ハーシェルたちの肖像
カロライン・ハーシェル年譜


Caroline Lucretia Herschel (1750-1848)

1750年 3月16日現ドイツ・ハノーファーに生まれる。父イザーク・ハーシェルと母アンナ・イルゼ・モーリッツェンの子。兄弟姉妹10人のうち4人は早逝し、成人したのはソフィア・エリザベス(1733年4月12日生)、ハインリヒ・アントン・ヤコブ(1734年11月20日生)、フリードリヒ・ヴィルヘルム(1738年11月15日生)、ヨハン・アレクサンダー(1745年11月13日生)、カロライン・ルクレチア、ヨハン・ディートリヒ(1755年9月13日生)の6人。
1772年 兄ウィリアムに連れられてイギリス・バースへ移住。それまでは教育も受けさせられず、家事手伝いの日々だった。バース到着後、ソプラノ歌手としての訓練を受ける。
1777年 ウィリアムの工房で反射鏡の研磨作業を手伝うようになる。さらに観測記録の筆記などを手伝う。
1782年 同年以降、ウィリアムの観測活動の補助に対し50ポンドの年金を受ける。また自身で彗星の観測を始める。昼間はいまだ独身のウィリアムのための家事と反射鏡の研磨作業を行っていた。
1786年 ウィリアムとともにスラウへ転居、彗星と星雲の観測を続ける。1795年11月に観測した彗星は1819年にエンケにより軌道が確定され、エンケ彗星と命名された。
1788年 ウィリアム結婚。以後は彼の論文の清書、計算作業、反射鏡の製作、観測作業に明け暮れる。
1822年 ウィリアム死去、ハノーファーへ戻る。ガウス、フンボルトらの訪問を受ける。
1828年 王立天文協会からゴールドメダルを授与される。
1835年 王立天文協会会員になる。
1838年 ダブリン科学アカデミーに誘われる。ウィリアムの息子ジョンが、その子ウィリアム・ジェームズとともにカロラインを訪問。叔母と甥の最後の対面となった。
1846年 フンボルトの推薦によりプロシア科学アカデミーにゴールドメダルを授与される。
1848年 1月9日に98歳で死去。ガルテンゲマインデの墓地(ハノーファー市マリエンシュトラッセ35番地)に埋葬された。

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