きみを希う vol.4



 約束の大衆酒場は流行っている店だった。料理自慢は豚男の誇張というわけではないようだ。店は繁盛しており、陽が暮れたと同時に席はあっという間に埋まってしまった。

 その宵の口、大きな行商箱を背負った男がやってきた。男がにこやかに女中に声をかけると、世辞のひとつでも言ったのか、女中は大げさに手を振りながら笑って受け答えている。すかさず男は店の隅に女中を引き寄せると鍋や釜、はたまた金属製の簪やブローチなどを披露して商売をしはじめた。

 今は忙しいからまた明日にでも見せてくれとでも言っているのか、女中は装飾品に眼を惹かれながらも少々困り顔をしている。すると奥から店の主人らしき男がやってきて、行商人は愛想よく挨拶した。女中が後ろ髪を引かれつつ仕事に戻ると、主人と行商人はあとは頷くだけでふたりの間では通じるのか、何を話すというわけでもなく、主人のあとに続いて行商人も奥の扉に消えていった。

 豚男からをあらかじめ男の特徴を聞いていなければただの行商人と見過ごしていただろう。それほどに《ロギの針鼠》は客受けしそうな愛想のいい男だった。

「あの男で当たりらしいな」
「ああ。あれが本物の金物商ではないとはな。この眼でも見ても信じられん」
「本物なんだろ。二束の草鞋を履いているのだろうよ」
「そうか、そうだよな。そう考えるほうがしっくりいくな」

 店の隅のテーブルで、田舎地主の放蕩息子風の若い男とその従者らしき男が差し向かいに飲んでいた。田舎にしては仕立ての良い上着の胸には花をあしらえた気取った若い男の杯はほとんど減っていない。従者の男も主人同様、ちびちびと舐めるように飲んでいた。

 このふたり、マーシャルとヒュームである。ふたりの酒杯の中身は昨今流行の柑橘水だったが、せっかくの発泡酒は時間が経ち過ぎ、すでに泡は打ち止めになっていた。

 主従の会話が対等であることに気付いたものは誰もいない。宵も更けてゆき、店の客はいい具合にみんな酔いしれ、女中たちは蜜を集める蜂のようにテーブルからテーブルへと注文に追われて客の会話に耳を澄ます余裕はなかった。

 また客がやってきた。焦げ茶色の髪をうしろに撫でつけ、身綺麗にしている中年の男だ。どこかの貴族に使える使用人らしく、ほかの客と比べて仕立ても良さそうな服を身に着けている。男が店に顔を出した途端、すぐに主人が奥から飛んできた。身綺麗な中年男が笑顔を浮かべると皺がいくつも現れる。主人も嬉しそうに挨拶を返して、すぐさま奥へ案内する。身綺麗な男はおっとりと歩くのが癖のようだ。奥へと進む間にも何人もの女中とすれ違った。女中がそばを通り抜ける度にひとりひとり肩を叩いて労っている。女中たちも笑顔で「いらっしゃいませ」と頭を下げていた。

 一見、大それたことをするようなふてぶてしいところなどどこにもない。どうやら常連客らしく、女中たちの評判も良さそうだ。

 だが、奥へと通される客は特別な客だ。今夜は特にいわくつきの客と決まっている。

「あんなのが悪人とは。世も末だな」
「まったくだ」

 マーシャルとヒュームは硬い表情を崩さないままま、杯に口をつけた。ほかの客たちにはふたりが深刻な話をしているように見えているだろう。酒場にはいろいろな客がいる。ふたりのように、しみじみと酒を交わす客など珍しくはなかった。

 豚男の話では、今夜ふたりの仲介人が《ロギの針鼠》と会う約束をしているとのことだが、まだひとり来ていない。

「あとひとりだな。それを待つか」
「ちょっと待て。どうやらその時間はなさそうだぞ」

 奥から人が出てきた。《ロギの針鼠》である。ふたりは慌てた。

「おい、どうなってるんだ」
「どうにもこうにも。だが、これからすべきことはひとつだ。追うしかない」

 別のテーブルに着いているふたり連れに視線を向けると互いに同時に頷いて、マーシャルとヒュームは席を立った。

 しばらくすると身綺麗な中年男も出てきた。別の客ふたりがこれまた即座に勘定を済ませて、店を出ていった。その目はまるで狼のように狙った獲物を逃がすつもりはないと語っている。四つの眼が中年男を追う。

 男たちが去ったあとも店の喧騒はそのままだった。

 その夜、巡監使一行はふたりの悪人を捕まえた。《ロギの針鼠》とその取引仲間である中年男である。そして協力者である店の主人も店仕舞いと同時に取り押さえられた。





 セシルによる尋問も滞りなく進み、今回も《新しい情報を聞き出すことに成功し、騎士たちの表情には笑顔すら見えた。

 巡監使一行の最終目的は製造元を突き詰めて大元締めを取り締まることであるが、贋金をばらまいている連中の身柄を拘束することも使命に含まれている。連中の繋がりを探り出し、製造元を叩き潰し、贋金を押収する。つまり徹底的に贋金の痕跡を絶つのを役目としている。

 自供中に新たな取引の情報が手に入れば、現場を取り押さえて協力者を取り押さえなければならない。贋金の隠し処の話が出れば、贋金が市場に出回る前に押収するよう迅速に動かねばならない。現場周囲の地理や環境など事前の状況調査に抜かりなく眼を光らせ、協力者がいればそれもいぶりだすのも任務のうちだった。

「順調で結構なことだ」
「オッドアイの力がこれほど有効とは、恐れ入りますよ」

 これだけ調子よく捜査が進むと胸の奥から吐き出される息も軽くなる。

 今回、新しく手に入れた情報の中には二カ所の贋金の隠し処が含まれている。ひとつは今いる町から王都へ続く街道を東に向かったふたつ目の宿場町だ。その町の中心となる繁華街から少し外れた裏通りに潜むように建つしなびた安宿らしい。もうひとつは山向こうの小さな村境にある水車小屋だ。

「水車小屋とは奴らも考えたものだな。そうは思わないか、エルウィン」
「収穫期ならいざ知らず、村人もそう頻繁には訪れないような辺鄙な場所なのでしょうからね。この場合、さすがに眼の付け処はいいと奴らを褒めるべきですかね」

「そうだな。敵も考えなしばかりではないということだ」

 水車が回ると石臼が動き、人の子の手を煩わすことなく麦が挽ける製粉水車はとても便利だが、ほいほいと気軽に用意できるものではない。水車を作るには専門の職人を雇わなくてはならない上に、何しろ人手が必要となる。相当な経費を覚悟しなければならない。突発的な大きな出費は小さな村にとって重い負担となるため、水車はいくつかの村で共同で使うように領主が用意するのが慣例となっていた。当然、水車小屋は各村が行き来しやすいように、農地が広がるのどかな村境に置かれるようになる。

