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![]() 「過去の寓意」 (左から)「忘却」に扮するイサベラ マリア 「知恵」に扮するジョン |
![]() 「現在の寓意」 (左から)「工業」に扮するアメリア カロライン(ゴードン夫人) 「献身」に扮するフランシスカ |
![]() 「未来の寓意」 (左から)「希望」に扮するコンスタンス ローズ 「忍耐」に扮するジュリア |
次にウィリアム・ジェームズの末弟ジョンについて。彼が生まれたのは1837年10月29日。すぐ上記のアレキサンダー・スチュワートと同様に南アフリカ滞在中でした。 翌年父母らとともに母国イギリスヘ、そして学校を終えて早々にジョンは長兄のウィリアム・ジェームズとともにインドで政府の仕事に就き、1856年にベンガル地方の地理調査の実施を任務とした 王立ベンガル技術団の技官となり、「大三角測量」に従事しました。
1867年にメアリー・コーンウォーリス・パワーと結婚。彼は官職のかたわら天文学にも深い関心を持ち、南天の星と星雲のスペクトル 測定などに力を注ぎ、多くの論文を書いています。1868年と1871年には王立学会の委嘱を受けて皆既日食を観測し、太陽のプロミネンスの スペクトル中に3本の輝線を同定しました。ジョンは太陽成分研究の基堪を築いたと評価されました。インド滞在中の1871年に王立学会会員、 翌年には王立天文学会会員に選ばれ、またカルカッタ大学の評議員に加わりました。さらに祖父ウィリアムの偉業「恒星の比較光度の改訂」を、1世紀前に着手された同じ部屋で完成しました。 1859年から1886年の退官まで大三角測量局の副長官でした。
1888年、すでに妻に先立たれていたジョンはアレキサンダー、イサベラそれにフランシスカと一緒にケント州ホークハーストから スラウの古巣オブザヴァトリー・ハウスに戻り、晩年は身体を痛め、献身的な妹フランシスカの世話になりながら1921年に亡くなりました。
日本ハーシェル協会ニューズレター第44号より転載
[9] 1865年末のクリスマス・カードとジョンの第7子=四女マリア・ソフィア
このカードの主題は「家族の旅行−マリアとヘンリー・ハードキャッスルとの結婚のために蒐集。赤ちゃんはマーガレット・ハーシェル。 描き手はマチルダ・ローズ」です。図柄は簡単には説明できないほど複雑で、ここではそのごく一部分−左中央部をお目にかけます。サインは クリスマスのほうで、10人中トップの3人(J. F. W. ハーシェル、ジュリア・ハーシェル、ジョン・スチュワート)のみ読み取れましょう。円内は家族旅行をした南国のようです。
四女マリア
マリア・ソフィアは父ジョンらが4年に亘る南アフリカ滞在から帰国し、スラウの懐かしいオブザヴァトリー・ハウスに落ち着いて 間もなく、1839年に生まれました。すでに何回か記したように、翌1840年4月一家はホークハーストのコリングウッド邸に移り住みました。1865年、26歳のM. ソフィアは法廷弁護士ヘンリー・ハードキャッスル (1840-1922) と結婚、4男4女(ジョゼフ、ジョン、アレキサンダー、ヘンリー、フランセス、アリス・ルイザ、 ミラ・フランシスカ、エレノア・コンスタンス〈末娘で1879年生まれ〉)をもうけました。
(長子を後にして)三女のミラ・フランシスカ・ハードキャッスルは1871年5月生まれで、歴史家マックスウェル・フレイザー (「スラウの歴史」というA4、173ページの優れた著書がある)によれば、オブザヴァトリー・ハウスに遺されたハーシェルー族の資料の 保存責任者となりました(我が協会には彼女の書いた同ハウスの修理などに関する小論文があります)。
長男ジョゼフ・アルフレッド(1868年8月27日-1917年11月)は王立天文学会の会員に選ばれ、理事を2期務めています。 彼は月の表面にあるさまざまな模様の位置を測定し、またフランクリン・アダムズが撮った一連の写真から星雲の分類を進めました (ジョセフが1900年にイタリアはライギリアのヴィラ・キアッパで月のプラトー山を描いている写真のコピーがあります)。 1899年8月にテレサ・セリナ・クライヴ=ベイリー(1866-1953) と結婚、2人の間には1男1女が生まれました。
ジョゼフの長男モーリス・アルフレッド・クライヴ (1904-1963) は、1936年にマーガレット・ハードキャッスル=アシュボーン (1912-) と結婚、その長女デボネアはアイルランド・スライゴの富豪アレキサンダー・ロバート・ヒュー・パーシヴァルと結婚しました。 2人の間には1男2女(アレキサンダー・モーリス、セレナ・アン、シャーロット・フィリパ)があります。モーリスつまりパーシヴァル夫人の 実父は1963年のクリスマスの朝、教区委員としての教会での勤めの最中に非業の死を遂げました。59歳の若さでした。
わがハーシェル協会で1989年夏にハーシェル・ツアーを組んでアイルランドに足を伸ばした主要目的は、パーシヴァル家を訪ねること でした。このシリーズを書くとき、特に今回使った情報は同夫人秘蔵の写真と絵を含む原資料によるところが大きく、ここに改めて 紙面を通じお礼申し上げます。
日本ハーシェル協会ニューズレター第45号より転載