13
別れ
"放っておけ"
ゴットフリーの一言で、タルクはジャンを彼が作った山の上に残さざるをえなくなった。
隊長という役職や敬語などのこだわりは、もう、あまり感じなくはなっていたが、タルクにとって
ゴットフリーは、やはり主であることにかわりはなかった。 黒馬亭 のまわりには民家はほとんどない。それが幸いしてか、黒馬亭は海の鬼灯からの業火を免 れ、元のままの佇まいを保っていた。
「伐折羅がいないわ」
何となくそんな気がしていたのよと……天喜はしょんぼりと首をうなだれる。黒い鳥に乗って
去っていった伐折羅の後姿が忘れられない。もう二度と伐折羅と会えなくなるかもと……そん な予感があったのだ。
黒馬亭で天喜たちを出迎えたのは、先にもどっていたサームとミッシェだった。
「ザールはどうした?」
「焼け残った屋敷の部屋で寝こんでいるわ。紅の花園での出来事がよっぽど、ショックだった
みたい」
そりゃそうだろうと、タルクは思った。魔王になりかけたゴットフリーも然り、首のない白妖馬を
見た時など、豪胆なタルクでさえも背筋が寒くなった。
心配ばかりが心を占めていたが、天喜は敢えて明るく笑った。
「とにかく、みんな、疲れたでしょう。お茶をいれるわ。伐折羅だって、その内帰ってくるでしょう
から」
そうだなと、相槌を打ちかけて、タルクはおやといった顔をする。
「彼の分はいらないみたいだ。泥のように眠り込んでいる」
窓辺のソファに沈みこむように、寝息をたてていいるゴットフリー。
「いろいろな事がありすぎたからな。俺もなんだか眠くなってきた。一息ついたら、みんなも一眠
りした方がいいぞ」
「とりあえず毛布だけでもかけておかないと風邪をひくわ」
あの炎馬を一人で相手にしてきたんだもの、くたくたに疲れているんだわと、天喜はゴットフリ
ーの事が不憫に思えてきた。毛布をそっと体にかけながら、その横顔を垣間見る。
初めて見たゴットフリーの無防備な表情に、どきりと勝手に心臓が高鳴った。それを周りに知ら
れまいと、平静を装うのに天喜はえらく苦労をした。
黒馬島の朝は、静まりかえっていた。
鳥の囀りでさえも聞こえてはこない。ただ、小波の音だけが疲れきった島に響きわたり、子守
唄となって黒馬島を癒していた。
"ジャン、大丈夫?少しは落ち着いた?"
優しく頬をなぜてくる風にジャンは、目をこすりながら、笑みを浮かべた。
「霧花か?うん。泣くだけ泣いたら、ずい分、すっきりしたみたい」
ゴットフリーの心が流れ込んできて、涙が止まらなくなってしまった。でも、今はずいぶんと落
ち着いて、静かな時間の流れを感じる。奴も疲れて眠ってしまったのかもしれない。
「あいつは意地っ張りだからな。でも、僕が泣きたくなったのは、あいつのせいばかりじゃない
……」
"えっ……?"
「もう一つ、とても強い悲しみが僕の心に流れてきて、それがゴットフリーの心と一緒になって、
いてもたってもいられなくなってしまったんだ」
あれは誰の心だったんだろう?胸を裂かれそうな切ない思い。
自分が作り出した山の上から見下ろした黒馬島の一角は、哀れに焼け焦げて惨めな姿をさ
らけ出していた。だが、朝日に照らされた黒い大地では、緑の牧草や無事に残った家々の屋 根が、再び生気を取り戻したかのように明るく輝いていた。
「僕たちは、そろそろこの島を出なくてはいけないな。黒馬島の事は、まだ知りたい事が山ほど
あるが、レインボーへブンを探す旅をいつまでも、中断しておくわけにはゆかない」
"ジャン……あなたが感じたもう一つの心って……"
「さっき言った事?……もういいんだ。だって、焼けおちた町や、海の鬼灯に化身したガルフ島
の人々、本当に沢山の悲しみが、この島を覆っていた。あれは、きっと、そういう人々の気持ち だったと思うから」
ジャンの体を蒼い光が覆いだした。
「この山をきちんと元にもどしておかないと……黒馬島が怒るんだろうな。けど、天の道は、か
けた力が大きすぎて修復不可能なんだけどね」
きまずそうに笑顔をつくる。すると、ジャンが乗っていた山は元の位置に収納されるかのように
静かに地面に吸い込まれていった。
"ジャン、あなたが感じたもう一つの悲しみは、きっと、伐折羅の心。誰にも触れられない者なら
ば、諦める事もできるでしょう。でも、あなたとゴットフリーのその繋がりが、あの子を苦しくさせ ているのかもしれない。伐折羅……何か悪い予感がする。私の思い過ごしならばいいのだけ れど……"
霧花は、ジャンの力の大きさに改めて驚くと同時に、ほのかに感じる一抹の悪い予感をぬぐい
されないでいた。
"俺はあんな風に泣いたりしない……"
ソファで寝入りながら、ゴットフリーはジャンの姿を夢の中で思いおこしていた。まるで小さな子
供のようなジャンの姿が、自分の子供時代と重なった。
子供の頃から泣けない立場にいた自分。それでも、堪らなく悲しくなってベッドの中ですすり
泣いた時がある。孤独だった。とっくに忘れていた苦々しい記憶が蘇ってくる。
水蓮……
今、思ってみれば、彼女だけが子供時代の俺を癒してくれた。だが、レインボーヘブンへの
啓示と剣を委ねて、あの女はどこへ消えてしまったのか。
夢が薄れ出した時、ゴットフリーが寝ていたソファ上で、窓をたたく音がした。不意に途切れ
た映像とともに、彼ははっと目を覚ました。
「ゴットフリー……」
「伐折羅」
窓越しに見えた漆黒の瞳。ゴットフリーは、ソファの上に身を乗り出すように窓を開けた。
「無事だったんだな。そんな所にいないで中に入って来い」
だが、伐折羅は首を横に振る。
「僕はもう黒馬亭には戻らない。でも、ここを出る前に、あなたと話がしたくて……ちょっとでい
いから、外に来てくれる?みんなに気付かれないように」
タルクは窓とは反対側の床で布団に包まって大いびきをたてている。天喜たちも自分の部屋
で寝入っているのだろう。わかったと、ゴットフリーは立ちあがった。
伐折羅とゴットフリーは、海岸へ向かう道を歩いていった。遠くの沖には、海に大きく飛び出し
た黒い岸壁が見えていた。下にはゴットフリーたちが乗ってきた船が泊めてある。その場所が 彼らが黒馬島に関わった最初の場所だったのだ。
突然、船の前に現われた黒い大地。だが、今となっては、偶然らしく装われていた何もかも
が、俺たちを迎えるためにお膳立てされていたのだ。
誰が、一体、何のために?