「いつも同じ場所で取引していた豚男とは違い、《ロギの針鼠》は用心深い男のようだ。同じ町は極力避けていたと白状しているしな。仮に同じ町で約束をするにしても、待ち合わせ場所は常に変えていたのだとも言っていた。さすがに贋金の隠し処となると毎回異なる場所を用意するのは難しかったようだが」

「確かにあんな重いものを持って移動するのは偉く労力が要りますからね。御禁制の贋金が見つかったらその場で首を刎ねられても文句は言えない。そんな危なっかしいものを平然と持ち歩くなど余程肝が据わってなくては無理でしょうよ」

「しかし、それでは隠し処で取引しなかったのはどうしてでしょう。口約束で済まされるほど連中の間は太い信頼感で結ばれていたってことでしょうか?」

 悠然と構えるミッターヒルにヒュームが疑問を投じた。するとエルウィンは何かを思いついたように悔しげに唸った。

「クソッ。宿屋や酒場の主人たちが共犯ともなれば、手形取引をしていた可能性もあるのか……」

 聞き捨てならない言葉を耳にして、ミッターヒルはぎょっと眼を剥く。

「それはどういう意味だ、エルウィン」
「現品後受渡し、ですよ、ミッターヒル。もっと早く考えつくべきでした。商人たちはそれぞれ商売を円滑に行うために組合もしくは個人商会に属しているものです。商売には縄張り問題はつきもの、勝手にそこらで商売してもらっては困るわけです。その縄張りの調整はどの町でも組合や商会が仕切っている。それらが受け持っているのは縄張り調整だけではない。資金の貸し付けもしています。流通において横の繋がりがものを言います。商品が生産者から消費者へ販売されるその流れの途中には卸業者や小売業者が間に入ってそれぞれ手間賃を取っているわけで。だがしかし、本来、商売するには売るべき商品がなければ売れない。商売品を手に入れるには元手が必要だが、過去にそれなりの取引実績と信用さえがあれば現金や現品がその場になくても後払いで取引しているのが実情です。いわゆる付けというヤツですよ。組合や商会の中にはその資金調達を支援しているところもある」

「付け! まさか贋金を付けで取引しているというのか? そんな無茶苦茶な!」

 ヒュームの驚いたような声を聞きとめて、ほかの騎士たちも寄ってきた。

「確かあの豚男も言っていたな。イクミル金貨で安く手に入ったと」

 ミッターヒルも深刻な表情を隠せない。

「ええ。ですが、大量のイクミル金貨などあの現場には見あたらなかった。捕まえた男たちもそんな大金など持ってはいなかった。ではイクミル金貨はいったいどこにあるんでしょうね。持ち運びしていなかったとなればそれに肩代わりするものがあるはずだ」

「なるほど。だから書き付け……。付けというわけか。まったくその可能性がないとは言い切れんな。もしかするとどこかに借用書があるかもしれん」
「恐ろしい綱渡りだな。組合や商会はイクミル金貨で買い取られていたものが贋金だと知っていたのでしょうか?」
「おそらく知らされてないでしょうね。ああいう商人は信用第一ですから。商品の代金として、取引人の直筆の支払書を持参すれば、あらかじめ預けておい取引人名義のイクミル金貨が支払われるようになっていたのでしょうよ。商品名は錫や銅あたりを記入してあればまるっきり嘘をついているわけではない。実際それらは贋金に使われている材料ですからね」

 これまでに見つかった隠し処は、町外れの空家や、地元の樵しか知らないような山の中の掘っ建て小屋で、いかにも人目を忍ぶような土地柄が好まれている。悪人なりに自分たちが危険な綱渡りをしていることを充分理解しているということだ。現金を持ち歩かないという手段はある意味、とても有効な自己防衛であると解釈できる。

「エル坊、よく思いついたなあ」
「昔の知り合いに大店の息子を捕まえて玉の輿に乗るのが夢なんてほざいていたのがいるんです。金感情が得意な女でした。彼女の見上げたところは大店を自分も切り盛りしたいと商売について学ぼうとしたその心がけです。母親気取りで、玉の輿になったらもっといい生活をさせてやるなんて言っていましたが、その代り、いい夢見させてやるんだから商売を手伝えなんて言って読み書き計算を練習させられた上、冗談交じりに子ども相手に商人の心得なんてのも扱したりしてね。そのうちこれからの世は他国との取引が重要になるんだとか大きなこと言い出して、自分は面倒臭いって逃げたわりにこっちには大陸各国の言語で商売できるようになれなんてほざいてました。上昇志向だけは人一倍強くてとにかく自分勝手な女でしたよ」

「その女性には感謝をせねばな。お蔭で我々は大いに助かっているのだから」
「ヒュームの言うとおりだ。しかしそうなるとだ、仮にエルウィンの推測が事実だとするならば少々面倒なことだぞ。組合や商会も取調べをしなければならなくなる。これほど贋金の流通に手間がかかっているとはな、さすがに予想外だった」
「まったくです。仲買人や仲介人の数の多さには辟易しますよ。それも何も知らない一般人が協力させられているかもしれないなんて世も末だ」
「しかし、今回の聞き取りは予想以上の収穫だったじゃないですか。取引や隠し処の新情報も有難いが、うまくすればこれで贋金作りの現場が取り締まれます。もう少しで任務遂行ですよ! 頑張りましょう!」

 一番若手の騎士ジョルダン・ル・ケルゾーは眼を希望に輝かせて皆を見渡した。

「ジョルダン、よく言ったぞ」

 ミッターヒルも強く頷く。

 今回取調べをして一番の朗報は贋金の製造場所が特定したことだった。

「やっとここまで来たのだ。あと一息だ。とっとと書き付けが残されているか調べて、大元を根こそぎ叩きに行くぞ!」
「はい!」
 各々、意欲満々の自信に満ちた顔でミッターヒルに応じる。その返事には意気込みが感じられた。

 その時だった。

「とはいえ場所が場所です。まだ油断は出来ませんよ」

 勇み立つ彼らの勢いを削ぐかのような言葉がエルウィンの口から放たれた。

「いかにも」
「そうだったな」
「意外と言えば意外、当然と言えば当然の場所か。まさか製造元がモース公国内とは意表を突かれたな」
「共同領域だったのがまだ幸いでしたよ。場所が場所なので、王宮に一報をを入れたのは良いご判断だったかと」
「苦肉の策だ。ごたごたに巻き込まれるのは遠慮したいからな。それくらいの保身は計らせてもらおうぞ」

 隣国モース公国内といえど共同領域ならば、オルゼグン王国の官吏や騎士はある程度自由に動ける。だたし、他国領内には違いないので、取締目的とはいえ王の許可を取っておいたほうが後々余計な混乱を招かないで済むだろうというのがミッターヒルの考えだった。

