古宮遺跡(小墾田宮推定地)
ここからは、庭園跡や建物群の跡が発掘されている。推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)跡と推定されてきたが、現在では蘇我氏に関わる庭園の跡とする説が有力になっている
明日香村境界付近の様子
橿原神宮駅前からまっすぐ東に歩いて行くと明日香村に入る。周りにはのどかな田園風景が広がっている
明日香散策。甘樫丘から高松塚、石舞台古墳などを巡る
推古天皇豊浦(とゆら)宮跡、豊浦寺跡
古宮遺跡の少し先で、甘樫丘(あまかしのおか)への案内表示があり、それにしたがって細い道を行くと豊浦(とゆら)寺跡がある。現在は向源寺というお寺になっているが、かつてこの付近には推古天皇豊浦宮があり、宮が小墾田に移ったあと豊浦寺が建立されたという。
593年、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)にて即位する。推古女帝にとって、蘇我稲目は母方の祖父にあたり、その屋敷の近くに豊浦宮をつくったのである。これまでの磐余(いわれ)の地からはじめて飛鳥の地に宮をつくり、以後約100年、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中的に営み、飛鳥は政治の中心地となった。この間に大陸の先進文化を摂取し、斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。
603年、推古天皇は北に接して新しく小墾田宮をつくったが、随との外交などによる使節を迎えるにふさわしい宮をかまえるためだったと思われる。
甘樫丘(あまかしのおか)展望台からの眺め
向原寺(豊浦寺跡)を出て、田圃に沿った細い道を歩いてゆくと甘樫丘への登り口がある。案内標識にしたがい、まずは展望台をめざす。甘樫丘は国営飛鳥歴史公園(甘樫丘地区)となっており、園路や案内表示などたいへんよく整備されている。
公園の説明板によると、「甘樫丘は、日本書紀などの中にもその記述がみられ、7世紀前期には当時の有力者であった蘇我蝦夷、入鹿親子が大邸宅を構えていた場所であるとも言われています。地区内には、眼下に飛鳥古京(明日香村内)の集落、北側に大和三山とその中央に位置する藤原京(橿原市内)さらに遠くの生駒山、二上山、葛城山、金剛山系の山並みを望める展望広場(標高148m)や、万葉集に歌われた植物を散策しながら楽しめる万葉植物園などを設けています」、とある。
たしかに展望台からの眺めはすばらしい。春霞のため遠くの山はかすんでいるが、大和三山ははっきりと見える。この大和三山に囲まれるようにして藤原京の都城が広がっていた。この藤原京は694年から710年までの16年間続いただけで平城京に遷ってしまうのだが、せっかく造った大規模な都がなぜ短命に終わってしまったのだろうか。
豊浦寺より甘樫丘に向かう途中の風景
この付近には、推古女帝の祖父にあたる蘇我稲目などの家があった。そのような縁で推古女帝の豊浦宮はこの近くにつくられたようだ
豊浦宮跡、豊浦寺跡 (現在は向原寺)
この場所にはかつて推古天皇の豊浦宮があり、その後、豊浦寺となった。近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡が見つかり、これを裏付けている
高松塚から川原寺跡へ。飛鳥京中心地付近
歴史公園を出たあと、特にどちらへ行こうという予定はないのだが、とりあえず東のはずれの石舞台古墳を目指すことにした。目標さえ決めれば、村内は道標が完備しているので迷わずに歩くことができる。道標にしたがって歩いてゆくと、飛鳥周遊歩道という快適な道に出る。この道をたどってゆけば石舞台まで行けるようだ。少し行くと道の脇に亀石というのがある。なぜこの場所にこのような形をした石造物が置かれているのかは謎である。飛鳥にはこのような謎の石造物がいたるところにあるが、これもその一つである。今日は天気もよく、遊歩道は先生に引率された小学生がたくさん歩いているが、亀石の前にもたくさんの子供たちがいた。(右写真)
さらに進むと左手に川原寺跡が見えてくる。現在は弘福寺というお寺が建っているのだが、その南側に礎石や建物などの伽藍配置が復元されている。創建年代は不明だが、出土している瓦の文様の特徴などから、天智天皇の頃に建てられたと考えられている。1957年から行われた発掘調査では、中金堂、西金堂、塔、講堂、門のほか鐘楼などが検出されている。また、この遺跡の下からは斉明天皇の川原宮と推測される遺跡も見つかっている。東に少し離れて飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡があり、この辺りが飛鳥京の中心地であったことをうかがわせる。
