地下鉄 銀座線ストーリー

本日は御乗車ありがとうございます。
ここはお馴染み地下鉄銀座線の事を、ちょっと裏側まで紹介するページです。

 

 ●銀座駅の謎

地下構造物は一般に地震には強いと言われている。しかしあの阪神大震災の時の神戸高速鉄道大開駅の陥没は衝撃的だった。その他神戸市交通局でも上沢駅の柱が多く損傷を受け、三宮駅のコンコースもダメージを受けて、この二つの駅はしばらく通過扱いとなっていたものだ。

太平洋戦争の末期、国力も落ち、全国が爆撃を受けるようになり、警戒警報が発令されると防空壕へ逃げていたことは戦前、戦中派でなくても知っていることだ。じゃ、地下鉄は防空壕としては是か否かという話が当然のように持ち上がった。

結局「やはり危険だ」という事になり、警戒警報が出ると電車の運転は中止、最寄りの駅でお客は全員地上に出されたと言われている。

● ● ●

昭和20年1月27日14時30分頃、銀座4丁目付近に爆弾が投下された。地下鉄銀座線は銀座駅が破壊され、京橋駅もダメージを受けた。やはり地下鉄と言えども防空壕の代わりにはならなかったのだ。

当時の上野保線区「戦時鉄道災害報告」によると、銀座駅の被害は大きく、新橋寄り出口(今のA1番出口か?)付近約3mに爆弾が落ち、その一帯は破壊された。駅は出口階段に亀裂を生じ、ホーム部分も幅2.8m、長さ3mに亘り鉄骨、鉄筋、床版が破壊されたという。またこの爆弾が原因で水道管(口径800mm)が破裂し、土砂が40m余りの長さに亘って線路を埋め、さらに大量の水が線路に流れ込み、新橋-日本橋間が浸水してこの区間が運転不能となってしまった。京橋駅は明治屋前の7番出口の壁、階段に亀裂が入り、そこから浸水があったという。

この被害のため、銀座線は浅草−日本橋間、新橋−渋谷間で折り返し運転、三越前−日本橋間は単線運転という形が約半月続いた。その後も戦災復旧は続いたが、終戦後の昭和21年1月まで銀座駅は片側のホームしか使えなかった。

今でも戦争の痕跡は残っている。銀座駅の浅草方面行きホームの新橋寄りで電車を待っている間に天井と壁の部分を見てみるとそれが判る。

鉄骨の梁は叩き直してあるがケロイド状とも言える跡が生々しく残っており、その左側の壁は妙に飛び出ている。これは銀座駅だけにしか存在しない。

戦後の混乱は電車の運転にまで影響し、部品の不足、保守技術の低下等で全84両中まともに動くのはたった24両。しかも電車同士の空気ブレーキを繋ぐゴムホースがなく、代わりに水道用のホースを使ったところ、全く役に立たずたちまち空気漏れを起こしたとか。

● ● ●

それでも昭和24年から26年にかけて電車を新製、その中でも始めは戦前同様車体の組み立てに全部リベット(鋲)を使っていたのが、溶接となる等の技術進歩もあった。…そして昭和26年9月、新路線である丸の内線、池袋−お茶の水間の着工を迎えることになる。


さあ、銀座線のいくつかの「謎」は解明されつつあります。でもここまでの話を振返ってみると、東京地下鉄道にまつわる話が多いようです。確かに東京高速鉄道は歴史が非常に短いのですが…

次回は変な塔の話です。そして一応終点となります。

【予告】 溜池山王の謎(最終回)

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年10月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第一部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1974年11月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第二部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1986年11月号 特集「日本の地下鉄1986」 (株)交友社
鉄道ファン 1991年9月号 特集「営団地下鉄50年/6000系電車20年」 (株)交友社
鉄道ファン 1994年1月号 特集「全国地下鉄事情」 (株)交友社
鉄道ファン 1998年6月号 特集「地下鉄ネットワーク」 (株)交友社
私鉄電車のアルバム 1A (株)交友社
ぴあMAP 東京・横浜 '98〜'99 ぴあ(株)

【協力】

帝都高速度交通営団(現:東京メトロ) 地下鉄博物館 地下鉄互助会(現:メトロ文化財団)

このサイトからの文章、写真等内容の無断転載は固くお断り致します。
 

 トップへ