「早馬を飛ばしても王都までの往復には七日はかかる。返事を待つまでこちらで出来ることはしておくとしよう。時間は有効に使わなければな。七日のうちに二カ所とも隠し処を押さえられるか? まさか商会などの調査を考えていなかったからな。返事は水車小屋に近いトリジャーノの町で受け取るとしたためてしまったのだが」

「安宿のほうは普段から人の出入りがあるでしょうから、宿側も悪事に絡んでいる可能性がありますね。調べを入れることになります。水車小屋の位置はこの先の山を越えた麓の村境でかかる日数は行き方によりますが、とにかく山向こうの町で合流すれば事が足りるでしょう」

「これで方針は決まったな。ではいつも通りに二手に別れよう。急ごうぞ!」





 巡監使一行は取引現場を押さえる際、任務遂行中は実行部隊と残留部隊の二手に分かれて行動するのを常としていた。実行部隊の騎士たちは時間を許す限り、旅の途中で宿に立ち寄った客や買い付けにきた商人、下級貴族などを装い、張り込みや聞き込みに散らばり、残留部隊は実行部隊の後方支援を引き受けた。

 尋問担当のセシルは、決まって残留部隊に組み込まれた。

 カンギール人の乳白色の髪は人の眼を惹く。目立つ外見を隠すのには限度があり、一度見たら忘れられないということは、人に紛れて行動するのには不向きだということだ。移動の際は頭からすっぽり外套をかぶり、目立つ髪も瞳も隠すようにしていたセシルであるが、実行部隊が出払っている間は巡監使が定めた宿屋や空家などでじっと閉じこもるように過ごしていた。時には何日も留守を預かることもあった。仕方がないことだが、セシルはそれも自分のすべきことだとちゃんと理解していた。

 五十日伺候中の領主代行の立場を慮ってか、それともひ弱な子どもを守るのは大人の義務だと騎士道精神が働いたのか、セシルには最低ふたり以上の護衛がついた。主に、全体指揮を執るミッターヒルと彼の従者であるエルウィンのふたりが居残ることが多かった。だが、仲買人同士が落ち合う取引の日はミッターヒルも当然先頭を切って出払って行き、そのような大事の際はエルウィンとセシルのふたりだけで取り残された。エルウィンの剣の腕前を信用しての居残りなのだろうが、自分より五、六歳年上でしかない赤毛の少年に対するミッターヒルの信頼の深さがセシルには少し不思議でならなかった。

 緊急時とはいえ、成長期まっただ中の少年従者ひとりに上位貴族の護衛を一任するなど常識では考えられないことである。とはいえ、人手不足の任務中に常識などあってないようなものだ。何事も臨機応変に行動すべしということか。

 今回は四名の騎士を先駆けの実行部隊としてふたつ先の宿場町に送り出し、残りはこの町の商会を調査してから、もうひとつの贋金の隠し処である水車小屋へ向かうことになった。うまくすれば先駆けの隊と向こうで合流できる。

 巡監使一行の中で、従者はエルウィンひとりであり、そのエルウィンと官吏手形を所有するセシルを除くほかのものはみな騎士を名乗ることを許されていた。

 一行の身の回りの世話全般を担う従者の仕事は多岐にわたる。宿に泊まれば主人や女将がいろいろ世話をしてくれるが、野営時は食事の支度なども少年が受け持っていた。

 王都からの使者がやってくるまでに贋金の隠し処を押さえておきたいミッターヒルは、商会への一連の調査をセシルの活躍により一両日でで終わらせ、イクミル金貨の預け金が発覚。ただし、商会関係者は単に事務処理に回っただけで犯行とは無関係であることが明らかになった。

 その翌朝、夜明け前に一行は件の水車小屋へ向けて旅立った。ミッターヒルはぐるりと平地の道を山裾を大きく迂回するのではなく、ほぼ直線を描く山越えの経路を選んだ。理由は単純である。山を越せば四日で着くが、迂回するとなると七日かかってしまうからだ。

 一行は山越えの準備に余念がなかった。だが、水や食糧を持ち歩くには限度がある。途中、泉や川で飲み水を調達するのは珍しいことではない。山間に住む家があれば食糧を買い取ればいい。最悪の場合、一日や二日食べなくても死にはしない。とはいえ体力のことを考えれば食事を抜くのは極力避けたいものだ。いざとなれば兎や鹿を仕留めたり、川で魚を捕るなどして、自分たちで食糧調達するのは覚悟の上の出で立ちだった。

 山に踏み入れて最初の二日は予定通り、手持ちの食料で賄った。その後は少年が中心となって食糧を調達するようになった。少年は狩りの達人であることを知っていた彼らは、空腹のまま移動するのを良しとしなかったのだ。

 猟をするときは騎士たちも手伝った。だが、少年の狩りの腕前は驚くことに騎士たちの遥か上を凌いだ。かえって足手まといとなってしまい、ついには下手に足音を立てられると獲物が逃げてしまうから自分とは別行動してくれと少年から懇願される始末だった。

「やれやれ大人の面目丸潰れだな」
「まったくだ。エル坊はうまいこと短剣を投げる。気持ちいいくらいに吸いこまれるように獲物に飛んでいくぞ。まるで神業だな」
「これほどの腕前になるまでには余程練習したのだろうな」

 ヒュームとジョルダンが尋ねると、少年は何を今更そんなことを聴くのかとばかりに肩を竦ませた。

「そりゃあ、それなりに鍛錬しましたよ。やることやらなきゃいつになっても出来ないままですからね。コレに限らず、万事においてそういうものでしょう?」
「そりゃそうだが」

「まあ、俺の場合、無理やり仕込まれたんですけどね……」
「短剣投げを無理やり仕込まれたと言うのか?」
「もう昔のことです。今こうしてちゃんと役に立ってるわけだから何事も無駄じゃなかったことですよ」

 それはどこか素っ気ない態度でありながら、過ぎ去った時間の流れを綽々と受け入れているのが伝わってくる言いようだった。

「おいおい、エル坊。この間は商人の心得を教え込まれたって言っていたじゃないか。話が違うぞ」
「おまえの言葉が本当なら、いったいどんな育ち方をしてきたっていうのだ」
「それほど大層な話じゃありませんよ。昔、旅芸人一座に世話になってただけですよ。母親代わりにいろいろ世話してくれたのがその一座にいた舞姫ってだけで俺は嘘なんて言ってません」
「なるほどな。芸の一環として仕込まれたのか」
「あの頃は芸ができなきゃパンのひとかけらすら食わせてもらえなかったですからね、短剣投げだってそりゃ必死に覚えましたよ。できなきゃ飢え死にするだけでしたから」

 少年の獲物を仕留める的中率には誰もが眼を見張っていた。どんなに俊敏に逃げようと、狙った獲物は一度としてのがさない。それは努力を積み重ねて初めて得られる技量だと少年は淡々と語る。