実は、私は現地を歩いているときにはこのようなことを知らなかった。ここに隣接して飛鳥板蓋宮跡があると知っていればそちらに回ったのだが、このときは川原寺跡を少し離れた場所から眺め、そのあと案内道標にしたがい橘寺から石舞台古墳方面に向かった。
甘樫丘より西北を望む
畝傍山がくっきりと見える。畝傍山は標高199mで三山の中では最も高い。麓には神武天皇を祭神とする橿原神宮がある。写真に見えるのはほとんどが橿原市域であり、この地域が住宅の密集地域であることが分かる
甘樫丘から高松塚古墳へ
甘樫丘の展望台から、登り口と反対の南側に下ってゆく。下りきると車の通る県道に出た。ここに高松塚方面への案内表示板があったので、これにしたがって高松塚に向かう。立派な道だが、車の通行はそれほど多くはない。明日香村内の道は、大型のトラックがぶんぶん走り回るような道ではない。このような道を20分くらい歩くと、国営飛鳥歴史公園(高松塚周辺地区)の入口に着く。ここから高松塚古墳までは、公園の中の遊歩道を歩いてゆける。
遊歩道を歩いてゆくと、奥のほうに灰色の大きな構造物が見えたので近づいてみると、ここが高松塚古墳のある場所だった。内部の壁画がかなり損傷し、大規模な修復作業を行っているということは知っていたが、その現場がこのようになっているとは知らなかった。周囲が鉄板の塀で囲まれ、塚の上部にはすっぽりと工事用の覆いがかぶせられている。少々がっかりしたが、仕方ないのでひきかえし、途中にある壁画館に入った。ここには出土遺物の複製と模写壁画が展示されている。この模写壁画の色の鮮やかさには、いまさらながら感嘆した。実際に発見当初に観察した人が模写したのだから、実物に限りなく近いと見てよいのだろう。これを見ただけでもここまで来た甲斐があった。
飛鳥歴史公園、壁画館のあるあたり
高松塚周辺は国営飛鳥歴史公園として整備されいる。芝生の広場と周遊歩道でのんびりと周辺を巡ることができる。古墳へ行く遊歩道の途中に高松塚壁画館がある
川原寺跡付近の様子(飛鳥京中心地付近)
現在見える建物は弘福寺である。このお寺の手前に川原寺の礎石などが復元配置されている。この川原寺の遺跡の下には石組暗渠や整地跡があり、斉明天皇の飛鳥川原宮の跡ではないかと推測されている。東側(写真右手)の少し離れた場所には飛鳥板蓋宮跡があり、この辺りは飛鳥京の中心地ともいえる地域である
橘寺本堂(太子堂)
本堂には、室町時代の木造聖徳太子坐像(国重文)がある。太子は深く仏教を信仰し、自らこの場所で仏典の講義を三日間にわたって行ったという
塔跡の心礎付近
東西約1.9m、南北約2.8mの大きな花崗岩の中心に直径約90cmの穴があき、半円形の穴が三つついており、心柱とその添え木を立てる穴と考えられている
石舞台古墳
橘寺を出て遊歩道を石舞台古墳に向かって進む。この辺りにも小学生の団体が多く、その間をぬうようにして歩いてゆく。10分くらい歩いて、石舞台古墳のある公園に着いた。ここも甘樫丘、高松塚地区と同じように「国営飛鳥歴史公園(石舞台地区)」となっており、大変よく整備されている。(写真右)
ちょうど昼時とあって、小学生の団体があちこちで弁当をひろげており、大変賑やかだ。時計を見ると、12時少し前、私も一通り古墳を見てからここで昼食をとることにした。
石舞台古墳はいわゆる「古墳」のイメージとはまったく異なる。通常の古墳の石室部分が地表上に現れている形である。説明板によると、「石舞台古墳は早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名で親しまれている。1933年(昭和8年)から実施された調査では、墳丘は一辺約55mの方墳または上円下方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされていることが明らかになった。埋葬施設については、南に開口する両袖式の横穴式石室で、玄室長は約7.8m、幅約3.4mある。石室内からは凝灰岩片が出土していることから家形石棺が安置されていたものと推定される」、とある。被葬者については不明だが、蘇我馬子の桃原墓という説が有力だという。
石室の中には自由に入ることができる。一度にあまりたくさんの人は入れないが、混んでいても少し待てば入ることができる。私も中に入ってみた。思っていたよりは広く、天井も高い。石の隙間から光が入るので適当に明るい。中には何もなくがらんどうである。
石室内の様子
石室内は結構広く、天井も高い。現在石室内には何もない
石室内への入口
現在はここから石室内に入ることができる
石舞台古墳の様子
もとは盛土に覆われていたが、土が失われ石室部分が地表に現れたものだという