ことば・言葉・コトバ更新2021/12/27「Blogことば・言葉・コトバ」

渡辺知明の  「朗読論」

(12)「朗読」と著作権の問題(1) / (11)アクセント・ポイントの提唱 (10)音声入力ソフトによる朗読訓練 (9)「朗読」のための4つの要素 / (8)「高さアクセント」から「強さアクセント」へ / (7)「読み」を「語り」にするポイント / (6)「朗読」と二つのバリア / (5)日本語は「高さアクセント」ではない / (4)学校には「音読」も「朗読」もない / (3)「語り」と「朗読」との関係 / (2)表現としての「朗読」とは / (1)よみのリアリティとは最新論はBlogことば・言葉・コトバ

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2005年7月18日(月)公開 (12)「朗読」と著作権の問題(1)―「朗読」の著作権問題とは?  わたしはこれまで「朗読」の著作権のあり方に疑問を持ってきた。それで個人的に、ある解釈にもとづいてよみを公開する実践を続けてきた。その成果があったか、7月7日にスタートしたNIFTYの「ポッドキャスティングジュース」で「Blog表現よみ作品集」が紹介された。ところが、即日紹介が中止となった。そのとき、わたしは著作権について根本的に考えてみようと思った▼これから何回つづくか分からないがこの問題について書きたい。わたしが参考にするのは、福井健策『著作権とは何か―文化と創造のゆくえ』(2005.5.25 集英社新書)である。すばらしい本だ。既成の法律の解釈を振り回すのではなく、社会の発展という一つの理想のもとで著作権の問題を検討している。わたしが示唆されたことがたくさんある。この本を片手に「朗読」と著作権について、わたしの考えを論ずることができそうである●「朗読」の著作権問題とは?―現在、「朗読」の活動をしている人たちにはいろいろな不便がある。だが、多くの人たちは、仕方がないというあきらめの気持ちでしたがっている。せっかく「朗読」がブームとなっているのに、今後さらに文化として発展するためのさまたげとなっているのだ▼たとえば、「朗読」の発表会をするときなど、著作権者に問い合わせて、許可を受けたり、ときには「著作権使用料」を支払ったりしている。これが果たして「朗読」にふさわしいやり方なのだろうか。これは戯曲の上演のやり方である。それが負担に感じられる。その結果、著作権が切れたとされる没後50年をすぎた作家の作品を選んで発表会に望むことになる。現代作家の作品が自由よめない。だから「朗読」の会には若い人たちが集まらない。「朗読」を聴く世代が高齢化することにななる▼また、視覚障害者のための音訳(音声訳)におけるバリアがある。これまで蓄積された音声訳の録音は厖大だろう。ところが、著作権の解釈によって健常者はいっさいこれを聴くことができない。バリアフリーといわれる時代にこのありさまである。さらに、この考え方が一般の「朗読」においても慣例となっている。それが文化としての「朗読」の広がりを阻害している▼わたしが検討したいことはいろいろある。まず、「朗読」について、これまでの著作権の理解や解釈が当てはまるのかどうか。どのような解釈が「朗読」の著作権にふさわしいのか。今、出版社やマスコミの関係者は、著作権に対してひどく臆病になっている。確固たる理解と解釈のないまま、何となく既成の観念にしたがって行動しているようだ。そのやり方が、不調の読書界の読者数をさらに減少させたり、音声ビジネスの発展をはばんでいるのではないか。「朗読」についての著作権の考え方を変えることが、出版文化を発展させ、そればかりでなく日本の言語文化を発展させる可能性もありそうだ▼思ったよりもまえおきが長くなったのでここで止める。読者にお願いがある。ご意見、ご感想などをいただきたい。「朗読」の著作権に関心を持つ朗読の関係者、出版社で著作権に疑問を抱いている方がた、さらにポッドキャスティングの発展を考える人たちにとっては重要な問題である。さまざまなかたちで議論に加わって頂けるとありがたい。 はじめへ
2004年11月22日(火)公開 (11)アクセント・ポイントの提唱 志賀直哉に「リズム」というエッセイがある。名文にはリズムが生きているというのである。しかし、その根拠については述べられていない。わたしは以前から気になっていた。それがようやく分かってきた。ヒントになったのは、折口信夫『言語情調論』(2004中公文庫)で述べられた「音調」の考えかたである。これがメリハリのある音声表現の根拠となる。コトバはそもそも平坦な音(オン)の並びではない。コトバのあるところ必ずどこかに強調があるものだ。それは一括して広い意味でのアクセントと言える。単語におけるアクセントも、文におけるイントネーションもプロミネンスも、コトバの意味を強調するためのものである。