「余計なことを言って悪かったな。おまえが嘘を言っていると本気で思っていたわけではないのだ」
「わかってますよ」

「エルウィン、おまえは本当にすごいと思うぞ。一芸は身を助く、まさにそれを地で行っている奴だ」
「そうだぞ、智恵や特技があるというのは素晴らしいことだ。食いはぐれがなくてよいではないか。短剣投げも極めれば見事な特技となる。いざとなったら山で兎を捕ればいい。腹は膨れるし、売れば金にもなる」
「そうですね。お蔭様で自分でも食いっぱぐれだけはしないで済むと思ってますよ」

「まさしくだな。我々は有能なきみにもっと感謝すべきなのかもしれない」

 ミッターヒルも騎士たちの言葉に重ねるように、そう述べた。

 少年は足も速く、獲物を追いかければ恐ろしいくらいに機敏に動いた。優秀な狩人が仲間にいるのはとても心強い。食糧の心配をしないで済むのはとても有難いことである。

 狩りの腕前はほんの一部でしかない。騎士たちがエルウィンを頼りにするのは狩りだけではなかった。皮をはぐのも肉のさばくのもエルウィンはうまいものだった。野宿するのも騎士たちよりも余程手慣れていた。

 少年の働きがただの従者のそれに収まらないのは、否応なしに突きつけられた。

 同行の騎士たちは出来過ぎるとも言える少年の有能さを感心しながらも不可解に思ったが、ミッターヒルの少年への信頼を信じて、特に少年の素性について深く追求することはしなかった。

「誰もが隠れた才能って奴をひとつくらい持っているもんだ。おまえはたまたま他人よりも多くの才脳を持っているのだろう。だが、おまえがその秀でた才能のお蔭で我らは美味い肉にありつくことができる。エルウィン、感謝するぞ」
「俺からも言わせてくれ。ありがとうな」

 ヒュームに続いてジョルダンも礼を言い、少年の肩を軽く叩いた。

「そりゃあどうも」

 エルウィンはいつものように肩を竦めて飄々とした態度を崩さなかったが、満更でもなかったようだ。そのあとジョルダンたちに尋ねられれば、狩りの要領を惜しげなく伝授していた。

 それは騎士たちと従者、どちらが上の立場なのかわからないような風景だった。

 とはいえ少年が優秀な人材で、無駄な時間をかけずに手際よく動けるとはいえ、従者としての仕事はとても多かった。エルウィンはいつも鼠のようにあちこちに走り回っていて、じっとしている暇などなかった。

 今、エルウィンは拾ってきた枝をくべようと黙々と手を動かしている。彼の忙しさをつぶさに見てきたセシルはとうとうじっとしていられなくなった。風よけくらいにはなれるだろうか。そう思いついて少年の近くに寄ろうとした。

 すると──。

「俺に近づくな。余計な手出しはするんじゃねえ」

 もう少しで手が届きそうな距離に入った途端、少年はセシルを威嚇してきた。

 同行するようになってすでにひと月近くになるというのに、相変わらず少年は領主嫌いを隠そうともしていない。領主嫌いは身体にじっとりと染みついているようで、騎士たちに対してそれなりに礼儀を尽くしているが、セシルに対してはいまだに遠慮がなかった。

 本来、領主代行のセシルと従者のエルウィンでは主従の間柄と言ってもおかしくないくらい身分が違う。騎士たちのセシルを重んずる態度から、崩しようのない身分の差があることくらい理解しているはずなのに、この少年はまったく従者らしくなく、出会った当初からセシルを貴人扱いすることはない。

 最初のうちはちょくちょくセシルは少年に怒鳴られていた。それほど少年は遠慮ない態度を取っていた。

「エルウィンよ。おまえにもいろいろ思うところがあるのだろうが、セシルどのに八つ当たりするのはやめておけよ」
「そうだぞ。第一、こんな小さな相手に意地悪するのは大人げないぞ」
「いくら幼くてもセシルどのは領主代行さまなのだぞ。今は任務中でこんな片田舎にいるから取りただされずに済んでいるが、本来ならばおまえのその態度は許されないものだぞ」

 ヒュームをはじめとする騎士たちの忠告に、「へーへーそうですね」と軽くいなして何も聞かなかったことにするのはエルウィンの常套手口で、どんなに周りが諭してもセシルへの態度だけは、「今更だろ」と頑固に改めようとはしなかった。

 ミッターヒルはそんな少年をこれまで頭から叱るようなことはせずに来たが、この日はいつになく、「エこれだけは言っておこうぞ」と前置きしたのち、静かに口を開いた。

「似たような大きさの小石であっても、まったく同じ形、同じ色のものはひとつたりともない。それはわかるな、エルウィン」
「当然でしょう」

「だったらいい」





 その日、一行は山の中腹で足を止めた。そろそろ陽が暮れてきたため、夜暗くになる前に野営の準備に取り掛かる必要があった。

 もうすぐ夏になろうとするこの季節、野営するのはそれほど辛いわけではない。朝晩ともなるとこの時季とはいえ山は冷えるが、冬の凍えるような寒さほどの辛さはない。真冬にこの任務に就かずに済んだことに一行は心から感謝していた。

 薪にするための枝を探しに手分けして森に入る。セシルは黙ったまま、エルウィンのあとをついて行った。

 最初のうちは枝を拾っていたセシルだったが、そのうちに大木に巻きついた蔓や子どもの両手ほどの大きな葉も集めだした。そんなセシルが視界に入って、遊びじゃないんだぞと、エルウィンはいらついた。

「手伝う気がないなら先に帰ってろ」
「手伝います。でもちょっと待っててください」

 言葉遣いにしても、これではどちらが身分が上かわからない。

 申し訳なさそうに言ってくるわりに、セシルはしきりに蔓や葉を集める手をとめなかった。

「そんなもん拾っても火はつかねえぞ」
「火をつけるためではありません。これで桶を作るんです」

「はあ? 桶だと?」
「そうですよ。桶があれば水を汲むのも少しは楽になるでしょう?」

 飲み水の確保は死活問題につながる。
随時、巡監使一向は川や泉に出あうたびにおのおの皮製の水筒に水を汲むようにしていたが、食材を洗ったり煮たりするための料理用の水の確保はエルウィンが一手に担当していた。

 野営地に帰るとセシルはさっそく蔓を器用に編みだした。だんだんと円に編んでいき、ある程度大きく編み上げると今度は曲線を描くように立体的に編んでいく。あっという間に底の丸い半月状の編み籠を作りあげると、セシルは籠の内側に拾ってきた大葉を幾重にも重ねていった。

 エルウィンは案外手先の器用な奴だなと感心していた。貴族の子どもは皆、このような編み物を習うものなのだろうか。

 その頃にはさすがにエルウィンにも、欲しいものは何でも与えられて我がまま言い放題に甘やかされて育った貴族の子弟にしてはセシルという子どもは周囲の空気に鋭く、機敏に立ち回っていることにうすうす感づいていた。それだけではない。セシルの年齢で自分を抑える術を知っていることに、どこか焦りに似た対抗意識をわずかながらでも抱いている自分自身にも気づいていた。それがすごく苛立たしかった。

