コトバ表現研究所
はなしがい164号
2000.3.1 

 先月末に引越して一週間たちますが、ダンボールの積み上げられた家の中はまるで倉庫です。なかなか落ち着きませんが、以前から気になっていた国語教育の本を読みました。工藤順一『国語のできる子どもを育てる』(1999.9.20/講談社現代新書)です。出版直後に立ち読みしたものの買わずにいた本でした。というのは、この人は子どもたちに多読させるために、音読をさっさと通り抜けることをすすめていたからです。今回もやはり音読についての見解には賛成できませんが、国語科教育と子どもたちの現状については、いろいろ知ることがありました。

●「コボちゃん作文」と書く力

 この本は、「書くこと」「読むこと」「読解力とは何か」の三章から構成されています。「書くこと」の章では、「コボちゃん作文」がおもしろいものでした。植田まさしの四コマ漫画『コボちゃん』を材料にして、その内容を作文に書かせるのです。子どもたちは漫画をイメージとして読んでいますが、内容をコトバに表現して理解を深めることができます。この実践は、作文教育は思考力の教育であるという考えから来ています。この考えには、わたしも賛成ですし、「コボちゃん作文」を作文の初歩ととらえる意見にもうなずけます。

 「この段階はまだ自分の意見や感想を書かせるものではありません。まず正確なことばの使い方を学ぶ段階です。それには客観描写が一番だと考えます。「もの」や「ことがら」がどのように配置されているか、それをきちんと書き分けられないのに、意見も感想もないではないかと私は考えるのです。逆に、まず、対象をよく見て客観的に理解し、ものやことがらの配置をできるだけ客観的に性格に描こう、書こうとする努力の中に、主観的な部分、意見や感想はおのずとしみ出てくるものです。」

 もうひとつ、おもしろいアイディアは「プロセス原稿用紙」「アウトライン原稿用紙」です。この二つの組み合わせで、作文の手順がシステム化しやすくなります。ただし、思考の段階について理論的な追求が甘いので、ほかの人たちが使えるかどうかは疑問です。

●音読教育の問題点

 「読むこと」の章では、その発達を五段階でとらえています――第一段階〈小学校低学年〉おしゃべりと黙読への導入/第二段階〈小学校中学年〉黙読の自立化/第三段階〈小学校高学年〉仮想現実を生きる試行錯誤/第四段階〈中・高生〉身体の覚醒と現実への帰還/第五段階〈高校生以上〉現実の更新と新しい共同性の構築。

 しかし、「読むこと」それ自体よりも、それを足場にして実現される抽象的な教育目標のほうに関心があるようです。黙読による多読が最大の目標として、たくさん読めばいいというようです。せっかく「思考力」を問題にしたのに、どんな読みが思考力を高めるのかについての考えは深まっていません。

 第一段階は、音声と結びついた言語を獲得するために重要だというのですが、取り上げられるのは、子どもとの「おしゃべり」と、子どもといっしょの「音読」くらいです。

 「この時期、おしゃべりが非常に大切なのは、人間のはじめのメディアは身体であり、とりわけ声こそ人間が初めて獲得したテクノロジーだからです」

 「決してあせらず、子どもに音読をたっぷりさせることが大切です。それが黙読の基礎を作るのです。学校でするような元気な音読ではなく、普通の声でよいのですが、日本語特有の文末のややこしい表現ははっきりと発音させるべきでしょうし、慣れさせるべきです。この時期をたっぷりとったかとらなかったかで、次の段階が決まるといって過言ではないでしょう。」

●声優・俳優のコトバの力

 わたしは今、よみの舞台公演の練習中です。わたしのホームページがきっかけで、AAT(オーディオ・アミューズメント・シアター)というグループといっしょに舞台に立つことになったのです。

 リーダーの平井隆博さんは俳優・声優・演出家です。以前から声の表現にこだわりがありました。それで、一九九三年にAATを結成して舞台で聴くオーディオドラマの活動をはじめたのです。

 今回の第四回公演で取り上げる作品は、太宰治『お伽草紙』「浦島さん」と池澤夏樹『南の島のティオ』です。語り手と人物のセリフを分担してよむのですが、朗読でも、ラジオドラマでも、芝居でもないリアルな声の表現をめざしています。

 これまでわたしは正直なところ俳優や声優の声の表現には不信をいだいていました。見せかけばかりで内容のない声の表現する人ばかりだと思っていました。とくに声優といったら、ウソっぽい作り声をするものと思っていましたが、「声優のよみ」と一くくりにしてはいけないと考えるようになりました。問題はジャンルではなく、いいよみかどうかです。ジャンルを問わずいいものはいいのです。

 今回のメンバーは演出家が一人、読み手はわたしのほかに男三人、女四人の合計九人。最初は文章の内容を探るような基本的なよみからはじまりましたが、回数を重ねるごとに、どんどん作品の内容に迫る表現へと発展しています。一貫しているのは、発声、発音、アクセント、イントネーションなど基本の正確さです。また、最初の練習からいきなり三〇分間、少しも衰えることなく、読み続ける体力にも感心させられました。そして、「ああ」とか「いえ」とか、たった一言のセリフでも、背後に流れている感情の動きを微妙な息づかいで表現しています。

 近ごろは、打ち合わせなどのお互いのコトバの美しさにも心地よさを感じています。それは単に表面上の声の美しさやマナーの問題ではなく、身についた声の表現力からくるものです。このひとたちはどうしてこんなにすばらしいコトバの能力を身につけているのだろうかと考えると、やはり音声言語の能力の訓練からくるものだと思えるのです。

 さて、国語教育では、音声言語の意義はどこまで深くとらえられているでしょうか。先に紹介した本ではあまりに軽いものです。わたしはプロの人たちの声の表現に接して、あらためて音声言語の能力の重要性を確認しました。音声のコトバの能力こそ、人間の内面と結びついた思想の表現手段です。

 AATの公演まであと一週間です。これまでの朗読や芝居とはちがった声の表現の可能性をどこまで証明できるでしょうか。わたしも楽しみながら練習をつづけます。


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