その基礎となるのが音(オン)の強調であるアクセントである▼日本語のアクセントというと「高さアクセント」が常識のようになっているが、90年前に折口信夫は上記の卒業論文のなかで、日本語のアクセントは高低でもないし、強弱でもないと述べている。そして、「長さ」こそアクセントであるとして、次の4つをあげている。それぞれの音(オン)が前の音(オン)と組になってアクセントを構成するのである。(1)撥音(「○ん」のように「ん」のつく音(オン))、(2)促音(「○っ」と小さい「っ」のつく音(オン))、(3)拗音(「○ゃ、○ゅ、○ょ」というように小さな「ゃ、ゅ、ょ」のつく音(オン))、(4)長音(「○う」あるいは「○ー」と伸ばされる音(オン))▼わたしの考えるアクセントは「強さアクセント」と「強さ+高さアクセント」の2種類であるが、それを探るために折口の4つのアクセント原理は手がかりになる。そして、これまでの「高さアクセント」のように複数の音(オン)をバでー表示するのでなく、アクセントのある音(オン)に●をつけて「アクセント・ポイント」としたい。メリハリの探求では、第一に「強さアクセント」をとらえる。これがもっとも多いアクセントである。一音ないし折口のいう複数の音(オン)の組み合わせによる。第二に「強さアクセント」に高さが加わるかどうかを判別する。ここではこれまでの「高さアクセント」の考えも有効だ。比喩的にいうなら、アクセント・ポイントは階段の手すりのようなものである。階段を上がり下がりするとき、手すりにつかまるタイミングである。その音(オン)を目指して力を入れることによって、まさに志賀直哉のいう「リズム」が生まれる。それが文の音声表現のメリハリとなるのである。 はじめへ
※追記―折口信夫『言語情調論』についてより詳しく知りたい方は『日本のコトバ』23号(2004.12.5日本コトバの会編)に掲載の「表現よみ理論ノート その3」参照。
2004年10月25日(月)公開 (10)音声入力ソフトによる朗読訓練 音声入力ソフトというものをご存知でしょうか。パソコンはマウスで操作したり、キーボードで文字を入力します。しかし、音声入力ソフトを使うと、手を使わずに声でパソコンの操作や文字入力ができます。ワープロソフトで文を読みあげていけば自動的に漢字かな混じりの文に変換してくれます▼わたしはドラゴン・スピーチ(Ver.7)Via Voice(Ver.10)という二つの音声入力ソフトを使って2年ほどになります。どちらも1万円以下で買えるスタンダード版です。使いはじめるとき15分ほどの声の入力トレーニングをしただけで使ってきました。その後、学習の成果が表われて、今では変換の正確さは95%以上ですから、ほとんど手直しをせずに文章が書けます。カタログによると、キーボード入力の2倍ほどの速さだと書かれていますが、わたしの実感では3、4倍です。最初は文章を書くために使い始めたのですが、最近になって朗読のトレーニングにもなっていたことに気がつきました。ただし、マイクを使った録音や放送などの朗読に限ります。舞台などで声を張る朗読とはちがった繊細で微妙な声の訓練ができます。音声入力ソフトに付いてくるマイク付きのヘッドホンで自分の声をモニターをしながら使えば、さらに効果があがります(追記(2004.10.31)わたしの主張する「強さアクセント」にもとづく発声法がマイクを使用しても有効だと判明しました) ▼今のところ、わたしが考えているのは以下の3つの点です。第1に、発音を正確にする訓練です。最初のトレーニングのとき、課題の文章はぶつぶつ区切らずに自然なテンポで読み上げることが要求されます。それによって個人の声の特徴やクセが分析されます。それでもやはり一音一音を歯切れよく正確に発音すると、あとでより正確に認識されます。その後の入力でも、意識して正確な発音をすると語句の認識率が高まります。第2に、文の構造をとらえながら文章を読み上げる訓練です。文をただ文字の並びとして読むよりも、主部と述部の関係や修飾と被修飾の関係などを理解して読んだ方が認識率が高まります。自分の読んだ文章がどれだけ正確に聞きとられたかソフトによって試されます。漢字と仮名に変換された文章から自分の発音や発声の正確さが判定できます。もちろんソフトの認識能力の限界も考慮しながら判断します。第3に、コトバを発しながら考える訓練です。いわば即興的な口述作文と言えます。ただ単に単語を声に出すのではなく、声に出しつつ文を書いてゆくのです。これが表現力のある朗読のための訓練になります。文学作品を表現するには、声のコトバと読み手の感情が結びつかねばなりません。感情は声のイメージを伴っています。文章を文字で書くときにも感情を表現する声のイメージがあります。しかし、声を出さないのでイメージが実現されません。それに対して、声で文章を書くならば声のイメージが表現されます。そして、読み手の感情も動き出すのです▼以上の3点は、わざわざ意識しなくても、音声入力ソフトを使えば自然に実行されます。朗読に関心をお持ちの方、文章を書くことに関心のある方には、音声入力ソフトを使うことをおすすめします。もともと言語は音声でした。だから音声言語の訓練をすることで「話し・聞き」「読み・書き」のすべての能力が向上するのは当然です。そして、より多くの人たちが音声入力ソフトを使うようになれば、キーボードを使うのが苦手な人、あるいは使えない人たちにとっても、パソコンがより便利なものになることでしょう。これもまた、一つのバリアフリーの実現であると言えます。はじめへ