 蔓と大葉で作った編み桶はちょっと見たところうまくできている。だが、実際に水を入れてみなければ本当に使えるかどうかなどわからない。

 完成した編み桶を抱えてセシルは立ちあがった。

 食糧にありつけなくても飲み水さえあれば二、三日は生きていけるものだ。優秀な狩人であり、山の怖さも知っているエルウィンは、水の確保にも余念がなかった。

 野営地から少し歩いた先に三人の大人が手を繋いでやっと向こう岸に渡れるくらいの幅の川が流れていた。川筋が緩やかな曲線描いているためか、内側の川底には砂や石が堆積され、外側は深く抉られている。川水の流れも外側のほうが随分速いようだった。川底に段差があるところでは激しい白波が見え、流れの激しさを物語っていた。

「ひとりで行動するな。おまえのことはミッターヒルから頼まれてるんだ。俺の眼の届く範囲にいろ」
「はい。すみません」

「水を汲むのなら俺もついて行く」
「はい」

 山から流れる水はとても冷たかった。浅瀬のところで、数人の騎士が魚を捕っっている。水が澄んでいるので川底に敷き詰められた石がはっきりと見えた。

 セシルは足取り軽く川近くまで行くと、「お水さん、漏らないようお願いします」と呟いた。そして、さっそく編み桶で水を汲んでみた。

「へえ、意外に使えるもんだな」

 水が桶の中でゆらゆらと揺れている。セシル手製の桶はちゃんと容器の役目を果たしていた。

「葉の表面がざらざらしている使うのがコツなんです。こうすると葉を重ねてもずれないんですよ。ホントは幹を薄く削いで細長く切ったのを編むともっと丈夫なんでしょうけど、この蔦は結構強くてよかったです。どうやら大丈夫そうでですね。お水さんもありがとう」

 領主は嫌いだと明言している少年に対し、セシルの態度はいつでも柔軟だった。媚びるわけでもなく、馴れ合おうとするわけでもなく、避けるわけでもない。自分と同じ子どもに部類するとはいえ年長者への節度を保って、行儀よく相対していた。

──餓鬼のくせに度胸が据わっている奴だ。

 エルウィンにとって、セシルはその身分からして気に食わない相手だった。しかしながら、どんなに嫌いな相手であろうと相手の実力と努力を認められる度量をエルウィンは持ち合わせていた。

「どうぞ。よかったら使ってください」

 セシルがおずおずと水の入った桶を差し出してきた。

「……ああ。有難く使わせてもらうとするわ」

 エルウィンはしっかりと受け取った。



 前日、にわか雨が降ったせいか、くべようにも枝が湿気ていてなかなか火がつかなかった。ジョルダンも手伝ってくれたが、どうにもいぶすに至らない。エルウィンは唸った。

 そこにセシルがやってきた。

「お手伝いします」
「余計なことするな。おまえには無理だ」

「精霊に頼んでみます」
「はあ? おまえ、どう見ても魔道師じゃねえだろうが?」

「はい。でも機嫌さえよければ何とかなると思います」
「機嫌って……、なんじゃそりゃ」
「エルウィン、試してもらえばいいじゃないか。さあ、セシルどの、どうぞこちらへ」

 ジョルダンが場所を空けると、セシルは頭を軽く下げつつ移動した。そうして山のように積まれた半乾きの枝に向かい合うと、
「お願いです。水精さん、ちょっとどこからどいてください。今から火をつけたいんです。あなたがいると火がつきません。火精さんも意地悪しないでぼわっと大きく踊ってください。でないと私はご飯を食べられないんです。このままでは皆がお腹がペコペコです。どうぞよろしくお願いします」
と呟き、丁寧に頭を下げるではないか。

「そんな願いごとまがいの呪いなんぞ効くわけねえだろう、阿呆が。魔道師たちの呪文はそんなんじゃなかったぞ。第一おまえ、精霊が見えるのか」
「ええ、見えますけど?」

 途端、「はあ?」とエルウィンの口から呆けた声が漏れた。

「そりゃあすごいな。セシルどのはさすがに聖王家の末裔だけある。とはいえ見えるだけではエルウィンの言うとおり、どうしようもないぞ。精霊と言えば精霊魔法。精霊魔法といえば魔道師だ。その魔道師といえど修業を積まねば精霊たちを使役するなんぞ無理だろうしなあ」
「魔道師ねえ。魔道大国であるイクミルあたりに行けばそれなりにいるんでしょうが、この国では確か王宮にいるふたりだけでしたよね」

「何だ、エルウィンは魔導師に会ったことがあるのか?」
「まあ、ちょっとだけ」

「へえ。俺はまだ会ったことないんだよな。ちなみにどこで会ったのだ?」
「……学びの塔です。連れて行かれたんですよ、滅茶苦茶強引に」

「学びの塔だって!? おいおい何でまたそんな魔道師の巣窟なんぞへ行ったのだ。それにおまえって、強引とか無理やりとか、そんなのばかりだなあ」
「それは俺に言われても困りますよ。俺は事実を言っているだけですから。学びの塔へは魔剣士の才があるかもしれないって言われたことがあって。それで、少し修業をしてみたらどうかって引き摺られるように連れて行かれたんですよ。魔道師って奴らは結構無茶する連中でしたね。こっちが興味ないって言っているのにすごく強引で。結局、精霊はいっさい見えないままで、魔剣士になれるほどの才はないこともはっきりした途端、さっさと塔から追い出されましたけどね。あれはいい迷惑でしたよ」

「エルウィン、おまえって苦労人だったのだなあ。でも考えようではすごい体験をしたではないか。学びの塔なんて滅多に入れんと聞くからな。何事も経験というものさ、エルウィン」
「そんなもんですかね。俺は勘弁してほしいですよ」

 その時だった。世間話をしていたジョルダンとエルウィンは、突然「うわっ」とのけぞる羽目に陥った。急に火花が大きく散ったのだ。見れば、ぼわっと薪に火が灯っていた。

 エルウィンは呆れ顔でセシルを見やった。

「このガキ、ホントに火をつけやがった。あんなへなちょこ呪いが効くとは……信じらんねえ」
「呪いじゃありません。お願いしたんです。頼めばたまに言うこと聞いてくれるんですよ。だから言ったじゃないですか。機嫌がよければって」
「こらこら、エルウィン。セシルどのをガキ扱いするんじゃない」

 ジョルダンがエルウィンを窘めていたところに、ヒュームもやってきた。

「そうだぞ、ジョルダンの言うとおりだ。俺たちがここまで何とか来れてるのもセシルどのの神力さまさまなのだぞ。もうちょっとセシルどのを敬ったらだどうなのだ」
「けっ。そうですかね。そりゃあすみませんでした」

