玉電回想!?



玉電の廃線跡や関連するものを紹介しています。
一覧
2003年 3月世田谷郷土資料館新収蔵品展、デハ70形・80形の鉛版などの展示
2003年 3月宮の坂区民センター江ノ電から里帰りした601号(世田谷線時代デハ87号)
2003年 3月三軒茶屋かつての二子玉川方面と下高井戸方面の分岐付近
2004年 3月電車とバスの博物館『いもむし電車』、ペコちゃんと親しまれた204号
2005年 2月砧線廃線跡砧本村のバス停、廃線跡を利用した緑道
2005年 4月用賀駅跡かつての玉川線用賀駅跡の記念碑

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電車とバスの博物館にて

電車とバスの博物館にはかつての人気者デハ200形、デハ204号が保存されています。
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デハ204号 2004年3月17日撮影 玉電の保存車はデハ87号(宮の坂区民センター)とここ電車とバスの博物館のデハ204号だけです。この204号は1955年(昭和30年)に東急車輛で製造され、連接部1軸台車、玉電では初の高性能でした。また卵型で独特の車体は人々の人気を集め、『いもむし』や『ペコちゃん』、『タルゴ』などの愛称がありました。1969年(昭和44年)玉川線廃止後に多摩川園で保存され、その後高津にできた電車とバスの博物館に保存されました。2003年に博物館が高津から宮崎台に移転し現在に至っています。

上の写真の反対側 2004年3月17日撮影 運転台 2004年3月17日撮影 車内 2004年3月17日撮影
反対側の正面デハ204号 運転台デハ204号 車内

 電車とバスの博物館にはデハ204号以外にも、玉電池尻の電停、かつての玉電の車庫・工場で、2002年秋まで東急バス大橋営業所にあった玉川電気鉄道の社紋、砧線のサボなどの展示もされています。

電車とバスの博物館の詳細は
こちら

砧線廃線跡

 砧線は1924年(大正13年)に多摩川の豊富な砂利を運ぶために開通しました。1969年5月10日に玉川線と共に廃止になりました。廃線跡は一部緑道として整備されています。

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二子玉川〜中耕地
2005年1月31日撮影 プレッセの裏側 かつて玉電の乗り場だったところは、東急ストアを経て現在はプレッセ二子玉川店になっています。写真はプレッセの裏側の公道から撮影したものです。右側に写る建設中のマンションはかつて富士見会館があった場所です。
2005年1月31日撮影 玉川高島屋東館の裏側 玉川高島屋東館の裏側です。地図や「玉電野走った街今昔」などには綺麗な曲がった道が書かれているのですが、今は駐車場になってしまったようで柵しか残っていないようです。
2003年10月5日撮影 旧二子橋の親柱 現在の二子橋の姿になる前の親柱が保存されています。この二子橋は玉電が溝の口へ延伸する際に、玉電が橋の建設費を一部負担していました。玉電の遺産の1つです。昭和41年までこの橋を大井町線が走っていました。その後電車の専用橋ができ現在に至っています。更に大きい画像です。
2003年10月5日撮影 中耕地駅跡 二子玉川園を出て最初の駅が中耕地駅です。
写真はかつての中耕地駅跡です。二子玉川園のカーブから国道246号線を渡ってこの辺りから吉沢にかけて一直線に歩道・緑道として整備されています。駅のイラストの描かれたタイル電車のタイルなどがあります。

中耕地〜吉沢
2003年10月5日撮影 廃線跡の案内 中耕地駅跡からしばらく歩くと、廃線跡の案内があります。左側には明治時代の玉川の写真と、玉電と砧線沿線の案内が書かれています。左側の拡大画像。右側はこの緑道と谷川緑道の地図です。右側の拡大画像
2005年1月31日撮影 線路跡(?) 少々分かり辛いかもしれませんが、この緑道のタイルは線路に似せてあります。写真の辺りから中耕地にかけて途中何度か途切れていたり、色が薄かったりしていますが続いています。他にも電車のイラストの描かれたマンホールなどがあります。イラストはデハ20形と改軌後の単車です。
2005年1月31日撮影 吉沢のカーブ かつての吉沢駅近くのカーブです。多摩堤通りの手前で緑道は終わります。多摩堤通りを渡ったところに砧本村行きのバス停があります。その向かいが吉沢駅でした。今はマンションになってしまいましたが、昔の東急の社紋が描かれた杭が残っています。保存状態はあまり良くありません。撮影した日は、まぶしくて満足に撮影できませんでした。

吉沢〜砧本村
2003年7月5日撮影 野川橋梁 吉沢駅を出て直ぐに野川を渡ります。この野川橋梁は、昭和30年代後半に架け替えられ現在のプレートガーダー橋になりました。砧線廃止後、道路橋として現在に至っています。2005年の様子はこちらです。なにやら河川敷の工事でしょうか?自動車教習所の道も様変わりしています。
2005年1月31日撮影 大蔵駅跡周辺 砧線が開通した当時、吉沢から砧本村の間には2つの駅がありました。吉沢よりから伊勢宮河原、大蔵とありました。伊勢宮河原は近くに小さな祠があったそうですが、台風による洪水で流されてしまったそうです。「玉電の走った街今昔」に1940年(昭和15年)の地図に記載されていますが、いつ廃止になったかさえも分かりません。大蔵は砂利の採掘場がありました。大蔵駅はこのあたりです。
2005年1月31日撮影 砧本村駅跡 砧本村駅の跡地は公園になっています。ホームのあった場所はちょうど写真の左側奥にある建物のある辺りから砂場の辺りです。反対側、公園の入り口の写真、公園の奥には鉄道用の柵があります。柵の向こうには駅の売店がありました。今は写真右側の駐輪場と化した場所です。
2003年7月5日撮影 砧本村駅の名残 昔の駅前広場はバス停として使われています。バスはここで方向転換して二子玉川駅へ戻っていきます。バス停の屋根は、駅の屋根の一部をそのまま移築して使用しています。駅前広場の西側は駒沢大学玉川キャンパスのグラウンドがありますが、かつてここにはわかもと製薬の工場がありました。玉電が廃止される直前の1960年代後半(昭和40年代)に相模に移転しました。

 砧本村から出ているバスは現在、玉06系統二子玉川駅ー砧本村だけになってしまいましたが、昔は渋谷や目黒行きなども出ていました。やはり閑静な所だけに電車代行のこの系統だけになってしまいました。それでも緑道や宮の坂の保存車など世田谷と玉電の結び付きが強かったことが伺えます。
東急の電車とバスの博物館や世田谷郷土資料館にも資料はありますが、まだあちこちに散らばっている気がします。それでもまったく資料館や博物館の無い都電より恵まれているのでしょうか…。


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