コトバ表現研究所
はなしがい156号
1999.7.1 

 わたしの勤める調理師専門学校に、近ごろ年配の学生が目立ちます。十年ほど前にもバブル期の転業を目ざす人たちがいましたが、今はリストラなど先行きの不安からのようです。年配の学生が教室にいると、わたしもいい意味で緊張を強いられます。

 あるとき、首都圏移転に十二兆円かかるという新聞記事をとりあげて、ほとんどが建築費だろうと話すと、「先生、そのほかにパソコンのネットワークなどの設定にもかなりの金がかかるのですよ」とNくんが詳しく解説してくれました。なるほどと感心して以前の仕事を尋ねると、パソコン関係の会社にいたということでした。

●昔の学生と最近の学生

 先日、学校の帰り道でNくんといっしょになりました。交差点で簡単な挨拶を交わして歩きだしました。たいていの学生は歩くのが遅くてすぐ離れてしまうのですが、Nくんはぴったりついてきます。

 わたしはNくんに話しかけました。校外では、学生と教員という関係は意識したくないのですが、学生は教員には話しにくいだろうから、こちらから話すべきだという気持があります。

「どうですか、学校についての感想は。期待した通りの内容でしたか」

 わたしは自分の授業の批評も含めた反応を期待していました。Nくんは歩きながらこちらを向いて答えました。

「昔の学生とは、ずいぶん授業態度がちがいますね」

「Nさんは、昔なんていうほどの年なのですか」

 わたしはNくんの年齢については、それまで三十代半ばくらいかと思っていました。

「ええ、息子が中二になるんですから。もう、四十に手が届くんです」

「えっ、そうですか、とても若く見えますね」

 あらためてNくんを見ると、びんのあたりには白いものがあります。そして、男は若く見られるのはうれしいことではないという日ごろの自分の考えを思い出しました。

「わたしの席は前から二番目ですけど、そんな位置で、先生の声が聞こえない授業があるんですよ。それでも、先生がたは、ずいぶん気を使っているのか、やさしいんですね。昔だったら、先生にぶん殴られていましたよ」

「そうですね。今の学生は、ちょっときつく注意すると、意外なほどシュンとしてしまったり、傷ついたなんておこることがありますからね」

 わたしはNくんの遠慮がちな言い方を自分の態度への批評とも受け止めていました。

「いちばん驚いたのは、教養講座で漢字の勉強をすることと、先生のしている新聞の読み方の授業でした。昔は中学校でやったようなことですよね。それを、こんなに親切にやるのかと思いました」

「はあ、そうですか」

 わたしははじめ、Nくんが皮肉で言っているのかと思いました。しかし、四十になる父親の目で学生たちヘの理解を示しているようでした。

●新しい戦後エゴイズム

 最近、竹田青嗣と加藤典洋の対談『二つの戦後から』(1998/ちくま文庫)を読んで、現代の思想傾向について、なるほどと思うことがありました。

 戦後の思想の中心には、人の迷惑にならなければ、どんなことでも自分の欲求を満たしていいという考えがあった。単純に自分のしたいことはしていいという考えが、若い世代になるほど強くなっているというのです。

 この風潮に反対する人たちは、戦後民主主義の当然の結果であり、否定されるべきことであると考えます。「自由の履き違いだ」「我慢が足らない」などといって、この風潮を頭から否定してくつがえそうとします。しかし、今の若い人たちが、その価値感で生きて育ってきたことは引き返すことのできない事実ですから、その風潮自体を逆戻りさせたり、単純に否定することには意味がないといいます。

 では、どうするかというと、このような思想が発展して行くことによって、どのような新しい傾向が生れるかを見とどける必要があるというのです。

 これは「ものごとの肯定的な理解のうえに、否定的な要素をとらえる」という弁証法の哲学に通じるものです。現実を頭から否定するのではなく、その現実のなかに、その現実自身の状況をくつがえすような前進的な方向をとらえるという考えです。

●二一世紀の理想と教育

 あらためて最近の学生たちのことを考えると、希望を持てそうなのは、素直さ、率直さではないかと思います。わたしが専門学校で教え始めた二十年前の学生たちには、あらゆるものに対して斜に構えた感じがありました。ものの考え方にも、ある種の先入観や偏見が感じられました。

 しかし、今の学生には幼さを感じるほど率直なところがあります。真実を論理的に示すなら、率直に受けいれてくれそうです。ただし、長所は短所というように、ものごとを批判せずに、どんなものでも受けいれてしまう傾向もあります。よりよいものを求めようという熱気にも乏しいものがあります。

 さまざまなことを評価せずにそれなりに受けいれてしまうのは思想の怠慢です。ものを考えない判断保留の態度です。自信のなさの現われです。若い人たちの「やさしさ」の根拠もここにあるのでしょう。

 若い人たちには、人生にとって本質的な知識が必要です。学校教育では、ゆとりの時間の設定にはじまり、週五日制の実施がすすんでいます。学習の負担の軽減という考えから一律に学習内容も削減されています。本当に必要な能力とは何か、どのような能力を教育すべきかを根本から考えるべきです。

 そして、新しい戦後エゴイズムといえる若い人たちの価値観を、当人自身が自ら問いなおすことのできる思考能力、言語能力こそ必要なのだと思います。

 かつて、二〇世紀のはじめに、白樺派の人たちは、漱石が提起したエゴイズムの問題を、自我の自覚を基礎にしたヒューマニズムの思想へと発展させました。戦後の教育には、自我のありかたを軽視した民主主義やヒューマニズムの強調がありました。新しい戦後エゴイズムは、一面では、そのような傾向への反対意見であったのかもしれません。

 二一世紀を迎えようとする今、あらためて前世紀と同じように、エゴイズムからヒューマニズムへの発展が求められているのだと思います。


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