 それ以降、野営で食事の支度をする時は種火の準備をセシルも手伝うことに話は落ち着き、その場は治まった。

 それからも石を積んで作った即席の釜を囲んで、セシルは何かと食事担当のエルウィンを手伝おうとした。

 騎士たちはともかく、代行といえど領主であるセシルが自分のごく近いところでちょこまかと動いているこの現実をエルウィンはどうしても認めたくなくて、何度か追い払うのだが、セシルはいつの間にか火を覗き込んでいる。そしてまた願い事を呟いて、火力の調整をしているのだった。

 憮然とした顔で野菜を短剣で細かく切っている自分の横で、枝を火にくべては、ブツブツ呟いて丁寧にお辞儀をしているこの不可解な生き物はいったい何なのだ。カンギール・オッドアイが稀有な存在なのは周知に事実だが、この子どものやることは洒落にならない。

 しかし一番洒落にならないのは自分自身だ。少年の苛々は燻るばかりでどうにも治まりつかない。次代の領主にも関わらず、いつの間にかこの子どもが隣りにいることを放置している。信じられないことにこの自分が諦め半分とはいえ許してしまっている。

──いや、許してるんじゃねえ。勝手にこいつが俺のそばにいるだけだ! 振り払っても寄ってくるんだから仕方ねえだろう。

 自問自答をしていると、真横から「ほかにお手伝いありませんか」と飾り人形のように整った顔で首を傾げてくる。

「……ああ、こいつで終わりだ。明日にはちゃんとした宿に泊まれそうだってよ。お互い仕事が減ってよかったな」
「はい。寝台で寝れるのは久しぶりなので嬉しいです」

「そりゃそうだ。騎士ともなれば戦地での野営も珍しくねえだろうが、おまえは違うもんな」

 ある意味、この子どもはよくぞこの任務について来ている。エルウィンは改めてそう思った。

 エルウィンは自分が十歳の時はどうだっただろうと過去を振り返ってみた。すると、一座を飛び出して毎日野宿をしていた頃だと思い出した。

──何だ、今と同じことしてたんじゃねえか。

 だが、今は一時凌ぎの野宿だが、あの頃は違った。いつまで続くかわからない野宿生活で、どこに行けばいいのさえわからなかった。逃げ切れさえ行き先などどこでもよかった。川で身体を洗い、夜は樹の祠でうずくまるようにして眠った。梟の声が子守唄代わりだった。静かすぎる夜は獣が徘徊している証拠で、木に登ってじっと朝が来るのを待つしかなかった。狩った兎を焼いてタ食べるのが何よりのご馳走だった。獲物が取れなければいつまでも空腹のままで、木の実を拾って食べたこともある。

 あの頃の野宿と比べれば、同じ野宿でも今は安心していられる。一緒に行動する仲間がいるというのは何よりの心の拠り所となる。

 それでもエルウィンにとっては楽な野宿だとしても、上位貴族の子どもにしてみればどうだろうか。こうもたびたびの野宿生活につき合わされるのは結構きついだろうに、泣き言ひとつ言わずについてきているのは意外な驚きだった。

 伯爵家ともなれば、すべて侍女や侍従任せの生活を送っているはずなのだ。自分では服も着れない、顔を洗うのさえすべて使用人に手伝ってもらう。そんな人任せの生活とは一変したこの野宿生活である。貴族の子どもはもっと軟弱で無理難題を言ってくるような手におえない生き物だと思っていたのに、この子どもはよく耐えている。

 特に我がままをいうわけではないこの小さな領主代行に、少しずつ嫌悪感を抱かなくなっている。そんな自身の変化をエルウィンは認めざるを得なかった。





 翌朝のことだった。陽が顔を出すと同時に起きてみんなで簡単に食事を済ませた。朝食の片づけをエルウィンが丁度終えたところにへミッターヒルがやってきた。

「エルウィン、これからセシルが身体を洗にいくから付きやってやれ」
「はあ? 今からですか? 今日はこれから移動ですよね?」

「そうだ。だが、この先うまく水場に出会うかそんなことはわからなんからな。とにかく川に流されないようにセシルのことをしっかりと見てあげておくれ。よいな」
「水浴びねえ」

 巡監使一行は男しかいない集まりだ。恥らうことなど何もない。これまでにもエルウィンや騎士たちは時間を見つけて水浴びをしていた。だが、よくよく思い返せばセシルが自分たちと一緒に水浴びをしている記憶がない。

 まさか、とエルウィンは訝しんだ。

「おまえ、こっちに来てから一度も身体を洗ってないなんてくだらねえこと言うつもりじゃねえよな?」
「すみません。でも身体はちゃんと拭いてました。それに今日は山を下りて麓の町まで行くのでしょう? 結構大きな町らしいし、今夜はちょっといい宿に泊まれるかもって聞いていますから。その時にでも入らせていただきます」

 巡監使一行にセシルが合流してから宿に泊まったのはたったの三回。うち二晩は安宿だった。もちろん風呂の用意などない。ちょっといい宿に泊まった時も、夕食をたらふく食べて寝るだけだった。そして風呂に入る時間を惜しんでとにかく眠った。翌朝、陽が出るに前に出発することになっていたのだ。それでも久しぶりのちゃんとした料理に皆、腹を膨らし喜んだものだ。

 安宿でも風呂に入れないことはない。それなりに親切なところは風呂用のタライを貸してくれる。だが、湯を用意してくれる安宿はほとんどないと言っていい。湯を沸かす手間も時間も宿側にとっては正直、大きな負担で、宿代に風呂代を加算するにしても労働力を差し引くとなると割に合わない。湯の風呂に入りたければ、もう少しましな宿に泊まるしかない。ただし、その宿でも湯は用意してもらえても、湯を部屋まで運ぶのは客自身がすることになる。一般の宿屋は一階は食堂、二階が客室になっている。一階から二階に何度も往復して湯を運ぶのは結構な労力がいるのだ。

 巡監使には支度金が用意されているので、安宿をわざわざ選んで泊まっているつもりはない。これまでの道中は田舎や山間での移動が多く、宿に泊まる機会が少なかっただけだ。宿に泊まれたとしても、たどり着いた町に安宿しかなかったり、ちょっとましな宿に泊まったとしても、夜更けに到着し早朝に出立するとなると皆、風呂よりも睡眠を選んだので結局、風呂には入らずに宿をあとにしていた。

 だが、この朝はそうも言ってられなくなった。セシルが肌を掻きむしっているのをミッターヒルは見てしまったのである。よくよくセシルの肌を見れば、首のところや腕に湿疹が出ている。即座にミッターヒルは、「今すぐ川で洗ってきなさい」とセシルに命じた。

 エルウィンはセシルを伴い、川までやって来た。子どもひとりで水浴びさせるのはとても危険だ。一昨日、雨が降ったからか、川の水は豊かだった。水量が多い分、流れも速くなっている。ミッターヒルが案じるのも頷けた。