ゴットフリーは、苦々しい思いで、先を行く伐折羅の後を追った。海岸を半分ほど来た時、伐
折羅は不意に後ろを振向き、こう言った。
「僕は西の山に行こうと思う」
「西の山?父親の事はタルクから聞いたが、お前、その跡を継いで盗賊たちの長になるつもり
か……」
「さすがに察しがいいね。大丈夫だよ。奴らは僕の命令には逆らえない。それに話してみると、
まだ父の忠臣だった者が沢山いて、僕に肩入れしてくれているんだ。闇の戦士と共に僕は黒 馬島を守ってゆく。それが父の遺志なのだから」
「天喜はどうする?お前の帰りを首を長くして待っているぞ」
「学校へ帰ったとでも行っておいて。今までだって、半年に一度ほどしか、家には戻らなかった
んだ。サームとザールをうまく言い包めて、そういう事にさせるつもりだ」
「……ならば、一度、きちんと会って、別れを言ってこい」
伐折羅はゴットフリーを見据えて、透き通るような笑顔を見せた。
「知ってる?そういう時のあなたの灰色の瞳は、澄みきって心の底まで染み入ってくる。僕はそ
れが好きだった……」
突然、伐折羅はゴットフリーに抱きつくと、大粒の涙を流しだした。
「もう、行ってしまうんでしょ?僕はこの黒馬島から離れられない。どんなに一緒にいたいと言っ
ても、あなたがレインボーヘブンを探している限り、それは叶わぬ夢なんだ」
ジャンにしても伐折羅にしても、こう明け透けに泣かれると、どう反応していいものか、わから
なくなってくる。ゴットフリーは、伐折羅に抱きつかれたまま、しばらく、宙を見つめていた。
「天喜は言った。いつか、レインボーヘブンに行ってみたいと。伐折羅、お前は知っていたの
か?母親がレインボーヘブンの欠片、空だった事を」
「……」
「知らなかったのか。お前と天喜はレインボーヘブンの空の血を二つに分けて受け継いでい
る。夜叉王の伐折羅と蒼天の天喜。だから、俺は約束する。いつかレインボーヘブンを見つけ たら、必ず、二人を迎えに来ると」
「だめだ。僕は黒馬島の守り手なんだ……。一緒には行けないよ」
「ならば、黒馬島ごと、レインボーヘブンにくればいい」
ゴットフリーにしがみついて泣いていた伐折羅は、その言葉にえっと顔をあげた。
「この島の御神体の黒馬は、なぜ俺の元にやってきた?闇馬刀も然りだ。そして、海の鬼灯
は、この島で俺を待っていた。俺を闇の王にして、黒馬島に君臨させる。そして、この島を根城 に、海の鬼灯たちは領土を広げ、破壊と破滅の王国を作り上げようとしていたんだ。なぜ、奴 らは黒馬島にこだわった?レインボーヘブンの女神、アイアリスは言った。彼女に見捨てられ、 恨みを残して海の鬼灯に変化した盗賊たち……俺は、その末裔、その長なのだと」
「それは、どういう事?……僕には意味がわからないよ」
「この黒馬島が俺の故郷。多分、かつてレインボーへブンを襲撃した盗賊たちは、黒馬島から
やってきたんだ。あの西の盗賊たちは、直系ではないにしても、その流れをくむ者たちだ。黒 馬島は、自分で移動を繰りかえす島なのだろう?断言はできないが、この島とレインボーヘブ ンはどこかで繋がっているぞ。レインボーヘブンの七つの欠片、きっと、その中にその秘密を 知る者がいる。俺にはそんな気がしてならないんだ」
「だから、レインボーヘブンを見つけたら、黒馬島ごと、僕たちを迎えに来ると言うの?」
伐折羅は半信半疑でゴットフリーに問うた。
「必ず、迎えに来てやる。それを可能にしてみせる。俺は、どちらかというと、レインボーヘブン
より黒馬島側の人間のようだしな」
「そんな話は信じられない……とても、信じられないよ」
一瞬、黙り込むと、伐折羅はゴットフリーの腕にまた、拗ねるように顔をうずめた。
「約束できる?僕にあなたは、何か約束の印を残してくれる?」
「約束の印……俺は天喜からあの鳥を託されている。そして、天喜には、俺の金のロケットを
預けてきた」
「鳥……天喜はあの白い鳥をあなたに渡したんだね」
「あの鳥は、同時に伐折羅の黒い鳥でもあった。そして、あの鳥こそがレインボーヘブンの欠
片、空。お前たちの母親の移し身だったんだ」
「そう。でもそんな事はもうどうでもよくなった。……約束の印、天喜には金のロケットか……」
伐折羅の腕が、ゴットフリーの腕を引き寄せる。
「もう少し、かがんで。あなたに見せたいものがあるんだ」
多少、億劫な気分で姿勢を低くした瞬間、ゴットフリーは胸に焼きつくような衝撃を感じた。
そのまま、立っている事もできず、前のめりに倒れこむ。
「伐折羅……お前……」
痛みに耐えながら、見上げた先に、血に染まったナイフを手にした伐折羅が立っていた。
寂しそうな微笑みを浮かべて、伐折羅はゴットフリーを見据えている。
「その傷は消えないよ。それは約束の印だから。あなたは、きっと迎えに来ると言ったね。その
傷が痛む度に、ゴットフリー、あなたは僕との約束を思い出すんだ」
鮮血が滲むように、地面に広がってゆく。
「大丈夫だよ。死にはしない。急所ははずしてあるから……でも、血がいっぱい流れ過ぎたら
……」
もしかしたら、死んでしまうかもね……。
伐折羅は、くるりと倒れているゴットフリーに背を向けると、そのまま、西の方向に歩き出し
た。
死んでしまっても、それでもいいんだ。ジャン……あんな奴にあなたを獲られるくらいなら、…
…ゴットフリー、あなたが死んでしまっても、僕は……かまわない。
とめどなく流れる涙を、ぬぐいもしないで、伐折羅は歩き続けていた。
レインボーへブン、万民が憧れる至福の島。その島を見つけて、あなたが僕を迎えに来てくれ
ても、そこに僕の居場所があるのだろうか?
