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名演2004年1月例会 地人会公演 はなれ瞽女おりん

作/水上勉 演出/木村光一

1980年・はなれ瞽女おりん高田集会

 以下の資料は「名演」1980年4月号より転載したものです。
『はなれ瞽女おりん』の初演を前に、新潟県の高田(今の上越市)で、作者・水上勉さん、おりん役の有馬稲子さん、演出の木村さんが参加し、演劇鑑賞団体の会員と集会が開かれました。「はなれ瞽女おりん研究集会−瞽女の里を訪ねて−」という名のこの集会。鑑賞会からは33団体210人が参加することで、作品に対する期待を大きく高めていくことができました。
 その集会に参加した会員さんからの報告と、作品が作り出された過程を宇都宮事務局長(当時)が報告しています。作品が生み出された頃の熱気が伝わってくる文です。


私たちがつくりだした作品 宇都宮吉輝

 私たちは観賞団体ですがら、どんな演劇を例会にとりあげるか?が非常に大きな意味をもちます。例会を決めるのに、普通、劇団の方々が“こういう作品を上演したい”という思いを出してもらい、それに基づいて資料をつくり、サークルで話しあって、例会を決めてきます。
 こうした例会をつくりあげていく活動をもう一歩すすめて、“私たちの観たい作品は、こういうものなのだ。是非上演してほしいとということで、『ハムレット』や『越前竹人形』などのすぐれた例会を実現してきました。
 こうした要望運動を大切にしてきました。そのために、例会要望のアンケートをくり返ししてます。その中で、会員の思いを集約すると“今のきびしい状況の中で底辺にもがき苦しみながらも何かを求めて生きていこうとする人々の姿を描いた作品がみたい”ということがでてきました。それをどのように例会として実現するか、という話しあいをくり返しました。そして従来の要望運動をさらに発展させて、出来ることなら芝居を創っている人たちと一緒になって例会をつくりあげていきたい思いで、この企画がでてきた訳です。
 その話しを木村さんにしましたら“ぜひ一緒にやりましょう”という言葉をいただき、具体的にする中でかって、『越前竹人形』が評判になったこともあって、作者の水上さんも、積極的に応援しようということで『はなれ瞽女おりん』が実現のはこびになりました。


瞽女のさとを訪れて一涙ぐんで聞いた水上さんのお話し

瞽女−−届かぬ世界を生きている人々の私達目あきにわかららない細やかな思いやりを感じる
 
 今、私は雪を見るたび、二月の連休の“瞽女ツアー”で越後高田の町を訪ねた時のことを必ず想い出す。
 『はなれ瞽女おりん』が、名演の五月例会にとりあげられる。映画では岩下志麻と原田芳雄の好演が印象的だった。
 「竹山ひとり旅」の高橋竹山さんとは一味違った、瞽女さんの弾き語りが聞けるのを楽しみに参加した。あいにく、瞽女さんの急病で、じかに三味線を聞くことはできなかったが、ビデオでその素晴しさを知る二ことができた。えっ、ほんとうに八十才過ぎ?と目と耳を疑う程、声にハリがあり、若々しく、艶っぽくさえあった。言葉が聞きとりにくく、私にはよくわからず残念だったが、三味線の音色に魅かれつつ、瞽女さんの暮しを想像してみた。
 車窓から見たあの二米も越す雪の深さと屋根の雪降ろしに励む人々の姿・……そしてダブって写ってくる一昔前………細い険しい道すがら、手引きがいたとはいえ、ころびながらあちこちの里を訪ね歩いたことだろう。迎えてくる村人達も決して心暖かい人ばかりではなかっただろう。越後という土地柄、また高田で初めて見た雁木等、雪国の厳しさと生活の苦しさを改めて思い知らされた。又、祖母のことさえも………
 私の祖母は老いて、そこひを患い、盲目となった、その頃、保育園に通っていた私はある日手を引いて、トイレへ案内したことがある。いいかげんな導き方をしたため、祖母は思いっきり強く柱に頭をぶっつけてしまった。ゴツンという音の大きさから事の重大さに気付いたが、もう手遅れである。しかし、祖母は怒るどころか、「ア、イタタ……」と悲鳴はあげたが、むしろその顔はほほえんで見えたのだった。
 あの気持のやさしさ、水上勉さんの言われた届かぬ世界を生きている人々の、私達目あきにはわからない細やかな思いやりが感じられた。きっともがき、あがきを通り抜けてきたからだろう。耳からくる人生観、親様という(宇宙あるいは自然といえる)思想を芝居からつかみたいと強く思った。
 水上さんの講演は涙ぐんで聞いていた人が多い程、感動的だった。文献に残っていない、ボロのように生きてきた歴史の底辺のの人々にすごさを感じ、瞽女さんのような、実在すること自体が何かを揺り動かす力を持っていると語られた。主人公おりんと脱走兵との愛は、言ってみれば人間のぬくもりであるとのこと、いい言葉であった。
 木村光一さんは、今の物質文明は、精神的なものをどこかになくしてしまっている。時代が青春を喪失させてしまっていると警鐘を鳴らされた。
 又、有馬稲子さんの美しさにハッとし、三味線を練習され始めているとか、芝居にかけられる熱意を感じた。それに「日本人はもっといっぱいやさしい心を持っていたのでは……」と語られ、その暖かさがにじみ出る演技が期待できそうである。