 岩石で自然にできた窪みに川の水が入り込んで、流れが一時的に止められている場所を見つけると、エルウィンはここで身体を洗うようセシルに言った。

「ここで流されないよう見張っててやるから。はやく済ませてこい」

 だが、セシルはなかなか服を脱ごうとしない。

 エルウィンの胸の高さほどにセシルの旋毛があった。上から見下ろすと、服の隙間から少し肌がのぞける。首まわりや腕に加えて、襟足にも赤い湿疹が出ているのが見えた。

「早く脱げよ」
「あの、服を脱ぎたくないのです」

「はあ? 服を脱がなきゃ洗えねえだろうが。何か、おまえ。一丁前に恥ずかしいのか?」

 セシルは俯いたまま、黙り込んでしまった。

 エルウィンは思わず怯んでしまった。いつも子どもらしからぬ毅然としたセシルはそこにはいなかった。そこにいたのは涙をぽろぽろ落として川石を濡らす小さな子どもだったからだ。

「あのさ。女じゃあるまいし、俺のことなど気にするな。おまえだってそのままじゃまずいのはわかってるだろう。その湿疹、放っておけば化膿するぞ。身体を綺麗にして来い。あとで薬を塗ってやるから」

 だが、セシルは首を左右に振った。必死に振った。

 何がそんなに気に食わないんだ、とエルウィンは苛立った。恥ずかしいにもほどがあるだろう。

「おまえはカンギール人の眠りの卵で、今は男でも女でもないんだろう? だったらそんなに恥ずかしがることねえだろうが。それにおまえは将来、男になるんだろう? こんなことぐれえでめそめそすんな! 言いたいことがあるなら言ってみろ! とりあえず聞くだけは聞いてやる!」

 セシルは涙で濡れた左右異色の瞳をエルウィンに晒した。濡れた瞳は川の光を反射して綺麗に輝いていた。

「私は二年前まで……、娘として育てられました。けれど、父と兄が死んで、伯爵家の跡を継ぐものがいなくなって、祖父は私に将来、男性化するように言いました。男になるのが嫌なのではありません。ですが、ずっと淑女の教育を受けてきたのです。夫と医者以外の男性に肌を見せる行為がどれだけ卑劣なものか……、そのように教えられてきたのに……。私は将来、妻を持たなければならないのはわかっています。けれど、まだ私の中には淑女の教育が染みついているのです。申し訳ありません。わかってくださいとは言いません。けれど、服は脱ぎたくないのです」

 エルウィンは思わず唸った。まさにここににいるのは貴族の生娘にほかならない。だとしたら、この子どもがこれほど騒ぎ立てるのも頷ける。貴族の娘は結婚するまで乙女を貫くのが不変の常識だ。正しい血筋を残すための慣習でもある。エルウィンにとってはただの水浴びだが、淑女のセシルの常識では夫以外の男に肌を晒す破廉恥な行動となってしまうらしい。

 だとしても今はそうは言っていられない非常事態だ。ともすれば、このままではあの湿疹は化膿してしまうかもしれない。化膿ともなれば発熱するだろうし、場合によっては悪寒や嘔吐を催すこともある。巡監使一行の行程は厳しい。病人をかかえて進む余裕はない。

 困ったことになった。肌を見せなくないからと言って、ひとりで水浴びさせるには心もとない。子どもの体重はとても軽い。川の流れに巻き込まれたら一気に流されてしまう。そうなれば、一瞬で命の危険に晒されることになる。それは経験上、知っていた。

 さて、どうするか。

「……しょうがない。俺も一緒に入ってやるよ。ああ、慌てるな。俺はこいつで目隠しするから、おまえの肌は見ない。俺が両手を広げているから、その中で身体を洗え。いいな、へたな動きはするなよ。流されても眼が見えない俺は咄嗟には動けないんだからな」

「でも、それではあなたも服を脱ぐのですよね?」
「当然だろ。服を着たままじゃ流された時に泳ぎにくい。服が水を吸って重たくなる。溺れてくれって言ってるようなもんだ」

「でもそうなると、私はあなたの肌を見てしまうことになります」
「……いいさ。俺は気にしねえ。女に裸を見られるのが初めてってわけじゃねえし。まあ、おまえは女じゃねえけどな。言っとくが、だからと言って俺は露出狂じゃねえぞ。自分からわざわざ人前で脱ぐ趣味はねえ。さあ、さっさと済ませるぞ。とにかくおまえはちゃんと洗え! 洗ったらこの薬を塗っとけよ。背中は俺が塗ってやる、ああ泣くな、泣くんじゃねえ! 背中だけだ。仕方ねえだろう、おまえ自分で塗れねえんだから。背中塗ってる時、ほかの肌が見れないようにちゃんと隠しとけばいいだろうが。それくらいは我慢しろ、わかったな!」

 さっさと服を脱ぎ去ったエルウィンがざぶざぶ川に入り、岩の窪みにたどり着いた。手持ちの布で眼を隠した。「いいぜ、来いよ」と水面に浮かべるようにして両手を広げる。しばらくして水音があがり、近くに子どもがやってきた気配がした。

「いいか、絶対流されるなよ。いざという時は声をあげろ」
「はい、わかりました」

「ちゃんと擦って垢を落とせよ。じゃねえと湿疹は治まらねえぞ」
「はい」

 ごしごし身体を擦っているのか、水の跳ねる音がする。まるで小さな魚がパシャパシャ飛び跳ねているようだな、とエルウィンは思った。

 しばらくして、川の流れに足を取られたのか、子どもの身体が一瞬、左手に触れた。「きゃっ」と小さな悲鳴が聞こえたと同時にすぐに離れる。

「大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です。ありがとうございます」

 そのうち、「洗い終わりましたので出ます」と声がかかった。

「薬を塗ったら知らせろ。それまで俺も水浴びしてる」

 セシルの気配が完全に離れていってから川岸に背中を向けて、自分の身体もついでに洗った。まったくどこの深窓のお姫様だと言いたくなる。あんなんでちゃんと男性化できるのかねえ。

