K2--8000mへの夢--
その3

 15 May.〜 31 Aug.1997 


ABCからのK2西面

【行動記録】
5月16日 先発隊(8名)成田発
5月26日 先発隊(4名)ピンディ発 スカルドへ
6月3日 スカルド→トンガル
6月4日 ジョラ
6月5日 パイユ
6月6日 パイユ ステイ
6月7日 ウルドカス
6月8日 ゴレU
6月9日 ブロードピークBC
6月10日 K2ノーマルBC(5150m)建設
6月13日 後発隊BC着
6月14日 ABC(5500m)建設
6月16日 プジャ
6月17日 ブロードピーク静岡隊の捜索協力
6月18日 ブロードピーク静岡隊の捜索協力
6月27日 C2(6400m)建設
7月6日 C3(7000m)建設
7月15日 C4(7500m)建設
7月18日 C5(8000m)建設
7月19日 1次アタック(田辺、鈴木、中川)
7月20日 三好8000m到達
7月21日 2次アタック(瀧根、小林、中島、山田)敗退
7月28日 2次アタック登頂
(瀧根、小林、中島、山田、ダワ・タシ、ペンバ・ドルジュ、ギャルブー、ミンマ・ツェリン)
C5撤収
7月29日 C4撤収
7月30日 C3撤収
8月1日 C2撤収
8月3日 ABC撤収
8月7日 BC撤収〜ビアンゴ
8月8日 パイユ
8月9日 パイユ ステイ
8月10日 ジョラ
8月11日 アスコーレ
8月13日 全員スカルド集結
8月14日 スカルド→チラス
8月15日 ピンディ
8月20日 ピンディ→カラチ(本隊)
8月21日 カラチ→成田(本隊)
【ルートについて】
●西稜早稲田大ルート〜上部西壁〜北西稜のコル〜頂上

△BC(5150m):ABC地点にBCを建設したかったが途中氷河と3級あるかないかのI岩場が何箇所かあるのでポーターが行ってくれなかった。(20名ほどの強いポーターには残ってもらいABCまでの荷揚げの助っ人になってもらった)
Fix;約5P
ゴッドウィンオースチン氷河上のBC BCより個人テントとブロードピーク


△ABC(5500m):ヒドンクレバスが多く登山後半は、テントを移動したりシェルパの1人が落ちたりした。(生命には関わらなかったが・・・戦線離脱し、最後の最後に登頂してしまった)
・C1予定地が雪崩と落石の危険があるためC2の標高を予定より低くすることによりC1は建設しなかった。
・ルートは岩と雪のコンタクトラインをたどり、なるべくロックハーケンで支点を取った。早稲田隊やダグスコットのチームは雪壁をトラバースしたようでポーラーであれば危険だと思う。(ダグスコットのチームは、ニックエスコートが雪崩で亡くなっている。)
FIX:26P+5P(プラトー)
ABCからプラトーを行く プラトーからC2への雪壁取り付き付近
1つ目の岩場へ C2への登り


△C2(6400m)
・C3手前を早稲田大隊は5級の垂壁から超えているが我々は4〜5級数m程度の岩場をトラバース気味に超えた。
FIX:32P
C2と上部壁 上部壁遠望

△C3(7000m):(荷上げ日数及び荷上げ量を削減するためのべ2名泊まったのみ)
・ひたすら雪壁
Fix:21P

とさか尾根 C3からの展望


△C4(7500m)
・ロックバンドを滑り台と名付けられた狭いガリーから超える。
・7800m付近より早稲田大隊ルートと分かれ西稜のピナクルを目指す。
(早稲田大隊ルートは上部雪田を南南西稜にトラバースする)
FIX:21P

C4へのトラバース C4上部遠望

△C5(8000m)
・西稜より西壁上部雪田に懸垂(2P弱)後、3つの雪田を左上気味につながげて北西稜のコルに至る。
ガラ場を登り北壁の雪田上部をトラバース、あとは緩やかな雪稜をたどり頂上へ。
Fix:29P+α

C5にて C5からの下り


△Summit(8611m)

西稜8000m付近からビアフォ山群 西稜8000m付近からコンコルディア方面
西壁上部の雪田を行く 頂上ドームを行く
頂上にて 無酸素で登った?まねき猫

●南南東リブ
・トモ・チェセンがアブルッティ稜の肩(8000m付近)まで初登しスペイン隊が頂上までつなげたルート。
・稜線を忠実に辿れば、アブルッティ稜と同程度と思われるが、日本山岳会青年部隊のように側壁の雪壁を行くとK2で最もやさしいルートとのことである。
97年もバスク隊がトライしていたが、結構大規模な雪崩が2度ほどあった。キャンプ敵地は、3箇所くらいとのことである。
・その後、山野井泰史氏が単独アルパインスタイルで登頂に成功している。
肩から手前の岩と雪にコンタクトライン
南南東リブ


●K2の困難なルート、課題
・課題といえば通称シックルウォールと呼ばれる西壁であろう。サボイアコル手前まで偵察に出かけた田辺隊長によれば困難ではあるが可能性はあるだろうとのこと。(西壁は、西北西壁とも呼ばれている。)西稜ダイレクトも困難と思われる。
・既成ルートでもっとも困難なのは、南南西稜と思われる。

●下降について
どのルートからも登っても最後は、傾斜のある雪壁であり、下降中に事故の多いのもうなずける。
【標高について】
8611mということだが、スカルドであわせた高度計では、常に100〜150m程度低めの数値を示していた。そうなるとG1、G2、B.P.は、7000m峰ということになるが・・・?
どちらにしても8000m付近で2泊以上する確立が高いため、完全に無酸素での登山は限られた人間にしか難しいだろう。
【装備について】
●FIXロープ
・岩壁は、9mダンライン
・雪壁部は、下部はケブラー(ビレーはしにくいが、ユマール時に伸びないので好評だった。また、岩の摩擦にも比較的強い)
・上部はダイニマを使用(少々滑りやすいが、強度もあり、なんといっても軽量である。)

●ハーケン類
なるべくロックハーケンを使うことを前提にネパールよりチタン製のものを取り寄せ多用した。アイスハーケンについても同様であるがスナーグよりチタンスクリューが有効であった。

【その他】
・ABC-C2間(高度差900m、26P+プラトー)、C2-C4間(高度差1100m、53P)の荷上げをダイレクトに行うことにより日数の節約を行った。また、C2-C4間においては10Kg担いで往復できることをアタックに参加する最低条件とした。人により荷物を軽くしたが、最終的には全員がクリアし、日本人8名のうち7名が登頂できた。1名は当時、登山経験が少ないことから8000m地点である最終キャンプまでの行動とした。(十分登れる条件であったが、もう1人登るためのテントを含めた荷上げ量を考えると結果は分からない)
・雪壁部分は、西面であることから堅雪を期待したが、概ねひざ前後から太ももあたりのラッセルであった。
K2は、よくも悪くも僕の代表的な山行の1つになりました。
遠征後に書いたこれらの原稿を読みなおして見ると、恥ずかしい表現も目立ちますが、あの頃感じた正直な気持ちでしょう。
今は、パキスタンの”あの喧騒”が懐かしいですね。

標高は低くても、ビアフォかバルトロあたりの岩峰に行けたら・・・いいなあ・・・と。

それにしても、モチベーションを持ち続けることは、現役であり続けることは、以外と難しいですね。
共に登っていた仲間も、みないい親父になり・・・、年齢とともに体力も衰え・・・。
まあ、自然体で行くとしますか。

2004年2月23日

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