夜の風は言っていた。どんなに憧れても、闇の住民には叶えられない夢があると。
そんな夢を見て、後で悲しい思いをするよりは……
黒馬島、ここに永遠にゴットフリーの屍を埋めるなら、僕は喜んでその墓守になってやる。
体が紅蓮の色に染まってゆく。強く感じていた痛みが、徐々に薄れ出す。朦朧とした意識の
中で、ゴットフリーは、自分の胸元にできてゆく血だまりを、傍観者のように見つめていた。
"俺はここで死ぬわけにはゆかない。けれども、この血の海に少しの不快感も感じない……"
だが、
溢れ出る血の流れにあわすように、その表面が泡立ちだしたのだ。ゴットフリーは、口元にか
すかな笑いを浮かべた。
"紅の花……俺の血の中にもその種を植えつけるか……"
ゴットフリーが流した血の上に、紅蓮の花が咲いていた。一つ、また一つと血の中に沸き上
がった泡が弾けて消える毎、それは紅の花を生み出していった。
おぞましくも美しい紅蓮の花。光を放ちだし、その光はゴットフリーの頭の先で集結し、形を作
り始めた。
"……また、会ったな……あきらめの悪い奴だ……"
炎馬……闇への使者。
燃え立つ鬣をなびかせた巨大な炎の馬。怒号のごとく響いてきた、海鳴りの音をかき消すよ
うに、それは大きく嘶いた。
俺が死ぬのを待っているのか?
伐折羅への恨みとレインボーへブンへたどりつけぬ後悔が、俺の中に溢れた瞬間、その背に
俺を乗せるために。
炎馬は勝ち誇ったように、ゴットフリーの前に立ちはだかっている。
「……おあいにく様だったな……。俺は伐折羅を恨んでないかいない……レインボーへブンが
見つからなくても、そう困ったわけでもないんだ」
皮肉っぽい笑いで、見上げられた事に腹をたてたのか、炎馬は突然、ゴットフリーの頭の上に
高く前足を振り上げた。
「待て!俺の命令を聞け!」
出せる力を全部ふりしぼり、痛みを堪えて体を起こすと、ゴットフリーは炎馬の鬣に手をかけ
た。伐折羅に刺された傷から流れる血が、足元まで伝わってくる。すると、炎馬は急に成りを潜 めたかのように大人しくなり、燃え立つ炎の強さを弱めて、ゴットフリーをその背に受け入れ た。
「間違えるな、お前が俺を連れて行くのは、黒馬亭だ」
抵抗するように、炎馬は二・三度嘶いた。
「命令に背くのは許さない。俺はお前たちにとっての王なのだろう?お前たちが支配するんじゃ
ない、俺が支配する側なんだ。闇の王に……お前たちは逆らえない!」
ゴットフリーは有無を言わさず、炎馬の腹を思い切り蹴った。
ふわりと体が持ち上がる感触があった。頬を風がかすめていった。遠くから聞こえてくる海鳴り
の音が徐々に小さくなってゆく。かすかな胸の痛みさえも感じられなくなった時、ゴットフリーの 意識は遠のいていった。
"黒馬亭へ"
その言葉だけを残しながら。
黒馬亭の掛け時計が正午を打ち鳴らした頃、タルクは重い瞼を開いた。
床でそのまま寝入ってしまったらしい。どの部屋もしんと静まりかえっているところを見ると、目
覚めているのはタルクだけのようだった。
昨日の火事騒ぎでみんな、眠ったのは明け方過ぎだったもんな。もう少し寝かせてやろう。
そう思った瞬間、タルクは、はっと窓辺のソファに目をやった。
ゴットフリーがいない?!
確かに彼は、ソファで疲れきって眠り込んでいたのだ。一体、どこへ行ったんだ?不安が心に
広がってゆく。この黒馬島はゴットフリーにとって鬼門の島だ。彼を一人にさせちゃいけない。
その時だった。タルクはぎくりと耳をすませた。
馬の嘶く声がする。そして、小さく扉をたたく音。
"誰だ……?この嫌な感じは何……"
自分の思考が終わらないうちに、タルクは扉に駆け寄っていた。扉を引きちぎらんかのように
開け放つ。
紅蓮に燃える炎馬の瞳がすぐ目の前にあった。そして、鮮血に染まった体が崩れ落ちてきた
時、タルクは背筋が凍る思いがした。
「ゴットフリー!!」
炎馬……お前、よくも……
形振りかまわず、ゴットフリーの体を抱き上げると、鬼のような形相で炎馬を睨めつける。
だが、炎馬には戦意の欠片もありはしない。ゴットフリーをタルクに渡すと、役目から開放さ
れたと言わんばかりに、空へ飛び立っていった。
「おいっ、ゴットフリー、しっかりしろっ!!」
呼びかけても返事はない。ゴットフリーの右肩の下から胸にかけての深い刺し傷から、おび
ただしく血が流れ出ている。
誰にやられた?この傷は炎馬がつけた傷じゃない。
「……!!」
その時、タルクは息を呑むように立ち尽くしている天喜に気がついた。
「天喜、できるだけ沢山、タオルやシーツをもってこい!それと救急箱。この出血だけでも、止
めないと、まずい事になるっ」
「……ど、どうしたの……何でこんな怪我を……」
「いいから、早くもってこいっ!ゴットフリーを死なせたいのかっ!」
畜生、この島には医者がいないって言ってたな……
あたふたと、2階へ駆けて行った天喜を尻目に、タルクはゴットフリーを窓辺のソファへ運ん
でいった。
幸い急所ははずしている。しかし、ここへ来までどのくらいの血を流した?それに何故、炎馬
が黒馬亭に彼を運んできたんだ?
