「そうそう、一つ報告がありますよ。宮川さんと、仕立君と3人で秋のダウラギリに行ってきます。
今回は、岳人クラブの名前でいくつもりです。
岳人クラブらしく、気張らず、でも少しばかりのこだわりを持って、
良い登山ができたらいいなと思っています。」
これは、2000年夏に、ラカポシの偵察山行で亡くなった
岳人クラブの代表である須藤建志氏の追悼集のひとこまに私が記した文章です。
この報告書ができるまで1年の歳月がすぎました。
これはリーダーであった私の怠慢でしかありません。
しかし、その歳月の中でダウラギリでの出来事を冷静に分析できるようになったことも事実です。
計画当初の目標は、ダウラギリ東壁のアルパインスタイルによる登攀でした。
準備をすすめていく中で、最終的には東壁で申請する群馬隊と
ジョイントするような形で北東稜を申請する京都隊が出来上がりました。
順応や東壁の状態が悪かったとき、あるいは調子が悪かったときに
トラブルなく北東稜を登れるようにするためでした。
ある経験豊富な山の先輩に東壁を本当に登りたいのなら東壁で申請すべきとの意見をいただきました。
いろいろな意味で的を得た助言だったと思います。
そして、結果的に東壁には触れることなく、先行していたクラブイエティ隊のフィックスをたどり、
北東稜から頂上を目指し仕立隊員が単独で登頂に成功しました。
登山のプロセスについては、当初の目標とはかけ離れましたスタイルになりましたが、
頂上アタックにおける仕立君は、はじめてのヒマラヤ登山にも関わらず、自身の実力に支えられた立派な登頂でした。
実際、先発としてネパールに渡ってから頂上に至るまでの仕立隊員のがんばりには、脱帽します。
また、無酸素にこだわりアタックを辞退した宮川さんのポリシーに敬意を表します。
頂上で3人そろって記念撮影できなかったことが、少々残念ではありますが・・・。
年代も目的もちがう3人の普通の登山者が、トレーニング・モチベーションの維持
・家庭や会社とのバランス等に苦労しながら、それぞれの思いを胸に向かった
ちょっぴり贅沢なあの日々のことをここに記したいと思います。
この報告書が、今後ヒマラヤを、ダウラギリを目指す方々に少しでも参考になれば幸いです。