地下鉄 銀座線ストーリー
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●万世橋の謎 JR中央線、神田-御茶ノ水間には進行方向右側にホームの跡らしきものがあるのが判る。これはかつて「万世橋」という駅があったことを示している。 ![]() この中央線万世橋駅は明治45年に開業したが、関東大震災で駅の施設が大きく損傷したのを機に、駅ビルの基礎部分を生かして昭和11年に鉄道博物館がオープンした。駅には博物館と直接出入りできる専用の改札口も設けられたという。 戦後を迎え鉄道博物館は交通博物館として再オープンしたものの、元の駅は遺構のまま…長く歴史の証人となっていたが、平成25年になりマーチエキュート神田万世橋に生まれ変わり、かつての鉄道博物館専用改札やホームなども公開されている。 「万世橋」という駅はもう一つ存在した。東京地下鉄道は上野から中央通りの下をオープンカット工法で進んできたものの、神田川をくぐり、さらにその先の神田の密集地はいよいよトンネルを「掘る」必要があった。そこで省電(今のJR中央線)神田駅での連絡を行うには一旦工事を止めて、新たな作戦を練ることを余儀なくされた訳だ。しかしせっかく上野からここまで工事が進んだのだから、神田まであと0.5kmの開通まで仮の駅を設置することにした。それが東京地下鉄道「万世橋駅」である。昭和5年1月1日開業。 この駅はあくまでも仮の駅であったので、ホームは浅草方面行きにしか設置されなかった。電車の運転形態は、浅草からは末広町行きと万世橋行きを交互に運転し、末広町−万世橋間は片側だけの単線運転を行ったようだ。ということは万世橋へは半数しか運転されていなかった事になる。しかし万世橋の利用者は結構多かったといわれている。 開業後約2年を経た昭和6年11月30日、路線はめでたく神田までの開通を迎える。と同時に東京地下鉄道万世橋駅は役目を終え廃止された。使われたホームはそのままとされて資材置場として利用され、神田から浅草行きに乗って前方をよく見ていると判ったと言われたが、ホームは短く、かつ狭いものだった。荒廃が進み営団OB氏によると今はそれすらも判らないようになってしまったらしい。 ![]() 地下鉄万世橋駅のあった場所はJRと違って、現在地上からはその痕跡を伺うことは全く不可能である。それで、実際どの辺りにあったのかというと、万世橋交差点の北西側、ラオックス本店の前に地下鉄の換気口があり、その下には駅へと続く階段があるという。 結局地下鉄万世橋駅は、こうして完全に「幻」と化してしまったのである。駅の改札口、キップ売場等の施設は取り壊されたのか、それとも埋められたのか、はたまた荒れ果てて残っているのかは定かではない。 それにしても「万世橋」という駅は悲運である。省電のほうは戦争と共に消えた。もっとも神田とお茶の水の間にもう一つ駅があったところで、近すぎるのは事実である。そういえば今の中央線だってもともとは「甲武鉄道」という私鉄だったではないか。一方の地下鉄の万世橋はもともと仮の駅だったという、はかない運命であった。 東京大学には元加賀藩江戸屋敷の名残、通称赤門があるのは有名です。しかし地下鉄にだって「赤門」はあるのです。 次回は「赤門」についての話です。 【予告】
駅デザインの謎 【参考文献】 鉄道ジャーナル 1974年10月号 特集「日本の心臓 東京の鉄道 第一部」 (株)鉄道ジャーナル社 【協力】 帝都高速度交通営団(現:東京メトロ) 地下鉄博物館 地下鉄互助会(現:メトロ文化財団) このサイトからの文章、写真等内容の無断転載は固くお断り致します。 |
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