Letters to Webmaster 2006


『ビクトリア時代のアマチュア天文家』を読んで

中 川 浩 一

 〔…〕私の天文学にかかわる関心は緯度・経度の測定にかかわる位置天文学、とりわけクロノメーターの発明史で、きわめて限られた事項ゆえ、ビクトリア朝期の天文学一般ではないのです。そのため読みが浅いと叱られるだろうこと覚悟で書いてみます。  

 ビクトリア朝でのアマチュア天文家と聞いて私がすぐ思いつくのはジェームズ・ナスミスです。位置天文学とは多分関係ない(天文家としての業績を知らないから)のになぜ?というと、彼の実業界当時に強く心をひかれるからです。ジェームズ・ナスミスが資産をなしたナスミス・ウイルソン工場は、日本に多くの蒸気機関車を輸出しました。しかし大型の幹線を走るものではなく、ローカル線で、今日いうところの鈍行列車を曳いたり、河川の堤防工事に使われたりするような存在でした。明治39(1906)年に「鉄道国有化法」によって国有鉄道が発足するまで、マイナーな存在であった政府の鉄道、官設鉄道でA8とよばれた中型の機関車は、そのかなりがナスミス・ウイルソン工場から購入されたのです。使い勝手のよさから、昭和10年代まで全国的に使われました。  

 パトリクロフトにあった工場の建物は、1980年に私が世界最初の公共交通用蒸気鉄道(1830年開業)のリバプール=マンチェスター鉄道の遺構を見に行ったときも、外壁にナスミス・ウイルソンの文字をとどめていました。  

 ジェイムズ・ナスミスがエンジニアの世界から身をひいてからアマチュア天文家としてどう生きたのか?調べる手だてもつかぬままでしたので、訳書は大変ありがたいプレゼントでした。  

 日本にも鉄道車両工場で産をなし、リタイアしてから趣味の世界(天文家ではありませんが)に生きた平岡煕〔ひろし〕という奇特な人がいます。幕臣の家に生まれ、維新後すぐにアメリカに渡り、鉄道車両工学を修め帰国。官設鉄道のエンジニアとして働く中で、アメリカで身につけた野球をスポーツとして紹介し、日本での野球の父になりました。しかしリタイアしてからの彼は遊芸の世界に生きたのです。  

 ジェイムズ・ナスミスの足どりをたどるため索引を使う中で、ヴァッサーの文字が眼に入りました。ヴァッサーはアメリカ東部の伝統に輝く女子大学。それがななで天文学に?イギリスにもヴァッサーがある?と思ってページをくったら、アメリカの女流天文家がヴァッサー・ウーマン・カレッジを拠点にしたとはオドロキでした。ヴァッサーは一般教育の牙城、特定の専攻を定めず女性に広い教養を培うのが目的とは初めて知りました。それでユニヴァシティではなくカレッジなのでしょう。  

 実はヴァッサーには明治4年、米欧視察の外交団にともなわれて渡米した5人の女子留学生の一人、山川捨松が学び、本科生として卒業。日本最初の大学卒業女子となるのです。帰国後、大山捨松夫人として鹿鳴館の花となった人がリベラル・アーツの大学ゆえ、恐らくは天文学の講義を受け、ひょっとすると日本人女性で最初に天体望遠鏡に接したか?と考えると、これはたいしたロマンです。  

 ビクトリア朝のレディの素養は植物学を修めることだとか。ロンドンのキュウ・ガーデンズには世界各地で植物のスケッチをし、その作品を個人のコレクションとして絵画館として残した人もあるのですが、ビクトリア朝のアマチュア天文学アメリカだけでなく、イギリスにもなんらかの足跡を残したことが読みとれるか?時間をかけて探ってみようと思います。

(06年12月21日消印)

(管理人より… 昨年末、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』の感想が、中川浩一先生(茨城大学名誉教授)より寄せられました。交通地理学や鉄道史の研究で著名な中川先生ならではのご感想です。盛りだくさんの内容の本だけに、いろいろな角度から読み込むことができる、ということ に改めて気づかされました。)  

 


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