『はなれ瞽女おりん』に期待する

 水上勉さんや、木村光一さんとの出会いは『冬の柩』からである。名古屋で芝居が制作されたので、ケイコ場ものぞけた。芝居は別の世界で創られていると思っていたのだが人間集団によって創造されている。あたり前ののことをここで知った。この時、新鮮で強い感動におそわれた。この喜びは、次にも一緒に何か出来そうだと思うようになった。
 私のそんな希望を『はなれ瞽女おりん』は再び実現させてくれたのである。
 
 「瞽女」は映画や絵画で、また本などで紹介され、詳らかになったが、瞽女の里は雪ふかい越後高田である。
 私たちはこの高田を訪れ、水上さん木村さんにお会いした。
 その席上、水上さんは『はなれ瞽女おりん』は「つまらないものですわ」と、むせぶように声をつまらせた。私は一瞬耳をうたがった。
 実在の瞽女さんの生き様が、人間をゆり動かしている。それに比べ、小説はフィクションです。と謙虚に語られたのである。盲目の祖母へのなつかしみと、瞽女さんへの尊厳な気持ちを熱い思いで言ったのである。
 水上さんの、瞽女さんへの愛情ぶかい優しさを知り、私は心をうたれた。来てよかったと思った。水上さんは十才で仏門の徒弟となり、その後代表作『雁の寺』で作家の地位を確立するのだが、すでにこの時、慈念の母として登場するのが「瞽女」である。
 阿弥陀の前になにやら光る
 瞽女の目が光る、目が光る
 <ごぜとはいったい何なのだろうか……>

 「雁の寺」ではまだ瞽女の全容は見えず、何か近寄りがたいおそれのようだ。作者の生いたちともいうべき作品に「母」というのが気になる存在であった。
 やがて瞽女さんたちは、貴重な文化的活動としで脚光を浴びてくる。しかしその扱いは“生き地獄”“情念の世界”の旅芸人。等々あざとい描き方も目立ってきたのであった。眼あきの一方的な見方だろうか。そういった風潮が、水上さんの積年の思いの“人間味豊かな温り”を持った瞽女を書かせたのかも知れない。
 自らの半生と重り、縁者への思いとつながる瞽女に対する愛情と、実在へのおそれが水上さんの中で激しく長く葛藤し、やがて浄化した。その姿が「おみやの躯は、仏さまのようじゃ」
 −−清洌なおりんとなって誕生した。私はそう感じた。とても大切なものに出会ったようだ。

 いま水上さんは台本を数回書き直し、作品に精塊を傾けている。おリんをどのように生命づけるか、歩み出すのが楽しみである。おりんが旅する町や村々からは祭り太鼓が人恋しく聞こえてくるという。季節の便りに心を潤わすか、滅びゆく文明への警鐘を聞くことになるか。私は早くおりんに会いたい。同時に舞台を多くの観客で成功させたいと思っている。



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