※追記―これを機に「音声入力実践メーリングリスト」を開設しました。声の言語と音声入力の技術に関心がある方はぜひご参加ください。音声入力ソフトをまだお持ちでない方も参加できます。詳しくはメールでお問い合わせください。
2004年10月22日(金)公開 (9)「朗読」のための4つの要素 近ごろ朗読についての定義があいまいである。ほとんど音読と同じような意味で使われている。たとえば、「裁判所で判決文の朗読が行われた」などというのが代表である。朗読の「朗」の字の連想から大声で「朗々とよむ」ものと思われている。しかし、声の大きさが問題なのではない。何のために、何をどのように読むかが問題なのである。朗読がどう定義されているのか、いくつかの辞典を見よう。『大辞林』では「声を出して文章などを読むこと」、『広辞苑』では「声高く読み上げること。特に、読み方を工夫して趣あるように読むこと」、『新明解国語辞典』では「〔鑑賞・紹介などのために〕文学作品や手紙などを、皆に分かるように音読すること」とある▼この3つの定義から4つのポイントがわかる。第1に、「声に出して」よむことは共通の前提である。第2は、何を読むのかという点である。『大辞林』では「文章など」といい、『広辞苑』では何も上げていない。しかし、『新明解国語辞典』では「文学作品や手紙」と定めている。第3に、朗読の目的である。『大辞林』でも『広辞苑』でも明確にされていない。ただ一つ『新明解国語辞典』で「鑑賞」と「紹介」だとしている。そして、第4に、どのようによむかというよみ方の問題である。『大辞林』では単に「声を出して」、『広辞苑』では「よみ方を工夫して趣あるように」、『新明解国語辞典』では「皆にわかるように」とある。このあたりが重要である。「趣あるように」とか「皆に分かるように」とは、聞き手への聞こえ方の問題である。「皆」というのは、ふつうは聞き手のことであるが、わたしは読み手自身をも問題にしたい。よみ手も「皆」に含まれるのだ▼以上をまとめると、(1)おもに文学作品をテキストにして、(2)読み手と聞き手との双方の作品鑑賞のために、(3)作品の内容を理解しつつ味わえるように、(4)声に出してよむことである。すべての要素がそろえば朗読になる。いずれかの要素が欠けたら別のジャンルになる。たとえ声に出して文章をよんでも、文学作品ではなくニュース原稿や説明文をよむならアナウンスあるいは音訳である。発信者から受信者への情報の伝達ならアナウンスである。作品の内容を離れた演劇的な演出はよみではない。NPO朗読文化協会では「音読」から区別した「朗読」を定義している。「声を出して読むこと――これが音読です。そしてさらに人間の複雑な感情表現を付加して、そこにドラマティックな世界を創ること――それが朗読″です。」▼以上の4つのポイントから「朗読」の評価基準も見えてくる。よみを聞いて作品が鑑賞できるかどうかにかかっている。作品の世界が目に浮かび、心が動き出し、感動できるかどうか。そのためには、よみ手がどのような作品を選ぶか、作品をどう理解するかが重要になる。発声、発音、アクセント、イントネーション、プロミネンスなど、音声表現のすべての要素も以上の目的を実現するためのものだ。音声のための音声となってはならないのである。 はじめへ
2004年10月17日(日)公開 (8)「高さアクセント」から「強さアクセント」へ 一般的に日本語のアクセントは高さアクセントであると考えられているが、実際には強さアクセントもある。たとえば、芭蕉の「古池やかわず飛び込む水の音(ふいけや かず とこむ みのおと)」という句は、高さアクセントの考えではアクセントなしとなってしまう。しかし、それぞれの区切りの二音節目、太字で示した「る」「わ」「び」「ず」に強さアクセントがある。頭高アクセントの語で始まる場合をのぞけば、二音節目の強さアクセントが、日本語の強さアクセントの原則である▼高さアクセントが有効なのは、声の強さを一定にした場合である。マイクを使った放送やアナウンスでは、録音の都合で強さの変化はきらわれるから高さで表現する。これだけ高さアクセントが定着したのは、もっぱらNHKに代表される放送のためのアクセント研究によるものだろう。高さアクセントの欠点は、アクセントをつけるとき、高いアクセントの声がウラがえる危険である。しかも、高さアクセント一本やりでは説明できない例外的な現象が出てくる。たとえば、「暖かな(あかな)」である。