コトバ表現研究所
はなしがい129号
1997.4.1 
 毎年、新年度を迎えるこの時期に教育論の本を読むのを恒例にしています。今年は二冊の本に注目しました。一冊は、先月紹介したアメリカの天文学者クリフォード・ストールの本『インターネットはからっぽの洞窟』(1997年。草思社)、もう一冊は、先先月に紹介したフランスの教育哲学者オリヴィエ・ルブールの本『学ぶとは何か――学校教育の哲学』(1984年。勁草書房)です。

●コンピュータと人間の能力

 ストールの本は軽いエッセイのかたちで書かれていますが、根本の考えは鋭いものです。インターネットが様々な体験を可能にしたというがしょせんは擬似体験にすぎないというのです。

 「現実の生活や本物の経験を通じて得られるものは、モデム〔パソコンを電話線につなぐ装置〕経由で得られるものよりはるかに意義がある。情報文化は知識〔といえるもの〕ではなく、コンピュータネットワークは僕らの社会の大切な部分をむしばみつつある」〔 〕内は引用者

 パソコンとインターネットの問題がじつに細かく論じられています。教育の分野については、コンピュータによる作文教育はコンピュータ操作に時間を費やされるので内容を考える教育にならないこと、コンピュータソフトを使ってできるのは「○○国の首都は?」などというクイズのようなもので、アイディアをわかせたり考える能力を養う教育はできないといいます。また、インターネットに載せられている論文なども本として出版される価値のないものばかりで、電子メールもつづりのミスの目立つ雑な文章が多いといいます。

 コンピュータの情報処理能力を批評するおもしろいエピソードがあります。ストールが大学院生のとき、天文学の共同研究のために中国に行きました。古い時代の天体観測記録の研究をする教授は、データ計算を三角関数表とそろばんの手作業でやっていました。最新鋭のパソコンを持って行ったストールはすぐに計算プログラムを組んで、データの一部をあっという間に計算してみせました。そして、コンピュータを使えばもっと早く仕事ができると説明しました。すると教授が言うのです。

 「わたしの計算とくらべるとコンピュータの計算にはまちがいがある。それは観察記録が歴史的に均一であると想定しているからだろう。観測記録の精度は時代ごとにばらつきがある」

 ストールははっとしました。教授の手書きの計算では、あやふやな記述まで考慮に入れてデータ処理がされていたのです。

 このエピソードは人間の能力の価値を示すものです。単にコンピュータを使いこなすだけでなく、コンピュータの限界を知りつつ、自分で考える能力を育てることこそ教育の役割です。「では、何をどう教育したらいいのか」という疑問に根本から答えてくれるのがルブールの本です。

●「学ぶ」ことの三つの意味

 ルブールは「学ぶ」ことを三つに区分します。第一は、ものごとを知るという意味です。結果として得られるのが「情報」です。第二は、技能を習得するという意味です。本来の「学習」は能力の獲得を含むものです。第三は、ものごとを理解するという意味です。他人から知識を与えられるのではなく、自ら問題を検討して「研究」することです。「情報」「学習」「研究」のちがいがくわしく検討されたあとで、学校教育の意義、教師の役割、そして教育の目標が述べられています。

 じつに内容が豊かで密度があるので細かく紹介できませんからポイントだけお知らせします。

 「情報」の章では、情報は受け身に伝わるものでなく、送り手と受け手との主体にかかわるものだといいます。そして安易な映像教育の危険性を指摘します。「映像は、現実そのものであるかのような幻想を与える。しかし、実のところ、映像は、映像製作者の思うがままに左右されているのである。」

 「学習」の章では「失敗(つまずき)の教育」を提唱します。学校とは間違うことを許す場であるという考えがあるからです。「教育者の役割とは、生徒に対して自らの失敗をいかに活用するかを示すことである。〔中略〕失敗した原因についての説明を与えることもできる。しかも失敗したことが動機となって生徒がその原因を知ろうとすれば、ますますこの説明は的確に行なえることになる。」

 「研究」の章では、「理解」についてこう説明しています。「「原因や理由を通じてものごとを知ること」「どのように」にかかわる知識を越えたところに「なぜ」にかかわる知識、すなわち、理由、構造、原理の探求が位置づけられる。」

 ルブールは学校教育の性格を次のようにとらえています。第一に、学ばせることが意識的に行われるということです。日常生活からも学ぶことはできますが、それは自然発生的なもので、体系性や持続性に欠けています。じつは今の日本の教育政策では、この意識性を否定するような教育が行われています。新学習指導要領では科目の総合化による意識性の解消や評価の否定などがあります。第二は、知識を覚えこませるのではなく、行為を行なわせる営みだということです。これは道徳教育のように生徒をむりやり行動させるものではありません。知識が技能や能力として身につくようにすることです。

●子どもたちの動機

 教育されるべき子どもをとらえる目も確かです。教育では「動機づけ」や「やる気」が問題になりますが、たいてい二、三の動機がとりあげられるくらいです。しかし、ルブールは十四種類もの動機をあげています。はじめの七つは教育以前の「利害」にかかわるものですが、あとの八つは「学ぶ」行為によって育てられるものです。「@就職に対する考慮。A罰に対する恐れ。B報酬に対する期待。C競争心。D模倣。E教師との一体化。F生きるうえでの切迫した利害。G好奇心。H困難の克服。I大きくなりたいという欲求。J遊びに伴う喜び。K研究対象に対する興味。L作品を作る喜び。M協力」

 我が意を得たりと思ったのは、「能力形成の教育学」として述べられた終わりの二つの章です。ルブールは子どもの成長の核になるのは言語の能力だといいます。これはルブールの尊敬するアランが文章の読み書きを重視したことの延長上の考えです。

 惜しくもルブールは一九九三年に亡くなりましたが、まだ翻訳されない著作のなかに言語関係のものがいくつもあります。近ぢか翻訳予定のものに『教育の言語』(1984年)と『レトリック』(1984年)があるので、ぜひ読みたいと思っています。


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