「タルク、これっ!」
天喜が手渡したシーツを裂き、傷口近くを強く縛る。戦場で応急処置には手馴れているが、
傷の深さにタルクの額からは、とめどなく汗が流れ出た。
「ミッシェとサームは、どうした?」
「サームはいないわ。ミッシェはいくら呼んでも、目を覚ましてくれないの!」
サームの奴、逃げやがったな……ミッシェは……予想がつかん。
「ジャンは、まだ、あの山の上か?天喜、ジャンを呼んできてくれっ!奴なら、この傷でも何とか
してくれる」
その時だった。
「ゴットフリーはいるかっ!」
思い切り大きく開かれた黒馬亭の扉。
「ジャン!良かった。早くここへ来てくれ。ゴットフリーが大変なんだっ」
ぐったりと、ソファに横たえたゴットフリーの姿を見て、ジャンは顔色を蒼くした。
「悪い予感がして急いで帰ってきたんだ」
……さっき感じた胸元をえぐられるような痛みは……これだったのか……
「タルク、どいてっ!傷口をふさぐから」
ジャンはそう言うと、ゴットフリーの血だらけの胸に手を当てた。だが、手のひらがほのかに
蒼く輝き出したとき、
「や……めろ」
ゴットフリーの左手がジャンの手を止めた。
「何をいうんだ。このまま、血を流し続けたら、お前、死んでしまうぞ」
「お前は……力を使いすぎる。そんな物を使わなくても……人には治癒能力っていうものが備
わっているんだ」
「何を流暢な事を言ってる!お前の傷はそんな擦り傷程度の物じゃないって、わかってないの
か!?」
「とにかく……手をだすな……俺の命令にお前は……逆らえないはずだ」
「ゴットフリー!!」
「大きな声を出さないでくれ……傷に響くんだ。もう、あっちへ行け」
何故?何故、駄目なんだ?ジャンは、今にも心が張り裂けそうで、逃げ出すようにゴットフリ
ーのいる部屋から隣の萬屋の方へ出て行った。
ゴットフリーが僕に気を使ってくれているのはわかってる。力を使いすぎて、僕が弱りきってい
たから。でも、あいつが力を使わせないのは、それだけの理由じゃない……ゴットフリーは、あ の傷をかばっている。あの傷が消えるのが嫌みたいに。
ジャンは深くため息をつくと、店の椅子に所載ない様子で腰をかけた。
あの傷をつけたのは誰だ……?多分……
伐折羅。
二人の間に何があった?本当に僕は馬鹿だ。BWが警告をくれたのに、一番、ゴットフリーを
守らなくちゃいけない僕が、何度も、奴を一人にした。
しょんぼりと首をうなだれているジャンの肩を、ぽんとたたく者がいた。
「タルク……ゴットフリーは?」
「とりあえず、血は止まったよ。今は眠ってるんで、天喜が見ていてくれてる」
「……で、大丈夫なのか?」
ジャンの問いにタルクは微妙な表情をする。
「何ともいえんな。血を流しすぎた。それに簡単な応急処置だけだからな、激しく動いたりした
ら、また、出血して今度は本当に命とりだ。お前な、ゴットフリーが眠ってる間に、あの傷、閉じ てしまえないのか」
「……駄目だ。ゴットフリーの意思が強すぎて、その命令に僕は逆らえない。僕の力は奴の言
葉で完全に封印されてしまった」
「ゴットフリーの意思って、そんなに力があるものなのか?」
ジャンは、タルクの目を見据え小さく笑う。
「それは、もう、絶大な力を持っている。奴はレインボーへブンの王。欠片である僕たちは、そ
の心には逆らえない」
タルクが、はあとため息をついた時、天喜が足早にやってきた。
「大分、落ちついてきたんだけど、熱が出て来たの。冷やした方がいいわよね」
店の冷蔵庫から、氷を取り出すとてきぱきとした手つきで、細かく砕く。それから、ジャンとタ
ルクには目もくれないで、ゴットフリーのいる部屋へ大急ぎでもどっていった。
「なんだか、やけにはりきってるな」
ジャンの言葉にタルクは、いささか、不満げな表情をする。
「ゴットフリーの世話をするのが、嬉しいんだろ。……ガルフ島でも、館の女どもはみんな、奴に
惚れてたからな」
「本当に?あんなに冷酷極まりない奴に?」
「近寄り難い雰囲気の割には、知らず知らずのうちに、人の心をひきつけてしまう。身のほど知
らずな娘がコクって、撃沈してゆく姿を、俺はけっこう見ているぞ」
「へえ……可哀相に」
「可哀相なもんか。傷心の娘たちは、全部、あの青二才が引き取っていったからな。考え様に
よっちゃ、あいつが一番、ワルかもしれん」
「BWか……。なるほどね。女の子の扱いは上手そうだ」
ジャンは、やっと笑顔を見せた。すると、心が少し軽くなった気がした。
あとで、もう一度、ゴットフリーと話をしてみよう。伐折羅と一体、何があったか。それを聞け
ば、僕にも何かができるかもしれない。
ゴットフリーがいる部屋に入った時、天喜はあれ?と不思議な感覚に陥った。
窓からの日の光が隠れて、部屋が随分うす暗い。それに……
ゴットフリーの枕元に誰かいるわ……
目を凝らしていると、徐々に人の姿が見えてくる。
腰までとどいた艶やかな黒髪、そして黒衣。ソファに膝まづき、片手をゴットフリーの肩に添え
ながら、その顔を見つめている。
「あなた、誰……?」
振向いたその人は、儚げで陽炎のような美しさを持っていた。天喜は、その濡れた瞳と目が
合った瞬間、胸がきゅっと締め付けられる思いがした。
泣いているの?……ゴットフリーを心配して……。
居たたまらなくなって、天喜は部屋を飛び出していった。
私、あの人を知っている。あれは、夜風だ。レインボーヘブンの欠片の……
"彼女はゴットフリーの命令ならば、この世の果てでも飛んでゆきますよ"
BWが言った言葉が頭をよぎってゆく。
「おい、天喜、どうしたんだ?ゴットフリーがどうかしたのか?!」
血相かえて、部屋を飛び出してきた天喜にタルクが言った。
「……何でもない」
「何、怒ってるんだ?ゴットフリーを見ててくれるんじゃなかったのか」
「私がいなくても、大丈夫でしょ」
どう考えても様子がおかしい。ジャンは心配になって、ゴットフリーのいる部屋に行こうとした。
黒馬亭の扉が開いたのはその時だった。
「クロちゃん……か?」
ジャンは呆気にとられたように、扉の向こうを見つめていた。クロちゃん?誰だ?とタルクも
突然現われた見知らぬ少年に目をやる。浅黒い肌。短い髪。そして、勢いのある黒い瞳は、勝 気な少年の性格を物語っているようだった。
「よう」
「クロちゃん、何でここに来たんだ?」
「だって、ジャンが困ってるみたいだし、僕もあの人と話をしてみたかったから」
周りを気にする様子もなく、少年はそさくさとゴットフリーのいる部屋へ入って行った。
「ち、ちょっと、ジャン、いいの?入って行っちゃったわよ。それに、あの子、誰なのよ?!」
「……あれが、前に言っていた、古い馴染みの……黒馬島の僕の友達だよ」
「私、あんな子知らないわよ。黒馬島の住民なら、私が知らないわけがないのに!」
天喜の言葉にジャンはしばし沈黙した。……そして、苦い笑いを浮かべて言った。
「僕だって、人の姿をしているのは、初めて見たんだ。でも、天喜が知らないわけがない。だっ
て、あいつは……黒馬島のクロちゃん。黒馬島……そのもの、なのだから」
何ィ!?あいつが黒馬島!だって、今、俺たちはその黒馬島の上にいるんだぞ?
