K2--8000mへの夢--
その1

 15 May.〜 31 Aug.1997 


BCからのK2

G登攀クラブの会報「Assent10」に投稿した原稿に加筆修正を加えたものです。

この計画は、出発直前に穂高で亡くなった徳島さんと新隊長となった田辺さんを中心に3年に渡る準備期間の末実現したものです。目標は、K2西稜早稲田大ルートを途中までたどり、上部に西壁を経て頂上にいたるルートからの全員登頂である。

プロローグ
私が山を始めようと社会人山岳会に入会したのは15年も昔のことである。そのクラブは入会する前年にG4西壁とデナリの南壁で事故をおこし少々衰退気味であった。
しかし、先輩の話を聞くにつけ2つの山は心の角に引っかかる存在として残った。
そして1993年4月、中島さんと私はデナリ南壁のアルパインスタイルを目指してカヒルトナ氷河に降り立った、デナリの頂上の向こうにG4を見ながら・・・。
結果は燦々たるものであったが、充実した登山ではあった。29の春のことである。その後G4計画は立ち消えたもののバルトロへの思いを密かに持ちながら、短期間でも楽しめるアルプスやヨセミテへと向かった。
デナリ南面空撮 ガッシャブルムW峰西壁

K2へ行きませんか?

同じクラブに所属するミキオくんと私は昨年の夏、奈良県は柏木の岩場でフリークライミングを楽しんでいた。そこでK2の計画を聞くにつけ「行きたい!」という思いがむくむくと沸いてきた。「郵政省が後援で日本山岳会主催なら休めるかもしれないな・・・」助平根性が働いたのも事実である。そして夏の終わりだったか、東海支部ルームを訪問し1ヶ月後には、中島さんを引きずりこんで?いた。
 思い返せば中島さんと私は、同じ日にGに入会して以来多くの山行を共にしてきた。91年のエベレスト、93年デナリ、95年ヨセミテ、そして冬のアルプスにK2である。エベレストを除けばすべて私が誘ったものであり、良くが言えばオールラウンドということになるが、実力のない者がそれをやると悲しいかな、どの分野においても3流ということになってしまうのだ。
ともあれK2は甘くないだろうから、その前に少しきびしめのクライミングをしておこうということで正月休みでクスムカングルーを計画したが、カトマンズ行きのチケットが取れず2人共通のこだわりであるウォーカー稜を目指すこととなった。結果はフェーン現象のあおりで取り付くことさえ出来ず吹雪に追い帰されることになる。
おなじみの富士山

K2を新ルートから登るために!

残念ながら、我々の実力では極地法しかなかった・・・。また、隊員の高所経験を考えると酸素の使用も考えるべきだろう。目標の全員登頂を実現する手段としてネパールから荷揚げ要因としてシェルパも呼んだ。まさに、なんでもありである。このスタイルには、多くの葛藤もあったしミーティングで何度も話し合った。そして、山ととるかスタイルをとるかで私たちは山をとったのである。何よりK2に登りたかった。

Baltro Way The Hard Way!

多くの手続き・交渉ごとを行い最もK2に情熱を傾けていたであろう徳島隊長が出発直前に穂高で亡くなった。GWの富士山を一緒に登ったあと、家まで送っていったときのこと。夕食をおごってもらい滝谷へ向かう私達に対して別れ際に「無理をするなよ」と言っていたのに・・・。ショックだった。
そして、イスラマバードに降り立つと、通関されているはずの酸素もEPIもない!おまけにパキ腹(細菌性の下痢)でぷっ倒れる隊員が続出し(私もその1人である)、その後は総勢500人を超える怒涛のキャラバンである。BCにたどりついた時には、疲れきり、正直ホッとした。言葉に言いあらわせない多くの試練を乗り越えてのBC建設であった。
K2モーテルにてテント確認 スカルドK2モーテルにて
インダス川で遊ぶ?子供たち ジョラの渡しにて
パイユにて ウルドウカスに向かう
NamelessTowerが姿を現わす ウルドウカスにて
トランゴ岩峰群 マッシャブルムをバックに
バルトロの輝く壁 GW西壁 怪峰ムスタグタワー

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