[3] "The Ball - clock & pictures of the months, no family allusion (1851)" と長女カロライン
1851年末のカード(部分)
主題を訳すと「舞踏会−時計と毎月の絵、家族のことはなし」。カードのトップ真ん中に12時を指した時計、周りに天使など16枚の絵。時計の下に1852の大きい数字、周りに "on this first day of January 0h0m1s the year of Our Lord." と記されています。ジョン夫妻、21歳の長女カロラインから5歳のフランシスカまで11人の子(末っ子コンスタンスはまだ生まれていない)を含め、87名もの署名が数えられます。こんなに多くのサインのあるカードは他にありません。クリスマスでなく大晦日に作られた模様です。
長女カロライン・エミリア・メアリーは1830年3月31日生まれ。ジョンの叔母カロラインは1822年(ウィリアムの死)以後ハノーバーで余生を送っていましたが、甥ジョンに長子誕生の知らせを聞き、こう書き送りました。"So I am to be a godmother! With all my heart!"
1833年にジョンが一家総出で南アフリカに出発したとき、最年長の子が3歳のカロラインでした。帰国後の1840年からコリングウッドで学究生活を計画したジョンでしたが、断り切れない様々な公務のためにロンドンとしばしば往復、1850年前後はハーレー街に長期滞在を余儀なくされました。孤独の父を慰めるために長女カロラインは次女のイサベラと一緒にハーレー街を何度も訪問したといわれます。
C. E. メアリーは、1852年のカードの主題 "Marriage of C. E. M. Herschel ..." にあるように1852年12月2日または9日にアレキサンダー・ハミルトン・ゴードンと結婚しました。アレキサンダーは第4代アバディーン伯爵の次男でヴィクトリア女王の夫君アルバート公の侍従。その妻となったカロラインも女王の側に30年余も仕える身分となりました。彼女は絵画の才能に恵まれ、肖像写真家J. M. キャメロンが残した1850年頃の父ジョンの写真と自らの記憶をもとに、父の死後に見事なポートレイトを描いています。ケープタウンを晩年に再訪し、1898年に写したフェルドハウゼン邸の写真とともに、貴重な記録といえましょう。
日本ハーシェル協会ニューズレター第38号より転載
[4] "Marriage of C. E. M. Herschel to Colonel Ale. H. Gordon, & W. J. H. going to India (1852)"
1852年末のカード(部分)
この主題を少し意訳すると「長女カロラインがゴードン氏と結婚した。三男ジョンはインドに行く予定である」。カロラインの結婚については前項に記しました。子ジョンの外国行きについては後で触れます。さて、このカードの絵は天使と時計をジョン夫妻と子供たちが囲んでいる人物像です。上半分には "We the undersigned do hereby solemnly testify that we were all joyfully assembled 12h0m0s P. M. on Christmas day A. D. 1852."とあり、署名者は16名。内訳はジョン夫妻、カロラインを含む11人の子(12番目のコンスタンスはまだ生まれていない)、長女の夫A. H. ゴードン、それに友人と思われるM. E. Rufenacht, E. B. Schwarbの2名です。最も小さいフランシスカは6歳。同嬢のサインはたどたどしく微笑ましいペンの運びです。カードの下半分には"likewise at 12h0m0s P. M. on the 31st of December, A. D. 1852." と読めます。署名は13名で、これはジョン自身とゴードン夫妻が抜けたため。どれも読み取りやすいサインでした。
八女フランシスカ
次に第2子(次女)イサベラたちについて。イサベラは八女フランシスカと同様に入手したカードすべてにサインがあり(ということと直接関係はないのでしょうが)、ともに一生独身でした。父母亡きあとの1888年にこの姉妹は兄弟2人とともにコリングウッドを引き払い、スラウのオブザヴァトリー・ハウスに戻りました。兄弟というのは生涯結婚しなかった次男アレキサンダー・スチュワートと妻に先立たれた三男ジョンです。アレキサンダーは1866年のペルセウス座流星群を始め、流星のスペクトル観測に貢献、ジョンは1853年に16歳という若さでインドに渡り、のち王立ベンガル技術団の技官として活躍したのでした。
イサベラはスラウに帰った5年後に62歳で死去、一方フランシスカは大叔母カロラインの血を引いたかのように自己を捨てて身内に尽くすタイプで、年老いて病気勝ちな2人の兄を献身的に世話し、最後を看取りました。彼女は1916年に王立天文学会会員に選ばれ、その6年後の祖父ウィリアム死後100年を機会に科学者たちの集いを計画し遺品の展示会を開き,亡くなったのは86歳という高齢でした。
日本ハーシェル協会ニューズレター第39号より転載
ハーシェル家の子供たちとクリスマス・カード(4)
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