たいがいの事に驚かなくなってしまっていたタルクだが、今回はさすがに、自分の耳を疑って
しまった。天喜は、理解ができないらしく、ぽかんとジャンの顔を見つめている。
「多分、あれは実体ではないんだと思う。クロちゃんが自分の心に形を付けているんだよ。だか
ら、あまり長くは人の姿をしていられない」
タルクは長いため息をつく。
そうしてまで、黒馬島はゴットフリーに会いたかったのか……。まったく、次から次から、いろ
んな奴が現われやがる。こんなんじゃ、本当にゴットフリーは身がもたない。
「なあ、ジャン。俺は何となくわかった気がするよ」
「え…?」
「ゴットフリーが、レインボーヘブンを探す理由がだよ。あいつが、求めているのは至福の島で
も、無病息災の島でも何でもないんだ。普通の暮らしができる場所。ただ、穏やかに暮らせる、 そんな居場所を探しているんだ。ただ奴は王だから、住民みんなに、それをあたえなきゃいけ ない。そのために、豊かなレインボーヘブンが必要なんだ。俺の言う事、何か変か?変でも矛 盾してても反論は受けつけないぞ。いいんだ、これは、俺がそう思った事なんだから」
ジャンはにこと笑顔を見せた。
そう。だから、僕はゴットフリーに着いて行くんだ。僕自身が、その居場所になるために。
突然、部屋に現われた見知らぬ少年。ぼんやりと目を覚ましたが、侵入者の気配をかぎとる
と、ゴットフリーは素早く身を起こした。伐折羅に刺された傷の痛みが電流のように体を走る。 それでも、彼の鋭い眼差しは少年を、一瞬、硬直させた。
「まるで、野生の生き物みたいだ……そんなにぴりぴりすると、傷にさわるよ」
「お前、誰だ?」
「お会いできて光栄です。僕は黒馬島。ジャンの昔馴染みの」
そう言って、少年は床に膝まづきながら、深々と頭を下げた。
"黒馬島には友達がいる"
ジャンの言葉がゴットフリーの頭をよぎる。
「黒馬島?ふざけた話だな。黒馬島自体が奴の友達だったわけか……」
「だって、ジャンはレインボーへブンなんだから、友達が黒馬島の僕だとしても、ちっとも不思議
じゃないでしょ」
「常識じゃ通用しない言い分だ。けれども、俺たちがその黒馬島の上にいるという事は、お前
は実体ではないな。一体、ここに何をしにきた?」
「警告」
「何?」
「僕は、もうすぐ、移動する。だから、早く黒馬島を出た方がいい。その話は前に聞いているよ
ね」
風がびゅうと通り過ぎていった。少年は、その方向を見つめて笑う。
「あの風は飲みこみが早い。本当はもう少し長く留まっていたかったけど……。海の鬼灯に荒
らされた分、ここにいられる時間が短くなってしまった。でも、あなたとジャンには本当に感謝し てるんだ。僕に蔓延っていた海の鬼灯をあなたたちが退治してくれた。どうしようもなかった、 僕一人では……あの紅い灯に食い尽されて崩壊してゆくのを待つばかりで」
一瞬の沈黙。だが、
「ジャンに助けを求めて、お前が俺たちの船を黒馬島に引き寄せたのか?俺はてっきり、海の
鬼灯の策略だとばかり思っていたが」
少年はゴットフリーの言葉に首を横に振る。
「……僕は自由な意思で移動できるわけではないんだ。黒馬島は、自分でも知らず知らずのう
ちに移動を繰り返している、いわば流浪の島だ。でも、ゴットフリー、あなたの故郷がこの黒馬 島だという事にはもう気づいているよね?五百年前、女神アイアリスの怒りをかって海の鬼灯 となった盗賊たち……あなたの先祖……は確かに、黒馬島の出身だ。でもね、盗賊たちは、 かつてはレインボーへブンの守り手でもあった」
「何?」
「黒馬島の盗賊の宿命といっていいんだろうか。殺戮や強盗を生業にする反面、彼らには必要
なんだ。"守る物が。伐折羅がそのいい例だ。あの子は"血"や"破壊すること"が大好きな反 面、黒馬島の住民……特に天喜を守る事を自分の天命にしている。壊す事と、守る事……そ のどちらが欠けてしまっても、伐折羅……夜叉王の心は満たされない。それは、ゴットフリー、 あなたにも言えるんじゃない?伐折羅とあなたは一緒に殺戮を楽しんでいた。そして、"守りた い物"を持っている」
「……」
「レインボーへブンが海に沈んで、その欠片となった後、ジャンは、黒馬島でずっと眠ってい
た。そして、目覚め、僕らは友達になった。ジャンの鮮明な記憶はその辺りからしか残っていな いんだ。だから、黒馬島が、盗賊たちと同じように、かつてはレインボーへブンを守りながら、 海に浮かんでいた事を彼は知らない」
「黒馬島が、レインボーへブンを守っていたって!?」
「ああ、申し遅れました。僕の名前は黒馬島のクロ。あなたは、この島の全景を見たことがない
でしょ?まあ、ほとんど靄につつまれて、天喜の白い鳥に乗っても島の形はわからないと思う けど」
「黒馬島のクロ?安易な名前だな。回りくどい言い方をしないで、単刀直入に物を言え」
クロは、ゴットフリーの台詞に苦笑いをしながら、話を続けた。
「黒馬島は、そうだな……ちょうど、ドーナツのような形をしている。でも、昔は中央部分の空い
た場所に、他の島をかかえていた」
「……」
「もう、お分かりでしょう?レインボーヘブンが至福の島と呼ばれた理由は、島の豊かな資源の
せいばかりじゃない。もっと、重要なのは外敵の攻撃を受けなかったという事なんだ」
「レインボーヘブン!……黒馬島の中央にレインボーヘブンがあったというのか!?そして、黒
馬島の盗賊たちが、レインボーヘブンへの敵の侵入を妨げていたと」
思わず叫んだ瞬間、ゴットフリーは鋭い痛みに顔をゆがめて、胸を押さえた。
まるで、同じだ。今の黒馬島で、西の山の盗賊たちが、町の住民を守っている事と!
