
天の博物学
W. ハーシェル (1738-1822) は天王星を発見(1781年)した天文学者としてよく知られていますが、彼の天文学上の発見や功績はそれだけではありません。長さ40フィートの大きな反射望遠鏡を始め多くの望遠鏡を製作し、火星・木星の自転周期の測定や土星・天王星の衛星の発見といった太陽系の天体の観測、二重星と星雲・星団のリストの作成、銀河系の構造の研究など、近代天文学に多くの足跡を残しています。
しかし、ハーシェルは始めから天文学に関心を持っていたわけではありませんでした。生まれ育ったハノーバー離れてイギリスに渡った(1757年)後、音楽を学ぶテキストとして「和声学、音楽の哲学」を読み、その数学的記述に興味を持って、天文学や光学にも造詣が深かった著者スミス (1689-1768) の他の著作を読み進めていったことから天文学への道が開かれたのです。スミスの理論は、天文学と音楽をともに世界(宇宙)の美しい数学的調和の表現と考えるルネサンス思想の流れを汲んでいると思われますが、ハーシェルの時代にはこのような思想はすでに時代遅れでした。ハーシェルも1782年を最後に音楽活動を止め、天文学へ転向していくのです。
ハーシェルの生まれる3年前(1735年)に、スウェーデンの植物学者C. リンネ (1707-1778) の「自然の体系」が出版され、植物分類学を拓くとともに、全世界を探求して自然を観察し記録しようとする博物学の大ブームを引き起こしました。例えば、イギリスの博物学者J. バンクス (1743-1820) は海外から約7,000種の植物を導入して、現在でも植物学の世界的中心地となっているキュー植物園を整備しました。ハーシェルは、多様な天体が様々な現象を起こしている宇宙を観測することを、多くの種類の植物が生長し枯れていく植物園の調査になぞらえています。これは、彼の天文学が18世紀の思潮を特徴づけた博物学の精神に同調していたことを示しています。博物学者が世界中の珍奇な動植物を観察し収集し、スケッチを描き分類を試みたように、ハーシェルもまた観測できる限りの天体に望遠鏡を向け、スケッチを残しリストに記したのです。イギリスから観測できない南天の観測は息子ジョンに引き継がれ、親子2代で作成された膨大なリストは後継者の手によって7,840個の星雲と星団を収めたNGCカタログとして完成しました。
ハーシェルは1794年に「太陽の光と熱を発する層の下には厚い雲があり、さらにその下では地球のような表面があって植物が茂り太陽人の住む世界がある」という説を発表しました。この説を荒唐無稽と片づけることは簡単ですが、むしろ地球上のあらゆる場所に様々な動植物が生息し様々な人間が住んでいることに驚嘆した博物学の精神を宇宙に敷衍したものと言えるでしょう。そのような賑やかな宇宙への素直な好奇心が、ハーシェルの天文学への情熱を支えていたに違いありません。
この小論は日本ハーシェル協会によるものではなく、ウェブマスターが独自に書いたものです。