赤字は「高さアクセント」、青字は「強さアクセント」である。高さアクセントの「一語にアクセントは一つ」という原則が崩れてしまう。赤字で高くなった次の青字において急に音が低くなるように聞こえる。だが、それは低くなったのではなく、強さアクセントなのである。「高さアクセント」の考えでは「強さ」が聴き取れない。音声言語の研究者・杉藤美代子氏は、この現象を「おそ下がり」という例外的な現象として説明している。これと反対に、「早下がり」という現象もある。「驚く(おく)」の例である。高さアクセントは「ろ」にあるのだが、その前の「ど」は音が低くなって聞こえる。実際には「強く」なったのであるが、高さアクセントの考えでは「低い」と感じるのである。それで「早下がり」と呼ばれる。(わたしの考えでは、音声分析のサンプルとしてアナウンサー声を使ったためと思われる。俳優のような発声訓練を経たサンプルではどうなるのだろうか) ▼以上のように、高さアクセントの理論が発声方法にまで影響を与えているのである。近ごろの女性アナウンサーには、ウラ声の発声をする者が増えている。それも、高さアクセントの理論からくる必然的な結果である。高さアクセントの持っている弊害は発声という声の基本にまで及んでいるのである ▼アクセントの種類としては次の三つが考えられる。  A 高さアクセントB 強さアクセントC 高さ+強さアクセント。  強さアクセントを立てるならは不要になるから、アクセントはを考えればよい。この原則で行けば、前にあげた例の「暖かな」も「驚く」も、原則通り一つのアクセントで解決できる。つまり「あたかな」の「た」、「おどく」の「ろ」にC高さ+強さアクセントをつければよい。一つのアクセントならよみ手も集中しやすいのでアクセントの矯正もしやすくなる。近ごろ問題になる若者のアクセントの「平板化」も「強さアクセント」つまりは表現力の不足が原因なのである ▼以上の結果、これまでの高さアクセントは、すべてになる。そのほかに、をもつ単語が多くなる。また、ある単語では、文中でか、どちらかを選ぶものがある。というわけで、これまでの高さアクセントに基づく『アクセント辞典』は、一部においてしか有効ではなくなる。あらたに、強さアクセントにもとづくアクセントの研究が必要になる。とくに、助動詞の接続による強さアクセントの変化などについては根本的な検討が必要であろう。 はじめへ
2004年10月11日(月)公開 (7)「読み」を「語り」にするポイント 「朗読」といっても、いかにも読んでいるものと表現になっているものとにちがいがあります。そのちがいのポイントは理論的に説明できます。文学作品、おもに小説のよみ方について、アナウンサー風のよみと俳優風のよみとのちがいを例にして考えてみましょう▼第一に、アクセントによる発声のちがいがあります。アナウンサーの場合には「高さアクセント」です。アクセントは強さではなく高さで表現します。アクセントのところで決まって声を立てるので必ずアナウンスになります。よみ手自身が自らの責任でコトバを確認するのではなく、聞き手に伝えようとする声になります。しかも高さアクセントのついた音(オン)がウラ声になりがちです。「高さアクセント」の原理はアナウンサーの発声までも規定しているのです。それに対して、俳優の場合には、強さアクセントの表現が基本です。アクセントのある音(オン)は地声による強い発声で行われます。舞台で高さアクセントの発声をするのには、中国の京劇のような独特のウラ声のプロミネンスの訓練が必要です。そのような発声訓練は行われていないようです▼第二に、イントネーションやプロミネンスの平板化です。アナウンサーの場合には、できる限り平らな音量と音調で読み上げます。そのために、基本的なイントネーションの必要な要素までが平板化される危険があります。たとえば、プロミネンスが必ずつくべき接続語「しかし」「だから」や副詞「かなり」「とても」「まったく」などが平らになります。また、「私はご飯を食べる」の補足文素「ご飯を」や、「青い空」の修体文素「青い」などのイントネーションも平らになります。それに対して、演劇ではイントネーションやプロミネンスを強く表現することが表現の課題です。ですから、俳優のよみではテンションが高まります。ただし、的確な文の読み取りがないと、とんでもないところにつけるというカンちがいも生じます▼第三に、「語り手」と「語り口」の重要性です。アナウンサーでも俳優のよみでも、文学作品を「地の文と会話」という構造で考えています。アナウンサーは地の文を読むようによみますし、会話の表現も得意ではありません。また、俳優は会話ばかりを舞台のセリフのように際立てて、地の文をナレーションのようによみがちです。文学作品は地の文と会話との区別ではなく、全体が語り手による語りだととらえて表現すべきです。作品の冒頭から語り手の語るセリフなのだという理解が必要なのです。 はじめへ