だが、きりきりと痛む傷をかばいながらも、尚、クロから視線をはずそうとはしない。
「だめだよ!そんなに声をあげたら、また、傷が開く!」
「……西の盗賊は町の物には手を出さない。それが、黒馬島の掟。同じだったんだな。かつて
の黒馬島の盗賊とレインボーへブンの関係も」
灰色の瞳に食い入るように見つめられて、クロは一瞬、たじろいだ。だが、
「そう、レインボーへブンを守るかわりに黒馬島はその恩恵を受ける。それは、古より続いてき
た慣習っだった。でもね、レインボーへブンは平和に慣れすぎてしまって、そして、悪いことに住 民たちは高い技術を持っていた。彼らは考えてしまったんだ。"盗賊などに守ってもらわなくた って、自分たちはやっていける"と。本当に馬鹿な話だ。外海のならず者たちと戦う苦労も知ら ないくせに、彼らは黒馬島の盗賊を排除しにかかったんだから」
「排除?しかし、レインボーへブンの住民は力じゃ、とうてい勝てないだろう?」
「薬を使ったんだ。守護の見返りに渡していた、果物や穀類の中に毒薬を仕込んで。それも、
徐々に効果を現す陰湿な毒薬を。レインボーへブンの作物は、豊穣の果実と言われるほどの 絶品だ。でもね……それを食べて死んでしまったのは、罪のない、盗賊以外の黒馬島の住民 たちだった……」
「……盗賊たちには、毒薬は効かなかった……という事か」
微量の毒を飲み続けていれば、確かに免疫ができるからな。ガルフ島警護隊にも、そういう
奴が何人かいた。盗賊の長クラスなら、当然、幼いうちから、その備えはしているはずだ。
「掟を先に破ったのは、レインボーへブン側だった。黒馬島の盗賊たちは、必要以上の見返り
なんて要求しなかったのにね。盗賊たちにとっては、"レインボーへブンを守る事"が、生きがい だったと……僕は今でもそう思ってる」
ゴットフリーは、口元を微妙に吊り上げ皮肉っぽく笑った。
ひどい話だな。盗賊どもの魂が海の鬼灯になって、さ迷うのも無理がないような気がしてきた
ぜ。
二つの島の均衡が破れた時、盗賊は怒りのままに、レインボーへブンを襲撃した……。そし
て、守護神アイアリスは、どうしようもなく荒れ果てたレインボーへブンを七つの欠片に分け、海 に沈めた。その住民は船で逃がし、盗賊どもには手を差し伸べなかった……
「やはり"レインボーへブンの伝説"は、レインボーへブン側に都合よく書かれた創作だったとい
うわけか。しかし、ジャンは別にしても、アイアリスに七つに分けられた欠片たちは、その事実 を知っているのか?」
BW、霧花、そして、伐折羅と天喜の母。どれをとってみても、彼らは至福の島の再興を純粋
に願っているだけのように思われるが……
ゴットフリーの思惑を認めるように、クロは言った。
「彼らには、その記憶はないと思う。そして、僕はそれを伝えたくはない。ゴットフリー、あなたが
本当の至福の島を欠片たちと共に作るというなら、伝説の裏側はもう、ここで消してしまわない か?恨みの連鎖は新たな海の鬼灯を生み出すだけだ。欠片たち……特にBWにこれ以上の 罪の意識を背負わすのは酷すぎる」
ゴットフリーは俯くと、無言でしばし何かを考えこんでいた。が……
「クロ、お前も、レインボーへブンの欠片の一つか……?」
いきなり、出された問いに、クロは微妙な笑いをみせた。
「さあ、どうかな?欠片のようでもあり、そうでもない……とでも答えておこうか。それより、話が
長くなりすぎた。あなたの傷は僕が閉じる。だから、早く準備して。僕の姿はもうすぐ消える。そ れとともに黒馬島は、移動を始める」
クロの手が胸の傷に伸びてきた時、ゴットフリーはそれをこばむように、左腕をあげた。「止
めろ!俺はそんな事は頼んじゃいない」
「その傷じゃ、黒馬亭を出たところで命が尽きるよ!ちょっと、手荒になるけど、我慢して」
右手をゴットフリーに向けて差し上げ、手のひらを大きく広げる。いつもジャンがやる、見慣れ
た仕草だ。ゴットフリーは、クロの力に抗うように叫んだ。
「止めろっ!この傷を消すのは俺が許さん!!」
「あなたの命令は僕には届かない!僕は、ただの黒馬島。闇の王の配下でもなく、それに、レ
インボーへブンの欠片だとも、僕は認めていない」
その瞬間、ゴットフリーとクロのいた部屋が鉄色に輝いた。銀よりも重くのしかかるような鈍い
光。
光に押されるように、ゴットフリーはソファの上に突っ伏した。体をクロの光が覆っている。痛
みと共に徐々に消えてゆく深い傷。だが、ゴットフリーの心は傷が癒えるほどに沈み込んでい った。
「心配しないで、その傷は完全には消えない。その傷には伐折羅……夜叉王の強い思いが込
められていて、僕の力では癒す事はできない。やっかいな傷をつけられたもんだ。この先、そ れはあなたを相当、痛い目にあわすかも知れないよ」
胸の傷を確かめながら、ゴットフリーは笑った。
