コトバ表現研究所
はなしがい 201号
2003.3.1 

 今、イラクの首都バグダッドはアメリカの軍隊に包囲されています。戦争と呼ぶにはあまりに一方的な戦闘が続きました。毎日の報道を見ても重要な事実がなかなか見えてきません。とにかく、はっきりしているのは、殺されたり傷ついたりする人たちは無防備な一般市民だということです。とくに子どもたちの生命が心配です。

●国語教師・大村はま先生

 二十年ほど前、わたしは中学生の補習塾で国語の講師をしていました。当時、いつも分厚いレターファイルを抱えて塾に来る男子がいました。それは何かと尋ねると、国語の教科書だといいます。中を見せてもらうと、学級通信やら資料やら作文やら雑多なものが綴じ込まれています。授業で普通の教科書は使わないし、個々人の持ち物がみなちがうというのです。わたしはその重さに驚きましたが、塾にまで持ち込んで資料の整理をするようでは負担になると思いました。どんな先生か気になったので名前を聞きました。「有名らしいよ」と前置きして答えた「大村はま」の名は記憶に残りました。

 最近、大村はま/刈谷剛彦・夏子『教えることの復権』(2003ちくま新書)が刊行されました。刈谷夏子は大村はまの教え子で、夫の剛彦は教育社会学専攻の学者です。それぞれの立場から、大村はまの教育方法を振り返って「教える」ことを問い直しています。おもしろい構成の本です。まず、夏子の書いた序章、次に大村はまと夏子との対話、さらに剛彦が加わって話しがすすみ、まとめを剛彦が書き、あとがきは大村はまです。表紙カバー裏の三人並んだ写真には、刈谷夫妻が大村はまを囲んで話し合った楽しそうなようすがうかがわれます。

 大村はまという人の国語教育のすばらしさは、夏子との対話から浮かび上がってきます。「ことばの力」という言語能力の教育を目標として、毎日の授業にはさまざまな工夫があります。夏子は、大村はまの授業の第一の魅力に「迫力」をあげています。それは、子どもたちにどんな能力をつけさせるか、そのために日々の授業でどう発言をし、行動するかという基本から生まれます。たとえば「お詫び」です。中学校に入学してきた新入生への最初のあいさつで大村はまは次のように言います。
 「ここは中学校です。大人になる学校です。国語の時間としては、これからは一ぺんでものを聞いてほしい、わたしの言うことは一ぺんで聞きなさい」

 中学生を大人として扱うことを前提に、大人にとってもむずかしい注文をつけます。教師が生徒を大人としてみれば、生徒も期待にこたえて大人らしく振る舞います。ただし、生徒を救うための「お詫び」の道も用意されています。
 「わからなければ二度でも三度でも言うけれど、お詫びをしなければ言わない。大人は聞きそこなったりすると、恐れ入りますがどんなお話でしたかというのだから、それを国語の時間にやってほしい」
 「お詫び」は、配布されたプリントをもらい直すときにも求められたそうです。お詫びの表明は、その前提となる善悪のモラルの学習にもなっています。

●「ことばの力」を育てる教育

 大村はまの教育は、いま学校で「総合の時間」として行われている「体験学習」への批判につながります。かつての詰め込み式の教育が批判されて、生徒の自主性や意欲の重要性が強調されました。ところが、それが極端にすすんで、教師が教えないとか、評価しないところまで行ってしまいました。
 大村はまは、教師の責任で「教える」のです。とはいっても詰め込み式になるわけではありません。その代表例が「てびき」です。生徒が本を読むとき、考えを導く手がかりとなることばをプリントして渡します。生徒は「てびき」を見ながら読書をします。「てびきプリント」の例は次のような項目です。@からOまで紹介されたうち、初めの五つを紹介します。

 「@これは問題だ。考えてみなければならない。Aこれはおもしろいことだ。もっと調べてみたい。Bほんとうに? それでは考えてみなければならない。Cそうだったのか、それでは、これはどうなのだろうか。Dこれはおどろいた。どうしてだろう。」

 大村はまは、教師が「教えない」ことへの疑問として次のようなエピソードをあげています。作文教育の研究授業のとき、ある男の子が友だちの批評を受けて文を書き加えました。先生に「どこに入れたらいいか」と質問をしましたが、先生は何も教えずに、その子の頭をなでて「それはこのいい頭が考えるのよ」と言ったそうです。他の先生たちには、その情景が好評でしたが、大村はまは一人むっとしました。何も教えていないという不満です。

 大村はまが、生徒たちにどのような「ことばの力」をつけさせようとしているのかは、次の二つの実践でよく分かります。
 第一は、「ことば」ということばの用例を教科書一冊の全体からカードに拾い出して意味を分類する授業です。八十枚あまりのカードの用例を二つずつ比較して、いくつかの同類の意味をとらえる作業です。夏子は授業の成果を次のようにまとめています。
「この単元で教わったいちばん大事なことは、こつこつとした作業を確実に誠実に重ねていくと、ちゃんとある程度の仕事ができるということだ。高級なひらめきや、鋭い洞察力、そういう特別の才能のような飛び道具など使えなくても大丈夫、一定のレベルの成果は得られる。材料と方法さえきちんとしていれば、いつも目の前の二つを検討するだけでいい。」

 第二は、著名人によって書かれた「私の履歴書」という本を読んで発表する授業です。いきなり発表させるのではありません。はじめに、もし自分の履歴書を書くなら、どんなことを書くかについて考えさせます。生徒たちは、何を書こうか構想案をメモします。しかし、それは途中で書いても書かなくてもいいことにします。その代わり、一人ひとりの生徒に、関心の持てそうな著名人の「私の履歴書」の本が手渡されます。自分の履歴書をどう書くか考えたことで読書の態度が転換します。自分が書くために読むという主体性が生まれます。
 この本には紹介したいことがまだまだたくさんあります。教師が生徒に「静かにしなさい」ということの無念さ、話し合いの教育では自ら手本を示すこと、生徒を成長させる手がかりになるようなテストの工夫など、大村はまのちょっとした一言に奥深い内容があります。それらは国語教育だけでなく、一般的な人間教育にも通じる知恵です。

バックナンバー(発行順) ・ 著作一覧(著者50音順)