だが以上の私鉄社員も全国にある東急系のホテル等を優待利用出来る福利厚生が受けられるという。

東京高速鉄道のライバル、東京地下鉄道も例外でなく幾度も東横に吸収されかかっている。しかしとりあえず分離運転を続けることは両社共に得策ではなく、東京地下鉄道新橋駅から東京高速鉄道への連絡線をつくることとなった。昭和14年9月16日、渋谷―浅草間の相互乗り入れが実現し、ここに今の銀座線のスタイルが出来上がったのだが…

相互乗り入れにあたっては、当初の目的である合併を前提としているために、東京高速鉄道の電車は東京地下鉄道の電車の寸法を踏襲して造られていた。

これは東京高速鉄道100型。東京地下鉄道1000型と同じく地下鉄博物館でカットモデルとなって展示されている。銀座線の電車はアメリカのウエスチングハウス社の電気部品を基本とする三菱系で設計されたなかで、この型だけが日立系と異なっていたので、のち保守に苦労したと言われている。

東京地下鉄道の電車よりも若干丸みを帯び、色も違うのが外見の特徴だが、なにしろ大きな違いはパワーで、東京地下鉄道は1両あたり90KWモーター2台なのに対し、こちらは75KWモーター4台を装備し、倍近くの差。今では相互乗り入れの場合は境界となる駅で乗務員が交代するのが通例であるが、この時は両社そのまま相手先へ運転して行ったというので、経営者同士のいがみ合いは社員にも伝染して、パワーに物を言わせて飛ばす東京高速鉄道と、追っかけられて必死で逃げる東京地下鉄道のデッドヒートが逸話として残っているとか。

東京地下鉄道は東横の吸収合併を逃れるために、新橋から先の線路を横浜方面へ延ばすことを模索しはじめる。この頃新橋-品川間の免許をすでに取得しており、これと京浜電気鉄道、湘南電気鉄道(この2社はのち合併して京浜急行となる)の乗り入れを実現し、浦賀―浅草間を直通させる計画を立てる。そのため東横には内緒でこの3社が出資した新橋-品川間の「京浜地下鉄道」を設立してしまった。これがずっと後になって京浜急行の都営浅草線直通に生かされることになるとは誰が想像しただろうか。

このような「密約」が東横側にバレない訳がなく、東横は各社の株買収を始める。前述の私鉄各社と、東京地下鉄道の株式はことごとく過半数を抑えられ、東横は東急となって天下を迎える。しかしこの時点でまだ東京地下鉄道は存在していた。

この頃日本は戦時色を徐々に濃くしつつあり、東京に限らず全国各地には小私鉄が林立していて、これらを統合整理するために「陸上交通事業調整法」が昭和13年8月すでに施行されていた。東京地下鉄道と東京高速鉄道のスッタモンダはこの対象となり、ここに私法人「帝都高速度交通営団」(略して営団地下鉄)として再スタートすることになった。…というより、実際は鉄道省(後の国鉄。現JR)と東京市、将来地下鉄乗り入れ予定の私鉄数社が出資し、吸収合併寸前のところでくいとめた…と言ったほうがいいのかもしれない。

当時東京地下鉄道は、もしも吸収合併となれば労使協調して企業防衛のためのストライキを起こすつもりだったという。これは企業努力を重ね、ようやく採算に乗った地下鉄を「乗っ取られる」ことに危機感を持っていたことに他ならないが、逆に東急の株買い占めの言い分は、「合わせてたったの14.3kmの私鉄が二つに別れて争っているのは不合理であり、市民のために一刻も早く合併すべきであるが、東京地下鉄道が同調しないのでやむを得なかった」としている。

営団地下鉄(現:東京メトロ)のベースはこんなことから東京地下鉄道が主体となっているようだ。東西線葛西駅にある地下鉄博物館は、地下鉄互助会が運営、営団は協力となっているが、館内では営団社員OBが説明やシミュレーターの指導にあたっている。そのOBの方(この方たちがまたホントに親切で感動した…)によると、やはり東横の乗っ取りは今でも印象が悪いようだ。このほか、とてもこの場では言えない銀座線の内緒話まで教えていただいた。

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実はこのず〜っと後になって、営団地下鉄も存続の危機を迎えることになる。

それはJRの発足である。戦前、地下鉄には消極的であった東京市だったが、戦後東京都となり1号線(現在の浅草線)、6号線(現在の三田線)と地下鉄に進出し、都内交通を一手に引き受けたいと模索始めたのである。そこで鉄道省から国鉄に引き継いだ営団地下鉄の株式を、この機会に買い取って営団を都営にしてしまえ!という計画があったのである。

しかし…既に都内を始め隣接都市にまで張り巡らされた営団地下鉄の不動産は、到底東京都の財政で買い取ることは不可能だった訳で、結局旧国鉄分の営団地下鉄株式は政府が買い取ることで落ち着いた。そして平成16年4月1日、営団地下鉄は民営化されることになり「東京地下鉄株式会社(東京メトロ)」として新たなスタートを切ることになった。


と・言う訳で今に至っている訳です。

次回からは銀座線のいろんな「謎」について話を進めます。

【予告】 新橋駅の謎

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年10月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第一部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1974年11月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第二部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1986年11月号 特集「日本の地下鉄1986」 (株)交友社
鉄道ファン 1991年9月号 特集「営団地下鉄50年/6000系電車20年」 (株)交友社
鉄道ファン 1994年1月号 特集「全国地下鉄事情」 (株)交友社
鉄道ファン 1998年6月号 特集「地下鉄ネットワーク」 (株)交友社
私鉄電車のアルバム 1A (株)交友社
ぴあMAP 東京・横浜 '98〜'99 ぴあ(株)

【協力】

帝都高速度交通営団(現:東京メトロ) 地下鉄博物館 地下鉄互助会(現:メトロ文化財団)

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