 薬を塗り終わったと声がかかり、エルウィンは目隠しをしていた布を取り去るとセシルのところに戻っていった。

 セシルは川に背中を向けて腰を下ろしている。乳白色の髪は濡れたまま、毛先から水がまだ幾分ぽたぽた滴っている。柔らかな白い色合いがいつもよりも深かった。

 腕や首が緑色に染まっている。どうやらちゃんと薬を塗ったらしい。

「背中を見せろ。塗ってやる」

 セシルは嗚咽を噛み締めながらうしろを向いて上半身を晒した。もちろん、胸元を腕で隠している

──泣きたいのはこっちだっつーの。



 だが、エルウィンの災難はこの朝だけに留まらなかった。

 麓まで来ると、巡監使一行はまず目的の水車小屋に向かい、隠し贋金を押収してから、一番近くの宿場町に寄った。

 その夜、久しぶりに宿に泊まり、一行は満足いくまで夕食を腹に納めた。

 エルウィンも腹が膨らむほど食事をし、今夜は久しぶりに雑用から開放されていい気分だった。

──久しぶりにまともな寝台でぐっすり寝てやるぞ。

 足取り軽く、宿の女将に「こちらのお部屋です」と二階に案内されて、扉を開けて唖然とした。

 二人用の客室には当然のように二台の寝台が置かれている。それはいい、それはいいが──。

「どうしておまえがここにいる!?」

 驚いたのはカンギール人の子どもも同じだったようだ。

「怒鳴らないでください。ここで寝るよう言われたのです」
「おまえは仮にも領主代行だろう? ひとり部屋、もしくはミッターヒルと一緒にこの宿一番の上等な部屋を使えよ!」

「でも……」
「どこのどいつだ、おまえをここに寄こしたのは!」

 エルウィンの問いに答えたのは、ひょいと廊下側から顔を出した巡監使だった。

「ああ、それは私だよ。今夜もセシルの風呂の世話をよろしく頼むぞ、エルウィン。下に湯を頼んでおいたからな、あとで取りに行くように。セシル、きみはとにかく清潔にして、早くその湿疹を直すことだ。じゃあ、明日は早いから。ふたりとも早く寝るように。ではおやすみ」

 こんちくしょう、と歯ぎしりした程度ではエルウィンの気が治まらない。

──また風呂かよ、この糞ったれ。ああ、わかったよ。やりゃあいいんだろう、やりゃあ。

 大きなタライを部屋の持ってくると、エルウィンはドンッと大きな音を立てて床に置いた。音を立てたのはわざとだ。

──ほかの部屋に響いてしまえ。

 完全に腹いせである。八つ当たりの何ものでもない。

 それからエルウィンは肩で大きく息を吐くと、顔を勢いよく上げて階段を下りて行った。お湯が入った桶を両手にふたつ運び込み、何度か往復してタライの半分までお湯を注ぐ。宿の女将が気を利かせて石鹸を用意してくれたのは、湿疹まみれの肌には有難い心遣いだったが、セシル本人にとっては果たしていかがなものか。

「おい、もう泣くんじゃねえ! ええい、洒落臭え! いい加減泣きやめってつってんだろ!」

 タライに入り、湯につかる全裸のセシルはずっと泣きじゃくっている。石鹸で身体を泡だらけにした小さな背中を前にしてエルウィンは桶を傾けた。湯を注いでセシルの身体から泡が流す。すると赤く染まった湿疹が点々と散らばる白い肌が現れた。

「こんなの嫌だ! 私が何をしたと言うのだ! 理不尽だ!」

 涙でタライが溢れるほど、セシルは泣きながら我慢に我慢を重ねて風呂に入っていた。これまでの従順な態度が嘘のように大声で喚いている。

「小僧っ、少しは大人しくしやがれ!」
「小僧ではない。セシルだ! それに私はまだ男ではない!」

「うるせえッ、いいかセシル。恨むなら、タライ風呂を恨め! 俺は水浸しの部屋で寝たくねえんだ!」

 泡を流さなければいつまで経ってもセシルは風呂から上がれない。二度三度、頭から湯をかけてやった。

 さすがに目隠しで桶のお湯を流す勇気はエルウィンにはなかった。ちょっとでも狙いを間違えれば床が水浸しになってしまう。もっと酷く狙いを間違えれば、せっかくの今夜の柔らかい寝床がびちょぬれになる可能性だってあるのだ。目隠しをするかしないか、利はどちらにあるかは明白だった。

「おい、まだ腕に泡が残ってるぞ。もう一度かけてやるから、さっさと流し落とせよ」

 タライの中で足を抱えるように座る真っ裸のセシルが耳から首まで真っ赤に染めて震えている。羞恥によるものか怒りによるものかはわからない。だが、その朱色に染まった肌を上から見下ろしながら、エルウィンはふふん、と鼻で笑ってやった。

「手伝ってやってるんだ、有難く思え」
「何がだ! 肌を見ないと言ったのに! 嘘つきめ! 恥を知れ! こんな屈辱、絶対に許すものか!」 

 セシルは喚き散らしながら、くるりとうしろを振り返った。涙目でキッとエルウィンを睨んでくる。いい眼をしてる。エルウィンはは笑いたくなった。

「このド助べえ野郎め!」

 すでに旋毛から足の爪先まで前も後ろもどこかしこも見られに見られまくっている裸体であったとしても、羞恥は留まることを知らない。噴き出す怒りも決して静まることはないだろう。

「ああ、いいぜ。精々恨めよ。ただし風呂は毎日入れるぞ! じゃねえと破傷風にでもなってみやがれ、余計な手間がますます増えるじゃねえか!」
「この横暴男! 私の純真を返せ! 信じた私が馬鹿だった! おまえの穢れた眼に我が身を晒さねばならないとは……。おまえなどにおまえなどに……うっく!」

 ギュッと拳を握りしめ、歯をキリキリと食いしばる。無防備な裸の子どもは屈辱に全身を震わした。

「こんな色気も糞もねえ餓鬼の裸を見て誰が興奮するかっつーの。まあ、眠りの卵の生体研究にはもってこいなんだろうがねえ。それにしても上も下もぺったんこだなあ。おまえ、男になるにしても下がこのまんまってのはまじいだろ。これじゃなあ、まるっきり女じゃねえか」

「この糞馬鹿変態野郎! いたいけな子どもの身体をどこまでも愚弄するつもりなのだ! おまえの下卑た目玉をくり抜いてやる! その緑の目玉を私に寄こせ! くべて灰にして墓場にばらまいてやる! 今からでも遅くはないっ! 底なし沼の底にでも棲みついてその穢れた魂を一生をかけて悔い改めよ! 今宵一度の汚点と言えど、それだけの大罪だと思ええええ!」

「あのなあ、言っとくけどなあ、ミッターヒルは五十日伺候中のおまえの風呂の世話、俺に押し付けたんだぞ。残念だったなあ、今宵一度の汚点じゃなくてよお」

 真っ赤を通り越して真っ青になるセシルだった。がくんと項垂れた顎からはぽたりぽたりと滴が小さな膝にしたたり落ちる。

「茜さす照る陽の君、射干玉の月詠の女神よ、この非道をなぜお許しになったか。貴様、覚えてろ! この無念、晴らさずになるものか!」

 セシルは爪が食い込むほど小さなふたつの拳をいつまでも強く握り締めていた。セシルにとって一生忘れられない屈辱の記憶はこうして幼い胸に深く刻まれた。

 はからずも宿の窓から漏れ響いたセシルの罵声とエルウィンの楽しげな笑い声は表通りの喧騒に紛れて、賑やかな一夜の彩りに花を添えたのだった。


   


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