
科学の時代、そして博物学の果て
J. ハーシェル (1792-1871) は父ウィリアムと叔母カロラインの影響と期待を受けて天文学の道を進み、彼らの仕事を継承し完成させました。ケープタウンでの南天観測 (1834-38) など、父ウィリアムの作成した二重星や星雲・星団のリストに多くの天体をつけ加えたほか、初期写真術にも深く関わり、写真技法からその基礎理論となる光学・化学まで、様々な業績を残しています。彼もまた、事物を観察し記録する視覚への情熱を父から、あるいは時代から受け継いだと言えるでしょう。
J. ハーシェルの前半生は父ウィリアムに比べはるかに活動的でした。イギリス科学界の改革運動に取り組んだり、当時の貴族子弟の習慣に従って故郷イギリスを離れ半年間に及ぶヨーロッパ大陸周遊旅行に出たり(1824年)、父ウィリアムの残した長さ20フィートの望遠鏡を携えてのケープタウン滞在など、実に幅広く活躍しています。そして彼につきまとった「かのW. ハーシェル卿の子息」という評判に恥じないだけの才能を常に発揮し続けました。
ハーシェルは若い頃からドイツの博物学者A. フンボルト (1759-1849) を始め科学界の大先輩たちとの交流を深め、彼自身も大著「天文学概観」(1849年)などを通して次の世代の科学者に大きな影響を与えました。 1836年、ビーグル号の航海に参加していたC. ダーウィン (1809-1882) がケープタウンのハーシェル邸を訪ね、科学についての談義を交わしました。ハーシェルとフンボルトの著作を愛読していたダーウィンは「種の起源」を書き上げる(1858年)と、ハーシェルにも進呈しています。
「種の起源」に始まる進化論こそは、博物学が明らかにした自然界の驚くべき多様性の原因を、淘汰という自然そのものの自律的作用に求めることで、神の存在を必要としない自然観を確立した革命的理論でした。神の被造物としての自然を賞玩した18世紀の博物学は、19世紀になってその果てに進化論を生み出し、科学と宗教を切り離したのです。
J. ハーシェルは「哲学者」とも「科学者」とも呼ばれて時代の子としての栄誉を一身に受け、このような科学の転換の歴史に立ち会っていたのです。
この小論は日本ハーシェル協会によるものではなく、ウェブマスターが独自に書いたものです。