2004年10月3日(日)公開 (6)「朗読」と二つのバリア バリアフリーというのは障害者と健常者の差を取り除くための運動です。わたしは文学作品の「朗読」の世界にも二つのバリアを感じます。それをとりはらう努力をすれば朗読の質はもっと高まるし、もっと多くの人たちに広まると思うのです▼ 一つは、視覚障害者と健常者とのバリアです。つい最近までは、朗読といえば「音訳(音声訳)」(注1)と思われていました。「朗読」をしているというと「ああ、テープに録音するのですね」とよく言われたものです。音訳とは視覚障害者のためにさまざまな本や実用的な文章などを読んで録音する活動です。音訳のバリアとして、音訳者の録音したテープなどは一般の人たちは聞けません。録音を保存している施設などでは視覚障害者以外への貸し出しは禁止です。著作権に関する処置のようです。そのために音訳は一般の人たちから区別された特殊技術となります。「視覚障害者の目の代わりである」と考えて文字を文字として読む読み方です。聞き手はそれを二倍の速度にして聞くのだそうです。点字が読めるならばそのほうがいいのだが仕方なく音訳に頼るという人も少なくないようです。音訳は役所の福祉事業や宗教者の奉仕事業として行われてきたようです。そのためになおさら特殊な基準で行われた面があるのだと思います▼ もう一つは、子どもとおとなのバリアです。おそらく「音訳」についで多いのが「読み聞かせ」(注2)だと思います。もちろん母親が個人的に子どものために読むことについては自由でいいと思います。しかし、公共の場で行われる読み聞かせは、いわば母親たちの読み聞かせの手本となります。保育園幼稚園小学校中学校などで行われる場合が問題です。わたしは「子どものため」という限定された考えかたにバリアを生み出す危険を感じます。おとながいっしょに聞いても楽しめるような「読み聞かせ」こそ、教育の場にふさわしいものです。成長と発展の過程にある子どもたちにこそ一級の価値のあるものに触れさせるべきだというのは教育の根本的な理念です。その意味では、公共の場で「読み聞かせ」にかかわる人たちには、子どもたちだから許されるよみではなく、おとなたちも巻き込んで読みに耳を傾けられるような質の高い読みをするような努力と研鑽が求められるのです。
(注1)わたしの所属する日本コトバの会が日本点字図書館で音訳がスタートするとき大きな力を果たしました。参照本間一夫『指と耳で読む―日本点字図書館と私―』(1980岩波新書)。(注2)「聞かせ」が押しつけのように感じるので「読み語り」という呼び方もあります。 はじめへ
2004年9月26日(日)公開 (5)日本語は「高さアクセント」ではない! 鴨下信一著『日本語の呼吸』(2004筑摩書房)に、セリフが〈棒読み〉で困るという役者に「即効性のあるコツ」として、「セリフの二字目、正しくは二つ目の音に表情をつけて〈埋め込んだセリフを起こす〉ことをあげています。これは日本語の表現とアクセントの本質に迫る問題をとらえたことばです。芭蕉の俳句「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」の二音節目を強くよんでみれば、鴨下氏のいう意味が分かります。そこは、いわゆるアクセントの位置ではありません。今では、日本語のアクセントは「高さアクセント」というのは常識のようになっていますが、この考えは日本語の特質をとらえていません。「高さアクセント」は放送のためのものであって、表現のためのアクセントではないし、日本の伝統的なアクセントではありません ▼そもそもアクセントは、「高さアクセント」と「強さアクセント」の二つです。 (高さアクセント、強さアクセントとはいうものの、 低も弱もアクセントにはなりません)。わたしは朗読のためのアクセントは 強さアクセントだと考えます。強さアクセントだけで表現的なよみができます。むしろ、高さアクセントは表現にはジャマです。高さアクセントのよみには欠点があります。 たとえば、「レンズを正面から見る。」という文の「正面」 のアクセントです。「正面(しょうめん)」の高さアクセントは「め」 にあります。しかし、実際のよみでは「しょう」に強さアクセント おかれます。「しょう」に力を 入れてよんでから、「め」を高く上げます。この連続する二つの操作には ムリがあります。「め」の声をウラ返すようにしないと発音できません。 アナウンサーのような発音になってしまいます。 このアクセントで表現をするのはむずかしいことです ▼「高さアクセント」に疑問を出したのはネウストゥプニー(1966)という人で 、「早下がり」「おそ下がり」と呼んでいます。国語学者・大 西雅雄も、「日本語のアクセントは高さだけではなく強さとの総合 で考えるべきだ」と述べています。 「早下がり」というのは、「驚く(おどろく)」のように高さアクセ ントの前に強さアクセントがある場合です。