ハーシェルたちの肖像
ウィリアム・ハーシェル年譜


Frederick William Herschel (1738-1822)

1738年 11月15日現ドイツ・ハノーファーに生まれる。ドイツ語のフルネームはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハーシェル。父イザーク・ハーシェルと母アンナ・イルゼ・モーリッツェンの子。兄弟姉妹10人のうち4人は早逝し、成人したのはソフィア・エリザベス(1733年4月12日生)、ハインリヒ・アントン・ヤコブ(1734年11月20日生)、フリードリヒ・ヴィルヘルム、ヨハン・アレクサンダー(1745年11月13日生)、カロライン・ルクレチア(1750年3月16日生)、ヨハン・ディートリヒ(1755年9月13日生)の6人。
1753年 父と同じハノーファー近衛連隊の楽団にオーボエ奏者として入団。
1757年 弟ヨハンとともにハンブルグ経由でイギリスに渡るがヨハンはまもなく帰国。ウィリアムはダーリントン公爵の楽団に入るためリッチモンドへ。
1762年 リーズへ転居。
1766年 ハリファクスに数か月住んだあと、12月9日にバースに移住。
1767年 オクタゴン・チャペル(現王立写真学会のショールーム)のオルガン奏者に就任。
1772年 ハノーファーに一時帰国、妹カロラインをイギリスに連れ帰る。
1773年 本格的に天文学に取り組み始め、望遠鏡の製作を開始。
1774年 バース郊外のウォルコット・ターンパイクに転居。
1775年 初の自作反射望遠鏡が完成。
1777年 バース中心街へ転居。音楽家として以上に天文学者・望遠鏡製作者としての評判が高まる。
1779年 バース市内で転居。王立協会会員・バース哲学協会設立者であったウィリアム・ワトソン博士の知己を得、月の山の高さの測定に関する論文を初めて王立協会に提出。
1781年 3月13日二重星のカタログを作成するための観測中に新天体を発見。ロシアのレクセル及びフランスのラプラスによって軌道が計算され、新惑星と判明。同年11月に王立協会からコプリーメダルを授与され、同年12月には会員に推挙される。
1782年 国王ジョージ3世及び王族に謁見、宮廷天文官に任命され年金200ポンドを受ける。前年の新惑星にウィリアム自身は「ゲオルギウム・シドゥス(ジョージの星)」と命名し、彼はこの名称を生涯使い続けた。天王星という名称はベルリン天文台のガレが提唱。 同年ウィンザー城に近いダチェットに転居。観測活動を続け、434個の新たな二重星のカタログを1784年までに王立協会に提出。また彼の製作する望遠鏡ほかの光学機器の優秀さが評判となり、王室からの年金を上回る収入源となる。スペイン、ロシア、オーストリアなど欧州各国の王室、ドイツなどの天文台などに売却。中国へも1台。
1785年 ウィンザー近郊のクレイ・ホールに転居。
1786年 スラウへ転居。1786年から1802年にかけ、「20フィート鏡」(焦点距離20フィート、直径18.8インチ)による観測結果をもとに2,500個の星雲を含む3つのカタログを発表。1786年から1789年にかけ「40フィート鏡」を建設。2回の失敗の後、3回目にして完成。反射鏡の焦点距離40フィート、直径48インチ、厚さ3.5インチ、重さ2、000ポンド。しかし再研磨の手間とあまりの巨大さにさほど使用されず。
1788年 未亡人であったメアリー・ピットと結婚。
1792年 3月7日に息子ジョンが誕生。
1801年 パリを訪問、ラプラスやナポレオンと面会。
1816年 ナイトに叙せられる。
1820年 王立天文協会設立。副会長となり、翌年会長に。
1822年 8月25日にスラウで死去。

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