「この傷は契約だ。伐折羅の居場所を作るための。それに、俺はこの傷をやっかいだとは思わ
ない。伐折羅が夜叉王ならば、この傷には何か意味がある。それは、俺に不利な物であるは ずがないんだ」
かすかな笑みを浮かべながら、クロの体が陽炎いだした
「本当にお別れの時が近づいてきた。急いでこの島を出て!そうしなければ、あなた方を僕は
海の果てへ連れていってしまうかもしれない」
クロの言葉にゴットフリーはソファから、飛び出すように身を起こした。ふらりと眩暈が体を襲
う。だが、そのままドアに向かって歩を進める。
「お気をつけて。僕の力は流した血までは取り戻せない。この島を出たら、ちゃんと休養をとる
ことです」
「世話になったと言っておこう。また、お前とは会う事になると思うが」
「ええ、いつか必ず!」
振り返りもせず、部屋から出て行ったゴットフリーの後姿を見送りながら、クロは寂しげにつ
ぶやいた。
レインボーへブンが消えた時から、僕の流浪は始まった。アイアリスの意思は、僕を一ヵ所に
留まる事を許してくれない。いつか、僕も帰れるだろうか……元のあの心地よい幸せな場所 へ。
レインボーへブンの欠片、"黒馬島"として。
押しても引いても、ゴットフリーのいる部屋の扉は開かない。額の汗をぬぐいもせずに、タル
クは扉に体当たりをくらわしてみる。
「無駄だよ。クロちゃんの力で扉はロックされちまってる」
「だって、ジャン、あんな得体の知れない子をゴットフリーに近づけていいの?」
悲愴な表情の天喜に、ジャンはくすりと笑った。
「クロちゃんの事を得体の知れない奴よばわりか?何だよ。天喜は黒馬島に住んでるくせに」
「だって、あの子が黒馬島なんて……到底、信じられないわ!」
その時だった。タルクが開けるのに四苦八苦していた扉が、突然、開いたのだ。
「ジャン、タルクっ!船へ戻れ。黒馬島が移動するぞ!」
「ゴットフリー!お前、傷は?!」
「そんな事を気にする暇があったら、早く馬とミッシェを連れて、ついて来い!」
タルクは呆気にとられたように、ゴットフリーを見つめていたが、
「天喜、ミッシェを起こして来てくれ。俺は馬を引いてくる!」
半ば条件反射的にその言葉に従った。
「ジャン、お前は俺と来い!」
黒馬亭の玄関にゴットフリーが出た瞬間、旋風が吹いた。激しく揺れ出した地面をもろともせ
ず、それは、大地にどしりと四肢を据えている。
ゴットフリーが乗っていた黒馬……黒馬島の御神体の
ミッシェを伴い、急ぎ足で駆けていた天喜は真近に見る黒馬の姿に圧倒されたかのように立
ち尽くした。だが、ゴットフリーとジャンは天喜を通り越し、黒馬の背に飛び乗る。
ジャンがゴットフリーの後で天喜に手を振る。
「また、会える。それまで、元気で」
「待って、もう、少しだけ待って!きちんとお別れを言わせて」
別れの時を悟った時、天喜の目にはとめどない涙が流れ出した。だが、ゴットフリーはそんな
天喜に一瞥を送っただけで、馬を引いてきたタルクに、一言、こう言った。
「タルク、お前の役目だろ」
風のように走り出した黒馬を見送りながら、天喜はなおも泣き続けた。
「天喜……」
最後の最後まで、何で俺が天喜の世話をやかなきゃならんのだ?タルクは、大弱りで天喜の
肩に手をおいた。
「もう、時間がないんだ。とにかく、待っていてくれ。俺は……俺たちは必ず、レインボーへブン
を見つける。そして、お前と伐折羅を迎えにくるからな!」
振り向いた天喜の目に、人の良さそうなタルクの真剣な顔が飛び込んできた。いつも天喜は
その顔にほっと、心が和らぐのだ。
「ありがとう。信じているから……私はあなたを信じてる」
突然、正面から天喜に抱きつかれて、タルクは目を白黒させた。けれども、揺れはますます、
激しくなってくる。タルクは、天喜をそっと体から引き離すと、その頭をくしゃくしゃとなぜて言っ た。
「心配しなくても、大丈夫だ。それまで、体を壊すなよ」
そして、ミッシェを抱えるように馬の前に乗せると、タルクも馬に飛び乗った。急がなければ。
ゴットフリーの黒馬はとうに先へ進んでいる。
「さようなら!あなたたちも、気をつけて!」
背後に小さくなってゆく天喜の姿に、後ろ髪を引かれる思いがしてならない。黒馬亭から借り
た馬は、今度はサラブレッド級に速く走ってくれている。
「良かった。霧花が力を貸していてくれて」
ぽつりとタルクの膝先でミッシェが言った。
「ねえ、タルク?」
激しい揺れの中を矢のように走る馬を操るのに、四苦八苦のタルクにミッシェは涼しげに言
う。
「あのまま、天喜をさらって連れてくれば良かったのに」
「……お前な、この非常時に……」
くすくす笑う、ミッシェを無視して、タルクは馬を飛ばし続けた。
俺だって、そう、したかったよ!
だが、黒馬島が不気味なうなり声をあげ出した時、その事はタルクの心の奥深くにしまい込
まれてしまった。
急げ!黒馬島が消えてしまう前に、この島を早く出るんだ!
