地下鉄 銀座線ストーリー

本日は御乗車ありがとうございます。
ここはお馴染み地下鉄銀座線の事を、ちょっと裏側まで紹介するページです。


 
●駅デザインの謎

「赤門」といえば東京大学。これは元加賀藩江戸屋敷の跡ということで、ボクが生まれ育った(今も住んでいるが)石川県でも結構知られている話ではある。

東京地下鉄道はそれぞれの駅に個性を持たせようとデザインに工夫した。最初の開通区間である上野-浅草間では特に凝ったようで、浅草駅には浅草寺を模した出入口がつくられた。これが赤門と呼ばれ、現在の吾妻橋口、4番出口がそれである。

今では周りの建物や交差点の植栽に隠れている感があるが、開通当時はかなり目立ったことだろうと思う。注目すべき点は細かな装飾が施されているという事だ。

現在木に隠れていて解りにくくなっているのが残念だが、上の写真の「銀座線浅草駅」の表示の下の部分には格子がはめ込まれており、これは

地下鉄出入口という字をデザインしたものである。

浅草駅の反対側1番出口には「銀座線浅草駅」の提灯があり、観光客の記念写真スポットとなっている。その下には二匹の竜が泳ぐレリーフがあり、これは金竜山浅草寺にちなむものらしい。出口のある建物は東京地下鉄道が建てた「雷門ビル」ではないだろうか。

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田原町駅のホーム柱と天井の境目には、家紋がズラっと並んでいる。これは浅草六区にちなんで、歌舞伎、新派の家紋をデザインしたものである。開業当時、東京地下鉄道が水谷八重子の家紋を作成しようといたが自信がなく、とうとう本人の自宅まで出掛けて確認したという話も残っている。
開業時は三色で仕上げられたらしいが、やがて長年のホコリが積もってしまい、昭和46年に武蔵野美術大学の協力を得て白黒の単純化がなされて蘇った。

ところが今度は、どれが誰のだか判らなくなってしまったらしい。そこで昭和48年には恥を忍んで(?)田原町駅に身許探しのポスターを貼って協力を求めた結果、大部分が解明出来たのだという。

田原町駅浅草方面行きホームの中程にあった家紋の一つ。松本幸四郎だった。

その他、駅のイメージカラーとしての考え方だが、田原町は薄い青、稲荷町は薄いクリーム、上野はスクラッチタイル貼りと、各駅に個性を持たせていた。
これは現在でも全国の地下鉄でもよく採られる手法であり、特筆に値する。ちなみに上野駅については葛西にある「地下鉄博物館」に保存展示中の東京地下鉄道1000型と共に再現されている。(この駅は「うへの」と表記されている。)

地下鉄ストアの名残を調べていて、上野−浅草間以外にも凝った装飾があるというのが判った。

神田駅6番出口は、上にあった地下鉄須田町ビルを取り壊したために上半分が新しいが、あとは開業当初の面影をそのまま残している。この壁のタイルを見ても、新しい方(左側)は普通の壁用タイルを貼ってあるのに対し、古い方(右側)はタテ長のタイルとモザイクタイルを色、形、大きさをデザインして貼ってあり、使用材料までも工夫していたことが伺える。

今の建築デザインとはまた違ったものがある。また「…らしさ」などという安直なデザインではなく、担当者の心意気やちょっとした遊び心までもがにじみ出ていると言ってもいいだろう。


新橋までの全通。こんな華やかさとは裏腹に、時代は戦争色がますます濃くなっていきます。太平洋戦争の残した傷痕は地下鉄銀座線にもありました。

次回は戦災についての話です。

【予告】 銀座駅の謎

【参考文献】

鉄道ジャーナル 1974年10月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第一部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 1974年11月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第二部」 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ファン 1986年11月号 特集「日本の地下鉄1986」 (株)交友社
鉄道ファン 1991年9月号 特集「営団地下鉄50年/6000系電車20年」 (株)交友社
鉄道ファン 1994年1月号 特集「全国地下鉄事情」 (株)交友社
鉄道ファン 1998年6月号 特集「地下鉄ネットワーク」 (株)交友社
私鉄電車のアルバム 1A (株)交友社
ぴあMAP 東京・横浜 '98〜'99 ぴあ(株)

【協力】

帝都高速度交通営団(現:東京メトロ) 地下鉄博物館 地下鉄互助会(現:メトロ文化財団)

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