この語の高さアクセン トは「ろ」なのですが、その前にある「ど」を強めてから――強さ アクセントの意識のない人では、これも高さアクセントで表現する こともあります。それで、本来のアクセントの前から音が上がるよ うに感じます。音声波形を調べても実際にそうなります。 そして、「おそ下がり」とは「暖かな(あたたかな)」のように高さ アクセントのあとに強さアクセントがある場合です。つまり、二つ ある初めの「た」が高さアクセント、次の「た」が強さアク セントになります。高さアクセントを中心に考える人は、 どちらの音(オン)も高く発音しますから、高さが次の音(オン)に影響 して「遅くさがる」と感じるのでしょう ▼このような問題の解決は簡単です。強さアクセント一本やりでアクセントをとらえてよむことです。高さアクセントを意識する必要はありません。強さアクセントを基本にしたよみをすると、鴨下氏のいうようにメリハリがつきますし、また、助詞を力(りき)んでよむような癖も簡単に取れます。このようなよみ方は、日本の伝統的な表現――義太夫や狂言や講談などの語りかたを裏づけます。「真理は常に単純である」という格言はアクセントにおいても通用します。 (参考杉藤美代子『音声波形は語る(日本語音声の研究4)』1997 和泉書院) はじめへ
2004年9月15日(水)公開 (4)学校には「音読」も「朗読」もない 学校教育では、以前に一度、音読・朗読が重視されたことがありますが、平成十年(1998)に出された現行の「新指導要領」では音読・朗読の指導は消え去っています。ところが皮肉なことに、斎藤孝著『声に出して読みたい日本語』(2001)によって、今では、声に出して本を読むことの肉体的・精神的な有効性が社会的に認められるようになっています ▼現行の「新指導要領」の特徴は、完全週休五日制を基本とした「ゆとり」と「生きる力」の養成です。教育内容の厳選、総合的な学習の時間の設定、成績の評価法の変化などがありました。その後、平成十五年(2003)に原則をいくらか修正したものの根本は変わりません ▼朗読教育は声のコトバの能力を高めて「生きる力」を育てます。それなのに指導要領の小学校国語に「朗読」の文字はありません。五、六年生に一か所「易しい文語調の文章を音読し、文語の調子に親しむこと。」とあるだけです。中学校では、二年生の「古典」で「なお、指導に当たっては、音読などを通して文章の内容や優れた表現を味わうことができるようにし」と、読みについて「目的や必要に応じて音読や朗読をすること。」と二つあるだけです ▼学校教育で音読や朗読が重視されたのは、今の指導要領の一つ前、平成元年(1989)の学習指導要領でした。小学校から中学校まで一貫した音読・朗読の教育方針が設定されています。小学校一―四年は「音読」、小学校五、六年と中学校では「朗読」とよばれて学年ごとの設定があります ▼小学校――第一学年「話や文としてのまとまりを考えながら音読すること。」、第二学年「文章の内容を考えながら音読すること。」、第三学年「文章の内容が表されるように工夫して音読すること。」、第四学年「事柄の意味、場面の様子、人物の気持ちの変化などが、聞き手にもよく伝わるように音読すること。」、第五学年「聞き手にも内容が分かるように朗読すること。」、第六学年「聞き手にも内容がよく味わえるように朗読すること。」。中学校――第一学年「文章の内容や特徴がよく分かるように朗読すること。」、第二学年「文章の内容や特徴に応じた読み方を工夫して朗読すること。」第三学年「文章の内容や特徴を生かして効果的に朗読すること。」 ▼以上の項目を見れば、朗読教育をどのような方向にすすめればよいのか分かります。このような指導で小学校から中学校まで教育されたら、きっとすばらしい読み手が育ったことでしょう。ところが、前に書いたように九年後の指導要領において「音読」「朗読」ということばはいっせいに姿を消しました ▼朗読というのは、ただ大きな声を出して本を読むことではありません。それは「音読」です。文章には文字とともに意味が含まれています。本を読むことは、ただ文字が声になるだけのことではなく、よみ手自身がその意味を読み取って、よみ手自身の表現として声に出すものです。ですから、声に出して読むことによって、そもそも、本を読むとはどういうことか、どのように読んだらいいのかという根本が問われることになるのです。(「はなしがい通信」218号より引用) はじめへ
2004年8月11日(水)公開 (3)「語り」と「朗読」との関係 「朗読」と対比的に使われる「語り」ということばがある。近ごろ「語り」と銘打ったよみに出会うことがある。共通するのはテキストを持たないということである。そして、そのことに大きな価値を感じているようである。これはなぜだろうか。第一に「演劇」と「朗読」との差別化によるものである。ごく常識的な見方をすれば、「朗読」はテキストを見ながらよむのだからいかにも素人らしい。しかし、セリフをすっかり暗記しているとなると、それは稽古にかけられた時間を示すことだからいかにもプロらしい仕事と思える。だから、「朗読」においても、演劇のように覚えてしまった方が価値がありそうに見える。第二に、「朗読」の質の向上という目的がある。かつて「朗読」とは、「文学作品などを鑑賞したり味わったりするために声に出して読む」というものであった。ところが、声を出すことを目的としたブームのなかで、「朗読」の表現としての価値が失われてしまった。「朗読」はますます単なる「音読」に近づいてきている。そこで、表現としての「朗読」を目指す人たちは、「読む」ことに反旗をひるがえしてテキストを捨てたのである。テキストを捨てれば読まずに語れるだろうという見通しだった。しかし、わたしが聞く限り、この方法は効果を上げていない▼そもそも「語り」とは、口頭伝承の世界のものである。いまだ文字というものがなかった時代の行為である。およそのすじがきを知っている物語を、語り手が、即興的にその場その場で思いつくことばで話を組み立てるものだ。だから、決まった言い回しが繰りかえされたりするのもめずらしくない。日本の説経節などはその代表である。近ごろ行われる「語り」の場合には、いったん文字のテキストにされたものをそのまま暗記して、そのままのことばで口に出すものだから、その点からしてちがっている。即興的なことばの新鮮さは失われる▼中川一政という画家がいる。抽象に近い作品を描くのだが、モデルの存在が不可欠だそうだ。というのは、モデルを見てそこから感じた感動をキャンバスに表現するのだそうだ。それをムーブマンといって芸術の本質であると述べている。もしも「朗読」が芸術となるとしたら、その可能性はここにあるだろう。中川のやり方はいわば芸術の表現過程を圧縮したものである。つまり、人間の感動は常に外部から来るものである。人間は生活の中でいろいろなものを内面に受け入れている。それが何かの切っかけで表現意欲を引き起こした結果、何らかの表現となるのである。重要なのは外部から内面に入ってくるものについて、いかに深く取り入れ、また強く感動しうるかということである。感動なしに表現されるものがろくな表現にならないのは見えている。暗記したことばを「語り」とするよりも、テキストを読みながら「朗読」する方が深い感動の表現になるかもしれない▼そこで問題にしたいのは、実際に行われている「語り」そのものの質である。わたしは残念ながら「なるほど語りだ」と思うものを聞いたことがない。目を閉じたらテキストを読む姿の思い浮かびそうな「朗読」である。「朗読」で問われることは、文章を読むか作品をよむかである。文章を読むという初歩の朗読が発展すれば作品がよめるようになる。そのとき作品を語ることになる。文学作品において「語り」の主体は「語り手」である。「読み手」は「語り手」を無視できない。作品の「語り口」を声に表現すればいいのだ。そのとき、「読み手」は「語り手」と一体化する。だから、「語り手」の把握が重要になる。作品の文章を読むのではなく、「語り手」を表現すると考えるのが表現の早道である▼「読み」の特徴は声の調子が一定で安定していることだろう。それは読み手が冷静に文章を声にしているということだ。それに対して、「語り」では、テンポは一定でないし、声も強くなったり弱くなったりする。強調したいことばがあれば強くなるし、感情とともに声が変わって裏がえったりする。それらのすべてが表現の特徴なのである。岡本太郎もいうように、表現というものはきれいで整っているのではなく、どこかごつごつしていたり、気持ちよく感じさせないようないやったらしさが含まれることもある。そのような「乱れ」は字づらを読んでいる限りは生じない。「語り」とは、音声学のレベルで評価されるものではなく、「語り手」を表現する「読み手」の表現においての評価である。 はじめへ
2004年7月26日(月) (2)表現としての「朗読」とは 「朗読」は表現にならないのだろうか。いつまでも、朗読は「朗読」にとどまるのだろうか。そもそも朗読とは、声に出して作品を人に伝えるということと、もう一つ文学作品を味わい鑑賞するという二つの意味がありました。もしかして、最初は作品を声に出して人に聞かせることであったかもしれません。しかし、作品をよんでいるうちに、よみ手自身が作品の感動にふれていつしか作品とともに声をゆるがせて表現するということはないのでしょうか。かつて、NHKラジオで、アナウンサーによるおもしろい太宰治「カチカチ山」の「朗読」を聞いたことがあります(1999.8.29NHKラジオ文芸館/長谷川勝彦アナウンサー )。最初のうちはアナウンサーらしい落ち着いた「朗読」でしたが、終盤に近づいてくるにつれて興奮が高まり、いつしか本人がまるで主人公のタヌキのような心情で声をふるわせて表現していました。これは何よりもまず太宰治の作品のもつ力によるものですが、また文字の作品を音声にして伝えるということにとどまらない朗読の本質を示すものです▼日本の朗読理論は放送の表現と切り離せないものとして形成されてきました。放送のためにはマイクに乗りやすく、音声の技術的な処理がしやすい声が求められました。声の強弱についても、声の質についても一定のものがよいのです。アクセントについても、強弱ではなく高低に絞られて研究されてきたのも、放送のための声という前提があったからです。文学作品の表現よみは放送のための朗読という考えを打ち破るものです。第一に、高さアクセントではなく、コトバの背後に隠れた強さアクセントの強調、第二に、イントネーションと声質の変化の表現、第三に、文学作品の語り口に必ずひそんでいるプロミネンスの発見――まずは以上の三点の表現です。実際の表現技術を付け加えましょう。第一は、日本語の強さアクセントは文節ごとの第二音節にあります。「ふルいけや かワずとビこむ みズのおと(カタカナがアクセント)」。アクセントは音としては表面に出ませんが、声帯の筋肉を「ムッ」と緊張させて力の入った音です。演劇で言う「呑む」という表現だと思います。この第二音節を重く強くすることによって、日本語のリズムをともなったメリハリのあるよみになります。これを逆に軽く高くしたのが軽薄な語り調子です。第二は、地声に対して一オクターブ高いウラ声の表現です。ウラ声というと極端に高い声だと思われますが、声の高低に関係なく、軽く高いウラ声は表現できます。文の三つの成分のうち、主要成分は地声、必要成分と補足成分はウラ声という具合に文法的な構造でよみわけられます。第三は、プロミネンスが体全体の緊張に支えられていることの確認と、ふたとおりのプロミネンスを区別することです。副詞、接続語、指示語などは原則プロミネンスです。そこにさらに、文と文とをつなぐ文脈プロミネンスが加わることで、作品の文脈の展開が、よみ手には意識されるとともに、聞き手にも明確に伝達されるのです。そうして表現よみの大前提は、文学作品は「語り手」によって語られるもので、その「語り口」は語り手と人物たちのさまざまな声の交流によって生まれるということです。 はじめへ
2004年7月15日(木) (1)よみのリアリティとは 舞台のよみ声とにしらじらしさを感じるようになったとき、わたしは演劇に対する関心をなくしました。それ以来、ほとんど舞台に足を運ばなくなりました。もう三十年も前のことです。いわゆる舞台らしい声とは、わたしたち観客に向かって聞こえてくるのではなく、舞台の上空にまるで花火のように打ち上げられるものです。冷たくきどっているようであったり、あるいは極端にテンションが高いのに何の感動も伝わりません。観客などそっちのけの声です。それを鴻上尚史のように観客に届かない声という人もいます。しかし、それは発話者自身が、語るべきコトバの意味を理解していないのです。声の表現の多くは、自ら発するオリジナルのコトバではなくて、他の人がテキストにまとめたものを利用します。たとえ暗記してそれを声に表現するにしても、オリジナルのテキストの意味と、それをよむ者との間に理解の差はあります。世に行われている「語り」の多くが表現にならないのもその例です。テキストとよみ手との距離をどれだけうめられるか、ここに表現よみの理論と実践の出発点がありました。つまり、テキストをよむのではなく表現すること、その基礎にテキストの理解を置いたのです。そして、よむたびごとにテキストの理解と表現を生み出すための実践が行われています▼表現は必ず様式化するものです。しかし、様式の背後によみ手の理解があれば、そこにはリアリティが生ずるはずです。演劇以上に声のリアリティを失っているのが、アニメーションや外国映画にあてられた声の表現です。映像とともに声を聞くならさほど気にならない声でも、映像を見ないで声だけ聞いたら異様に感じられるでしょう。吹き替えの世界はある種の型と様式で固まった表現が大多数です。かつて外国映画というと西欧のものでした。日本人とは体つきも顔つきも表情もちがう西洋の俳優たちが登場する世界に、わたしたちの日常とはまるでちがう声の表現が登場してもさほど違和感はありませんでした。しかし、近ごろ流行する韓国映画には、日本人と区別できない顔つきをした人間が登場してさまざまな表情を見せます。そこから想像されるの声と吹き替えの声とのちがいには大きな違和感を覚えます。アニメについては、デフォルメされた画像とのバランスをとるために声もデフォルメするという説明はできます。しかし、たとえそうであってもその背後になんらかのリアルさがほしいのです。狂言の擬音語や擬態語は完全に様式化されたコトバです。ノコギリで切る動作には「ギシ、ギシ、ギシ」と音どおりの声がつきますが、それが演じ手によってリアルになったりそうでなかったりまちまちです。そこに芸の深さがあります。アニメや外国映画の吹き替えは商業的レベルでの及第点があります。それは芸術や表現のレベルではなく、いわば職人的な仕事の妥協レベルです。声の表現の世界が商業的なレベルを超えて、リアルな表現になったとき、舞台の感動が生まれるでしょう。はじめへ