「ジャン、タルクは、まだか?!もたもたしてると、本当に海の果てに連れてゆかれてしまう
ぞ」
「無理だよ。この黒馬に追いつくのは、待って……」
疾風のように駆けてゆく黒馬。ゴットフリーの背中にしがみつきながら、ジャンは後方を指差
した。
「あれは……タルクたちだ!早くっ。船はもうすぐだ!!」
だが、今までになかった大きな揺れが黒馬島を襲ってきた。叫び声のような轟音が黒い大地
を震わせる。すると、船の泊めてあった岸壁が二つに裂けたのだ。
「ああっ、船の上の岸壁が崩れるぞっ!!」
大音響とともに崩落する岸壁。
万事休すか!ゴットフリーは、崩落する岸壁を眺めながら、唇をかみしめた。
「俺たちの船が……」
やっと黒馬に追いついたタルクもただ、呆然とその様を見つめるだけだった。
黒馬島を覆っている靄が一層濃さを増してゆく。
その時だった。固唾を飲むように押し黙っていたジャンが叫んだ。
「船だ!僕たちの船がこちらへやって来る!」
「何?!」
崩落した岸壁の向こうから、一隻の帆船が近づいてくる。"信じられない"という言葉はもう、タ
ルクの口からは飛び出してはこなかった。
「BWか?!きっと、BWが波を起こして船を動かしてくれているんだ!馬を降りて、海岸へ走
れ!あの船は僕らの近くまで来てくれる!」
急げ!と言う誰かれなしの言葉と共に、ゴットフリー、ジャン、そしてミッシェをかかえたタルク
は海岸へ全力で疾走した。
黒い大地が揺れている。叫ぶように軋みながら。
「クロちゃん、もう少し、堪えてくれ!!僕らが船に乗り込むまで!」
ジャンの声に答えるかのように、黒馬島が唸りをあげた。
「黒馬島が声をあげるなんて……そんな事もあるんだね」
西の山の頂に立って、伐折羅はつぶやくように言った。不思議な事に大地の揺れは伐折羅の
足元には届いてこない。黒い靄に包まれた頂は、聖地のように静まり返っていた。
澄んだ湖底の眼差しは、ただ、一点を見据えていた。肩に止まった黒い鳥に手をやると、伐折
羅はそっとそれに頬をよせた。
「ありがとう。一緒にいてくれて。でも……もう、行っていいんだよ。あの人たちに着いてゆくんだ
ろ」
振りほどくように、鳥の止まった手を高く空に上げる。その瞬間、黒い鳥は眩しい光を放ちな
がら純白に色を変えた。すると、黒馬島を覆っていた厚い靄が、伐折羅の見つめる一角だけ、 溶けるようになくなったのだ。
黒馬島の靄に隠され、生まれてこのかた見たこともない青い海の輝きに、伐折羅は目を細め
た。その中を一隻の船が東に向けて奔ってゆく。
ゴットフリー。やはり、僕はあなたに求めてしまう。僕の居場所を探してくれと。……あなたを
殺してしまっていたら、僕の希望は永遠に失われてしまうところだった。
僕は待っている……あなたが、僕を必要としてくれる、そんな日が来ることを。
伐折羅は、船をめざして飛んでゆく白い鳥を見送りながら、透き通るような笑顔をみせた。
さようなら。伐折羅の黒い鳥、そして天喜の白い鳥……寂しくはないだろう。お前たちは二つで
一つなのだから!
「な、なんとかセーフか……、みんな乗ってるか?」
間一髪で乗り込んだ船の甲板で、タルクは激しく息を切らして言った。もともと、早くない足で、
ミッシェを抱えながら全快で駆けたものだから、心臓が破裂しそうな気分だ。
そんなタルクに見向きもしないで、ゴットフリーは甲板の向こうを食い入るように見つめていた。
「黒馬島が消えてゆくぞ……」
島を覆っていた厚い靄が、徐々に薄れてゆく。
波がかかるほどに小さくなり、やがて、黒馬島は、靄の向こうに見えてきた青い空に溶け込み
ながら完全に姿を消してしまった。
そこには何もなかったかのような、蒼天の空。
視界の先には、胸のすくような青い海。
ジャンはその光景をほろ苦い思いでみつめていた。
「虹の道標……」
黒馬島が消えた場所から七色の虹が東に向かって帯をかけている。そして、虹の向こうから、
こちらへ向かって一羽の白い鳥が飛んでくるのだ。
レインボーへブンの欠片、空。
「なあ、ジャン。黒馬島って結局は何だったんだろうな」
ジャンは横で同じ景色を見つめていたタルクに目をやって、笑みをうかべた。
きっと、タルクにはレインボーへブンの虹の道標は見えてはいないんだな。それなのに、タルク
は僕らに着いてくる。いや、ゴットフリーにか……。
「今回の事で俺はつくづく、自分の無力さに気がついたよ。お前や伐折羅のように俺はゴットフ
リーを少しも支えてやれなかった。ただ、天喜と二人でバタバタと動いていただけだ」
「そんな事はないだろう?実際、町が燃えた時だってタルクはよく働いたし、白妖馬とだって戦
ってくれた」
「あれは、お前の力だ……。お前の力が俺の剣に宿ったから、白妖馬を倒せたんだ」
おまけにジャンは、その力で白妖馬の魂まで浄化したんだ。それに比べて俺は……
ジャンは、泣き入りそうな顔の大男を見据えて、にこと笑った。
「お前は持っているよ、ゴットフリーを支える大きな腕を。だって、タルクはゴットフリーがレイン
ボーへブンの王であろうがなかろうが、奴についてくるじゃないか。それは、僕らにも海の鬼灯 にも持ち合わせていない心だよ。無償の心でお前は、ゴットフリーについてくる。それは、何よ りも強い支えになるんだよ」
「だが……」
「ほら、つべこべ言ってないで支えてやれよ。そうしないと、ゴットフリーが、甲板から転げおちて
しまうぞ」
はっと、振り向いて、タルクは大急ぎで崩れるように倒れてゆくゴットフリーの体に手を伸ばし
た。
「タルク、ゴットフリーを下の部屋で休ませてやれよ。あれだけの目にあって、血を流したんだ。
普通に立っているだけでも大変だっただろうに」
「なあ、ジャン……」
疲れ切って意識を失ったゴットフリーをかかえながら、タルクが言った。
「崩壊したといったって、大地には緑が芽吹いていた。ガルフ島には、何人も警護隊の精鋭た
ちが残っているんだ。レインボーヘブンへの旅が少しばかり遅れたって、彼らが何とかしてくれ る。どこか、ゆっくりできる島を見つけて、ニ・三日、滞在するっていうのはどうだ?俺は、ゴット フリーを少しでも休ませてやりたい」
その時、上空から白い鳥が舞い降りてきた。ジャンの後ろに立っていたミッシェは、手を伸ば
し、白い鳥を船に招きいれる。その様子を見ながら、ジャンが言った。
「そうだな。黒馬島の場合も然り、僕等の旅が何かに導かれているのだとしたら、休息もその
一部なのかもしれない」
「よぉし、決まった!次の島では、温泉を探すぞ!!」
「おい、あまり羽目をはずしすぎると、後で、また、ゴットフリーの機嫌が悪くなるぞ」
力強く宣言するタルクにジャンは思わず苦笑した。
レインボーヘブンへの虹の道標は東に向けて光を伸ばしていた。船は風と波にのって、その
後を追いかけて行く。
次の島は、グラン・パープル。
それは、六番目のレインボーヘブンの欠片が眠る島。
「アイアリス」第2部 〜黒馬島奇談〜 完
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |